第7回 名古屋 ~ 尾鷲 (1)  2002.12.28 ~ 31 (3泊4日)


  今回は3泊するつもり。志摩半島を一周して、紀伊半島東岸を海山町あたりまで行ければと思う。

2002年12月28日(土)
  早朝に出発したが、暮れの帰省ラッシュで東名は大渋滞。正午に熱田神宮に着く。
 熱田神宮。詣でるのは4回目だが、どうも来るたびに大きくなっているような気がする。6万坪もあるそうだから、毎回違った神域に足を踏み入れて、ああこんな所もあったのかと驚いているせいかも知れない。
 
 熱田神宮、六末社

 創祀は古く、日本武尊が亡くなったときに妃の宮簀媛命(みやすひめのみこと)が尊の愛剣であった草薙剣をこの地で祀ったことによるという。
 そのことは今回初めて知ったのだが、私にしてみればちょっと待ってくれという気分でもある。
 「 第1回 木更津~久里浜 」にも書いたが、
日本武尊は東征の折り相模灘で海難に遭い、妃の弟橘媛が波に身を投じることによって、からくも房総半島に辿り着いたということである。媛を思う尊の悲痛は「 君不去(きみさらず)」という言葉になって、木更津市民歌にも詠われている。
 それなのに“妃の宮簀媛”が云々とはどういうことか。 弟橘媛ゆかりの木更津に住む者としてはおもしろくない。
 帰ってからやさしい本を探して調べてみた。
 それによると、尊は東征に出立するときに既に宮簀媛という婚約者がいた。にも拘わらず途中で弟橘媛と結婚し、帰ると弟橘媛のことはケロリと忘れて、かねての婚約者と結婚したらしい。 弟橘媛は自分の命と引き換えに尊を救ってくれたというのにである。
 なんだかシラケる話であるが、男女の関係についてアッケラカンとしていた神代の話ではあり、私が憤慨しても どうにかなるものではない。

 かく、熱田神宮について何も知らぬ私ではあったが、織田信長が桶狭間の合戦に先だって戦勝祈願をした所だというくらいは聞いていた。
 1560年5月、今川義元が上洛を期して尾張に軍を進めたとき、信長はこれを討つべく未明に清洲城を発つが、途中、熱田神宮に将兵を集めて 武運を祈る。 そのときなんと、本殿の後ろから甲冑の触れ合う音が聞こえ、白鷺が1羽飛び立った。信長は、これぞ大神が味方についた証と叫び、それによって大いに士気上がった兵は、桶狭間で十倍の今川軍に奇襲をかける。
 私は相当の自信をもって断言するが、信長は予め手下の何人かに甲冑を着せ、捕えた白鷺を抱えて建物の後ろに潜ませていたに違いない。信長が戦勝の願文を読み上げるのを合図に甲冑をぶつけ合い、白鷺を放つ。

 なんとも子供じみた芝居と思うであろうが、実は昔の戦闘では指揮官が同じようなパフォーマンスで将兵を鼓舞する実例が多く見られている。
 たとえば鎌倉幕府の本拠を攻め滅ぼした新田義貞。
 当時鎌倉は三方を山に囲まれ、前を海に守られた天然の要害として、難攻不落を誇っていた。
 義貞は稲村ケ崎の岩に立ち、将兵の目前で神に戦勝を祈願して自らの刀を海に投じた。すると潮が引き、鎌倉への進軍が可能になった。義貞はこれぞ神のご加護と叫び、勇気百倍した将兵が鎌倉になだれ込む。
 なんと不思議な、と驚くことはない。義貞が予め引き潮の時間を調べておいただけの話である。
 今のようにボタン一つで遠く離れた敵をせん滅する戦争と違い、昔の戦闘は自分の刀や槍で直接相手を斬ったり突いたりしなければならない。返り血も浴びるし、刀が折れることもある。血まみれでのたうち回る敵の姿は一瞬のちの自分の姿でもある。誰しも阿鼻叫喚の中で恐怖心を克服することは不可能だ。

 そんなとき、指揮官が巧みなパフォーマンスで兵に勇気を与える、いわばマインドコントロールが勝敗を左右する大きな要素であることは言うまでもあるまい。
 合理主義者で神仏などハナから当てにしていない信長がわざわざ熱田神宮に詣でて戦勝祈願をする、という不合理もそれで説明がつく。
 私は自分の推測を確かめるような気分で本殿の裏に回ってみた。無論のこと、甲冑武者の姿もなく、白鷺の羽も落ちてはいない。

 前回、ここで日本一周コースを終えているので、今回はここから始めることとし、メーターを0に戻して出発。
 昼近く、四日市のオーストラリア記念館に寄る。

 この建物は1970年の大阪万博でオーストラリア・パビリオンであったものを、閉会後四日市市に寄贈したもので、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」をイメージした優美なデザインが人目を引く。
 「第5回 沼津~新居町(2)」にも書いたが、万博のとき、私は浅野君、鶴岡君という生徒と3人で会場近くの空き地に野宿しながら9日間、万博見物に明け暮れた。
 各国パビリオンの中でも人気の高かったこの建物は、展示の見事さと相まって思い出深いものであるが、1982年に長男を連れてきたと
きには、廃墟のようになっており、鍵すら掛っていなかった。
 ガラスは割れ、床一面に空き缶やら食べ物の袋やらが散らかり、まるでゴミ捨て場のようであった。情けないやらオーストラリアに申し訳ないやらで気が滅入ったものだが、今回は一応塗り直しもされ、床も張られて、まあまあ見られるようにはなっている。

  津市の御殿場海水浴場で車中泊。カップラーメン、ソーセージ、ビールはいつもどおりだ
が、この晩は缶詰を奮発した。さんまの蒲焼で、とても旨かったが、缶に残った煮汁の処理に困り、ズルズルと全部飲んでしまった。これはやはり旨くない。
 夜半から突風が吹きすさび、車が揺れて何度も目が覚める。いったん目が覚めると、今度は寒さでなかなか眠れない。それでも若いころ雨の吹き込むバス停のベンチで寝たりしていたのに比べれば楽なもので、どうも自分が堕落したような後ろめたさがある。

29日(日)
 早朝、外に出ると暗闇の中に発泡スチロールの箱が散乱している。車が吹き溜まりを作ったらしく、タイヤの周りには4、5個の箱と空のペットボトルが2本落ちている。
 インスタント味噌汁(永谷園のあさげ)とコーヒーで体を温め、薄暗い中を出発。

 香良洲浦海水浴場で砂を採る。折しも枝ぶりの良い松の向こうから朝日が昇ってくるところで、しばらくシャッターチャンスを待って写真を撮る。
 あとで見ると、これがどうしてなかなかの出来で、三重県の観光写真として使ってもらえるレベルではないかと思い、写真が趣味の同僚に見せた。
 同僚は「いいですね」 と素っ気なく言って、それ以上何も言わなかった。
 海岸にあるトイレもきちんとしたアルミのドアがついたきれいなもので、ゆっくり用を足し、洗顔、歯磨きを済ませる。

 
 松阪のコンビニでパンと缶コーヒーを買う。若い店員は一生懸命さが伝わってくる好青年だが、「マセー!」「シター!」という、とても日本語とは思えない挨拶がいただけない。マセーの前には「いらっしゃい」、シターの前には「ありがとうございま」がつくのだろうが、それは全く聞こえない。おそらく言っていないのだろう。
 
 10時前、二見が浦に着く。
 ここは修学旅行のコースに入っているので私は引率で何度も来ている。伊勢観光では外せない場所なので、家族、知人とも来ており、一人でも来ている。4か月前にも姉たち3夫婦と私、妻の8人で来ている。数えてみれば20数回は来ている筈だが、それでもやはり車を置いて散策をする。そしていつものようにさつま揚げを買って、食べながら海を眺める。

 鳥羽市の白浜海水浴場はパールロードという有料道路の途中にあるということで、不本意ながら 830円を払ってその道を通る。両側に低木が茂り、景色と呼べるようなものは何も見えない。
 なんでパールロードなどと英語の名前をつけるのか、日本の道路なのだから「真珠道路」 とでもつければいいのに、と思いながら走っていると、路の端に「白浜海水浴場」と書かれ
た板切れが見えた。そこだけ低木が切れて未舗装の道があるのでそれを辿る。
 浜辺で砂を採ったあと、同じ道を引き返して同じ場所に戻り、ちょっと走ると検札所がある。通行券を出したところ、「これはアカンな。どっかで降りたん?」「また 830円払わな」と言う。本線を離れるのに料金所などなかったし、同じ所へ戻ってまた走ったのだから、有料道路を2度走った区間はない。それなのに二重払いは納得できないと主張したが、話にならない。
 やむなく同じ金額を払ったが、あとで考えると、どうして私が横道に降りたことが判ったのだろう。降りてないと言い張ればよかったのか? どうも腹立たしい。
 カネを払いながら、「阿児の松原へ行くにはどこで降りたらいいのか」と尋ねると、次の料金所で訊けと言う。次の料金所で訊くと、
「知らん。520円」
という返事。
 私は心底腹がたち、そこで一般道路に降りると 地図のパールロードという字を2本線で消して 「ワーストロード」と書き直した。

 地図を頼りに狭い道をくねくねと進み、阿児の松原に出る。防砂林の松の下に万葉の歌碑がある。
    安胡乃宇両爾
    布奈能里須良牟
    乎等女良我
    安可毛能須素爾
    之保美都良武賀     万葉集巻十五

 読めないが、当てずっぽうに
    あごのうらに     阿児の裏に
    ふなのりすらむ    舟乗りすらむ
    おとめらが      乙女らが
    あかげのすそに    あかげ(?)の裾に
    しおみつらむか    潮満つらむか

と読んでみる。それでも意味が判らないが、どこかで聞いたような気もする。

 万葉仮名というのは日本語を無理に外来の漢字で表したもので、音と訓が混じり合ったりしてどうにも読みにくい。
 教員をしていると、生徒の書いた文章を毎日のように読むことになるが、そこには万葉仮名顔負けの当て字がこれでもかというくらい並んでいる。
 私が生徒の作文や答案の中で見つけた当て字(というより誤字)は数限りないが、その中に次のようなものがある。
「主木主義」は資本主義のことであり、「計長の駅」は慶長の役のこと。「江戸征伐」は蝦夷征伐の間違いであり、「関節民主制」は間接民主制の間違いである。極めつきは啓蒙思想を「毛無思相」と書いた生徒であるが、これを啓蒙思想と解読した私の力量もたいしたものというべきであろう。

 志摩半島の入り組んだ海岸線をなぞりながら走っていたところ、「善代湯」と書かれた銭湯が目に入った。小さな、我ながらよく見つけたという構えだが、横の空き地に車が置けそうなので入ってゆくことにする。
 番台ではお婆さんが目の前に置いた小さなテレビに見入っており、声をかけても全く反応がない。入浴料を書いた紙が貼ってあったので、300円を置いたが見向きもしない。
 昔懐かしい木製のロッカーが並んでいるが、もっと懐かしいのは床に置かれた脱衣籠で、これは盗難だのプライバシーだのという言葉とは無縁の、良き時代を象徴するアイテムである。勿論、私もそれを使った。
 熱めの湯に浸かりながら壁のペンキ絵を眺める。なんとなく銭湯の絵は白砂青松に富士山だと思っていたが、ここの絵はどこかの海辺の岩と波が描かれており、富士山はない。それはそれでいい。ペンキ絵であることが重要なのだ。
 もう一つ、銭湯になくてはならないものがある。ときどき天井から冷たい水滴がポタリと落ちてくる。それである。冬の夜など、冷え切った体で浴室に入って行く。滑らぬようにうつむいてそろそろと歩いているときに首筋にポタリと来られると、大の大人でもヒェー!とか大声を上げる。あれがなくては銭湯といえない。
 ペンキ絵と水滴を十分に楽しんだあと、脱衣所で昔懐かしいコーヒー牛乳を見つけた。しかしそれは紙パックに入っており、あの“牛乳瓶”ではなかった。湯あがりに瓶からゴクゴク飲むのが正しいコーヒー牛乳の姿であり、紙パックからストローなんぞで飲んだのではコーヒー牛乳道にもとる。
 ちなみに昔の牛乳瓶は蓋が厚紙でできていた。千枚通しのようなものでそれを刺し、ポンと開けたものだが、そんなものを使わずとも蓋の端を指で押して開けられるようになればそれが粋というもので、大人たちは器用に開けていた。
 私はガラスケースから夕飯用に缶ビールを取り出し、番台に持って行った。今度はお婆さんがはっきり、「230円」と言った。
 浜島海浜公園に車を停め、カップラーメン、コンビーフ、ビールで夕食。両足と背中にホッカイロを貼って寝る。



第6回 新居町 ~ 名古屋(2) 第7回 名古屋 ~ 尾鷲(2)
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