第6回 新居町 ~ 名古屋 (2)  2001.12.27 ~ 29 (2泊3日)


2001年12月28日(金)
 早朝、真っ暗な中、ランタンを持って公衆便所に行く。
 入るとパッと電気がつき、『椰子の実』の曲が流れる。節電のため人が入ったときだけ点灯するようになっているようだ。
 大便所に入ると、トイレットペーパーも2巻並んでセットされている。なかなかいい便所だぞと思って用を足していると、突然曲が止んで、カチッと明かりが消える。まだ終わっていないのに・・・。設計者が早グソなのだろう。
 外の水道で歯を磨く。蛇口のコックがバネで戻るようになっていて、押さえていないと水が止まってしまう。それも節水のためなのだろうが、水をすくうにも顔を洗うにも、常に片手をコックに当てておかねばならず、極めて使いづらい。手を石鹸で洗うときなど、その不便さは腹立たしいほどである。
 辺りが明るくなり、海岸に出てみる。広い砂浜で、投げ釣りの人が何人かいる。沖合に大きな貨物船が浮かんでいる。
 砂を採ってから出発。国道42号線は急な上り坂になっており、途中に「日出(ひい)の石門」の表示がある。路肩に車を停めて見下ろすと海岸は遥か下だが、『るるぶ』にも出ている有名な場所なので、見なくては勿体ないと思い、行ってみることにする。
 細い階段状の道。 途中に小さな平地があり、『椰子の実』 の詩碑の横に、何本かの椰子の木が立っている。昭和54年にロタ島から流した 1,000個の椰子の実のうちの1個が流れ着いたのを記念して植えられたものだとか。
 柳田國男がこの辺に滞在したときに、海辺で椰子の実を1個見つけ、潮の流れを考えて日本民族の故郷が南洋にあると推論した。それを島崎藤村に話し、藤村が詩にした。
 これについて南太平洋の椰子が日本まで流れてくる筈がないとかあるとか喧しい議論があったらしいということを私は以前「グアムがジャングルであった頃(2)」に書いたが、やはり流れ着いたのは事実であろう。
 それよりも、柳田國男の論説から80年も経ってロタ島から大量の椰子の実を流してみるという、そのロマンに私は感動し、立っている椰子の木の幹をポンと叩いた。
 やっとのことで海岸の岩場に出ると、正面に巨大な岩がそびえ、ぽっかりと穴が開いている。穴を通して海が見え、今しも水平線から真っ赤な太陽が顔を覗かせている絶好の瞬間であった。その光が私の背後の岩に当り、まさに穴の形をそのまま赤く染め抜いている。なんとも不思議な、幻想的な光景である。
 アマチュアカメラマンが1人いて、ビューポイントを
 

譲ってくれた。豊橋に住んでいて、ここには何度か撮影に来ているという。
 どちらから、と訊かれ、千葉だと答えると、東京ディズニーシーの夜景を撮りに行きたいと言っていた。
 崖上の伊良湖ビューホテルにお泊まりですかと訊くので、いやいや私は金がないので車で寝ながら回っているんですよ、と言うと、そういうのもいいですねぇ、私も定年になったらそういう旅をしたいと思っているんですよ、と言う。私が定年後の老人に見えたのだろうか。
 それじゃあ、と別れを告げると、
「良い旅をお続けください」
という言葉が返ってきた。こういう日本語はいつまでも残しておきたいものだ。
 国道に戻り、急なアップダウンを抜けて恋路ケ浜へ。烈風で身体が煽られる。
 土産物屋はまだ開いていないが、どの店にも「大アサリ」の文字が見える。9年前に家族で来たときに、私が何気なく触った大アサリに指を挟まれた。あまりの痛さに大声を出し、周りの観光客が一斉にこちらを見た。以来、子供たちから馬鹿にされている。今回その憎きアサリを食べてやろうと思っていたのだが、残念。

 渥美半島を回り込む形で西岸に出て、県道2号線を北上。白谷海浜公園を過ぎた辺りで自転車の若者を追い越した。強風の中、背を丸めて懸命にペダルを漕いでいる。
 海辺で砂を採ったりして時を過ごしてまた走り出すと、前方にさいぜんの若者の背中が見えた。荷物から見て、野宿をしながら旅を続けているものと思われ、心の中で応援しながら追い越す。
 私の旅は寄り道が多く、その度に抜きつ抜かれつしていると親近感が湧き、坂の頂上で車を停め、待った。
 若者が自転車を押して喘ぎ喘ぎ登ってくる。
「おい君!」
と声を掛けると、若者はぎょっとしたように立ち止り、不安げな様子で私を見た。無理もない。私は何時間も前から彼を知っていたが、彼は同じ車に何度も追い抜かれていることなど知ろう筈もないのだから。
 それでも問われるままに、自分は三重県の高校生で、生まれて初めて2泊3日の旅に出たのだということ、前夜は伊良湖岬の岩陰で野宿をしたが、怖くて眠れなかったこと、なども話し出した。
「そうか、おじさんも君くらいのときは徒歩であっちこっち旅したもんだ。それがいつか自転車になり、バイクになり、今じゃこうして車での旅しかできない。だんだん楽な方に流れちゃって・・・」
「でも、いいですねぇ。どういう所に行ったんですか」
「一応47都道府県は回ったよ。でも、沢山行ったからいいってもんじゃないんだ。どういう旅をしたかが大事なんだよ。何を見たか、何をしたかだ」
 そんなことを言ったあと、私はペットボトルの飲み物を2本渡し、車に乗った。
「楽をしたくなったときが勝負だ。そこで踏ん張るかどうかだ」
 若者が、これからどこまで行くのかと訊く。私はこの先から高速道路で帰るとは言いにくくなり、
「そうさなあ、景色と相談しながら行ける所まで行くさ」
と、我ながらキザな嘘をついた。
 動き出したとき、若者が叫ぶように、
「またどこかで会えますか」 と訊いた。
 そんな台詞を今どきの高校生から聞くとは思っていなかった私は一瞬胸が詰まり、またしても嘘を返した。
「会えるさ!」
 バックミラーの若者は、見えなくなるまで、立ったままだった。

 西浦温泉。20年以上も前に泊まったホテルの前に出る。ホテルは記憶どおりの建物だったが、周りの様子はずいぶん変っている。
 海岸近くには浜ウドが群生している。前にもあったのだろうが、その時には全く目に入らなかった。年齢とともに見えるものも違ってくるようだ。
 ある人が、自分の立志伝を語るときにいつも「青雲の志を抱いて村を離れるとき、山路にさしかかると可憐な野菊の花が1輪、風に揺れて咲いていた」と言っているが、野菊の花が少年の目に止まるとは思えない。
 第一、日本には野生の菊というものはないし、厳密に言うと野菊という名の花もない。俗に野菊と呼ばれているものがあるにはあるが、それはヨメナのことであり、ヨメナは群生するので1輪では咲かない。
 まあ、「野菊の花が1輪」という言葉の響きで脚色したものであろうが、この手の話は語る方が酔い、聞く方が冷めるというのが常であるから、気をつけた方がよい。

 三河湾に面した吉良温泉に出る。吉良上野介ゆかりの地であり、ここでは上野介は名君として慕われているらしい。実際すぐれた政治家であったようだし、近頃では「新説忠臣蔵」とかいって世間知らずで短慮な浅野内匠頭を悪人、領民思いで実務に長けた吉良を善人とする本や映画などが受けたりしている。
 しかし、それではどうも面白くない。浅野内匠頭はあくまでも清廉潔白、正義感に満ちた名君で、それゆえ47人もの侍が命を捨てて殿の仇討をするというのが日本人の心情に合うし、そうでなければ講談師が困る。
 私も「忠臣蔵」「赤穂浪士」と題された映画やテレビは数多く観てきた。内匠頭には名だたる美男俳優が扮し、上野介にはこれでもかという悪役俳優が当てられていた。悪役俳優ではなくても滝沢修、月形龍之介、進藤英太郎などの演じる上野介は一段と憎々しげで、あれだったら私でも刃傷に及んだであろうと思われる。
 だから今さら内匠頭はダメ殿様だなどと言われても、それではと言って史実を調べなおそうという気にもならない。
 ではあるが、ここを通りかかったのも何かの縁であろうから、吉良家の菩提寺である華蔵寺ぐらいは覗いておこうかという気になった。
 国道 247号線からは思いのほか距離があり、しかも分かりづらい所にあって苦労したが、なんとか辿り着く。
 さして大きくはないがよく手入れのされた立派な寺で、吉良家代々の墓が建ち並んでいる。「高家吉良上野介義央公墓」と案内板があり、簡素ながら品のある墓で、なるほど地元では尊敬を集めていたのであろうと実感できる。

 知多半島先端を回り、常滑方面へ向かって北上する。
 美浜町に大御堂寺というのがある。野間大坊といった方が通りがいいかも知れない。私もそこが大御堂寺という名であることは今回初めて知った。
 源頼朝の父、義朝が平治の乱で敗れ、家来の伝手で長田忠致(おさだただむね)に匿われることになった。しかし、その長田忠致は平家の恩賞目当てに義朝を浴場で殺害、その首を平清盛に差し出した。
 そのとき恩賞として美濃か尾張の国司に任ぜられる期待を露わにしたために、逆に清盛の不興を買い、処罰されそうになる。すごすご引き下がり、後に頼朝が勢いを増すと、今度はいそいそとその軍に加わる。
 
 野間大坊・義朝の墓

 忠致は頼朝にとっては父の仇である。そんな立場でよくものうのうと、と忠致の神経を疑うが、あにはからんや、頼朝は「働きによっては美濃・尾張(みのおわり)を与える」 と言って迎え入れる。
 忠致は欣喜雀躍して働くが、やがて「身の終わり(みのおわり)を与える」 という頼朝の命令で殺される。
 まあ、現代の世の中にも通じる話で、私もそのような小ずるい世渡りで両陣営から疑われ、結局冷や飯を食わされている人を身近に知っている。

 その義朝が殺された場所がこの野間大坊ということで(実際には少し離れた場所であるらしい)是非寄ってみたいと思っていた。
 境内に入ると、見事に整えられた石庭の奥に本堂があり、裏手に義朝の墓がある。手前に由緒板があり、次の説明がある。

  「源氏の総帥左馬頭源義朝公は京都六波羅合戦に敗れ東国へ向われる途中此の地の
  東方野間田上の御湯殿で家臣長田忠致のために御入浴中謀殺なされしその時我れに
  木太刀の一本なりともあればと悲痛な一言を残されて最期を遂げられましたのでそ
  の慰霊のために木太刀を献上するならわしが出来て山の様に積まれています」

 なんという悪文であろう。断っておくが、これは原文のままである。あまりのことに一言一句に至るまで忠実に書き写したのであるが、句読点や改行が一切ないために読みづらいのはともかくとして、“てにおは”がなっていない。さらに「謀殺なされし」 というのは、どう考えても主体と客体をとり違えたもので、毎日衆人の目に触れる文章としては、どうにもいただけない。

 東海市を過ぎ、名古屋に入ったあたりで、「直進熱田神宮、左折四日市」の標識を見つけ、それならば四日市の霞ケ浦緑地で寝ようかと、左折する。ところがそのまま走っていると、またしても直進熱田神宮の標識。
 そんな馬鹿な。しかし、次々と熱田神宮の標識が出てきて、どうやらどんどん熱田神宮に近づいている様子である。
 真っ暗な中、結局熱田神宮に着いてしまい、今さら四日市を目指す気にもなれず、今回の日本一周コースはここで終りにする。
 東名高速のサービスエリアで寝ることにして、名古屋インターを目指す。ところがまたまた標識が判りにくく、ならば岡崎インターから乗ろうと、1号線を東へ。これが渋滞。
 名古屋はこれまでに何度も走っているが、いつも標識の判りにくさと信号の多さで苦労する。
 矢作川の橋のたもとに日吉丸と蜂須賀小六の像がある。
 日吉丸が橋の上で寝ていたところ、野武士の頭であった小六が通りかかり云々という故事を記念してのことであろう。子供の頃はその話に別段不思議も感じなかったが、後年自分があちこちで野宿をするようになって、それはいかにも不自然であると思うようになった。
 日本は四季を問わず夜露が降り、屋根のない所で寝たら、朝までにはじっとりと濡れてしまう。そうなると夏でも身体の芯まで冷え込み、とても眠れたものではない。実際私も、寝るときは神社の縁の下とか橋の下とか、とにかく夜露を避けられる場所を探して寝たものである。日吉丸が橋の上で寝ていたなんてことはあり得ない。
 しかしまあ、橋の下で寝ていたのでは小六の目に止まることもなく、それでは話が進まないから、そんなことで目くじらを立てることもあるまい。
 幸い私は車で移動しているから、夜露に濡れることもなく、浜名湖サービスエリアでゆっくりと寝ることができ、翌29日には自宅に帰った。
 今回は一周ルートを 285キロ走ったので、通算では 1,164キロになった。それでもまだ全体の11分の1弱というところか。



第6回 新居町 ~ 名古屋(1) 第7回 名古屋 ~ 尾鷲(1)
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