グアムがジャングルだった頃(2)


地球一周したのはマゼラン ?

 グアム島への飛行機はダグラス社のDC8で、のっけから部品の故障で出発が40分ほど遅れるという。
 前日の列車事故といい、どうも幸先が良くないなと思ったが、飛び立ってみると、どうしてなかなかの乗り心地である。
 私はそれまで結構いろいろな飛行機に乗っており、大小さまざまなヘリコプターも体験し、いっぱし飛行機通を気取っていたのだが、DC8は初めてであった。見物がてらトイレに行った私は、中で鶴のマークが織り込まれたハンドタオルを1枚失敬した。当時の飛行機は至れり尽くせりで、一度乗ると、いろんな記念品が手に入った。とりわけ日本航空は優美な鶴のマークに人気があり、私も一時は日航グッズをずいぶんと持っていた。
 余談になるが、当時日航は世界一安全な航空会社と言われ、 尾翼に描かれた鶴のマークは海外の空港でひときわ輝いていた。それが 1972年のニューデリー墜落事故から 1985年の御巣鷹山墜落事故まで立て続けに死傷事故を起こし、それと前後して経営の悪化が進み、2010年にはついに企業再建支援機構に厳しく管理され、元従業員の年金まで削られる情けない会社になり下がった。
 その間に「鶴丸」と親しまれてきたマークは「太陽のアーク」を基調にしたとかいう味気ないものに変わり、客室内のサービス品も次々と姿を消した。思えば私が失敬したハンドタオルなどは、もし今持っていたらマニアの間で垂涎の的になっていたのではなかろうか。
 私は席に戻ると、妻に言った。
「すげえ、すげえ! 青い水が出る」
 妻が目を輝かせて席を立った。
「私も見てくる!」

 青く広大な海原にポツンと島が見え、高度を下げるにつれてそれが大きくなり、やがて椰子の葉などが見えてきて、スルスルと滑走路に滑り込む、とばかり 思っていたが、実際には雲ばかりで海など見えず、やっと雲の下に降りたら、そこはもう見渡す限り陸ばかりで、つまり、ちっとも島らしくない所に、飛行機は 降りた。
 スコールの最中なので暫く機内で待機するように言われ、窓の外を見ると、なるほどバケツの水をひっくり返すというのはこのようなことかと思われる、もの凄い雨が降っている。雨の向こうに椰子の木なども見え、確かにここは南の島だと思えてくる。
 ほどなく雨も上がり、機外に出る。タラップを降りるとほんの30メートルほど先に、一応コンクリートでできた小さな平屋建てのターミナルがあり、歩いて行くと入口近くにアロハシャツを着た男が立っている。検疫カードを頭上にかざしているので、見せろということであると思い、手に持っていると、チラリと一 瞥したが、これが検疫であった。こちらはそのカードを手に入れるためにいくばくかの費用をかけて種痘も受け、コレラの予防接種もしてきた。カードにはそれを証明する記述もある。せめて手に取るなりして、もう少し丁寧に見てもらいたいものだ。

 ホテルの窓を開けると、目の前にタモン湾が広がっている。
 何はともあれ海を見ようと、浜辺に出てみた。波打ち際まで、無秩序に椰子の木が立ち並んでいる。
 改めて見ると、椰子というのはなんとも奇妙奇天烈な植物である。 第一、木というのに枝がない。
 一口に椰子と言っても種類は 300を超える由であるが、この辺にはココヤシが多く、樹高は30メートルにもなる。根っこの周りは海水をたっぷり含んだ砂浜で、ときに幹を波に洗われたりもするのだが、いっこう動ずる風もなく、てっぺんまで水分を吸い上げる。
 なんのことはない、巨大なストローで海水を飲んでいるようなものだが、それにしても、よくもまあ、あんな上まで水が揚がるものだ。
 誰でも、椰子の木を一度見たときには、無性に登ってみたくなるものだが、これはやめた方が良い。絶対に登れぬし、時々上から実が落ちてくる。グアム島でも、毎年2,3人が落ちてくる実に頭を割られて死んでいるということだ。
 膝まで水に浸かって歩いていると、プカリプカリと浮いている椰子の実にぶつかる。あっちにもこっちにも.数えたらいくつになるだろうか。
 


   名も知らぬ遠き島より
   流れ寄るやしの実一つ
   ふるさとの岸を離れて
   なれはそも波に幾月

 島崎藤村のこの詩を巡って、椰子の実が日本に流れてくる筈がないとかあるとかいう議論を聞いたことがあるが、目の前に漂っている無数の実を見ていると、これは確かに潮流なんぞお構いなく、北極へでも南極へでも流れて行くであろうと思えてくる。事実、宮崎あたりの海岸には時々漂着するということで、どうしてなかなか、たいした代物である。
 それに、そもそもそういう詮索自体がクダらないのであって、よしんば流れてくる筈がないとしても、だからどうだというのか。空想はしばしば事実を超えて我々に幸福をもたらしてくれるではないか。
 私は、中はどうなっているのかという軽い好奇心から、ちょっと割ってみようと思い、足元に浮かんでいるやつを拾い上げて、近くの岩にぶつけてみた。それは、ぼこんという鈍い音を立てて転がったが、見ると、傷ひとつついていない。
 私は思わぬところで恥をかかされたような気分になり、今度は力いっぱい投げつけた。椰子の実に何の変化も起こっていないことを知った私は狼狽し、3度、4度、5度と、渾身の力を振りしぼって、それを投げ続けた。
 いったい何度投げたのか、結局、表皮がいくらかささくれただけの実を捨ててホテルの部屋に戻ったとき、私はすっかり無口になっていた。

 島内観光のバスがあるというので、乗ってみることにした。日本製のマイクロバスで、十数人の乗客はすべて日本人。しかもその殆どは、一目で新婚旅行と判 るカップルである。私はうんざりして、よりもよって新婚旅行でこんなジャングルに来るなんて、どういう了見なのか気が知れないと妻に言ったが、妻は戸惑ったような顔をしただけで、返事はしなかった。
 ガイドも日本人、説明は勿論日本語で行われる。
 漠然と、全島ジャングルくらいに思っていたこの島にも、所々町などあり、瀟洒な教会まで建っている。
 バスで巡る名所旧跡には、スペイン統治時代の砦だとか、太平洋戦争で戦闘が行われた場所だとか、つまり戦争に関する所が多く、呉海軍工廠で作られたという巨大な高射砲が並べられているのなどを見ると、この島が常に外国勢力によって翻弄されてきた歴史を否応なしに実感させられる。
 その一つ、ソレダッド砦の近くに、マゼランの上陸地点というのがあり、さほど立派とも言えぬ記念碑が建っている。
 マゼランの地球一周は、つとに知られる歴史上の偉業であるが、その途次、グアム島に立ち寄っていることは、以前、何かの本で読んだ。もっとも、この“一周”という言い方は、ちょっとばかりインチキ臭い。
 1519 年8月、5隻 200余名の船団を組んでセビリヤを出帆したマゼランは、南米大陸東岸沿いを南下してその南端にあるマゼラン海峡を発見、さらに太平洋を西進して、香辛料の宝庫モルッカ諸島に到達した。
 このとき既に船は3隻に減っており、マゼラン自身もセブ島で原住民に殺されてしまったが、彼は以前ポルトガル領インド総督の配下としてモルッカに行ったことがあるので、そのときの東進分を合せると地球を一周したことになると称しているのである。
 マゼランが殺されたあと、生存船員がさらに西進して、1522 年9月、ようやくスペインに帰り着いたが、その時の生存者はわずか18名。船も1隻であった。だから、その18名、わけてもその指揮者デル・カノこそ地球一周を真に成し遂げた英雄と言ってよい筈だが、その名はなぜか、マゼランほどには知られていない。
 出帆後、9割を超える船員が客死しており、それらの船員には家族もあったのだろうが、そういうことを語る歴史書には出合ったことがない。歴史は、輝かしい人物については熱く語り継ぐが、その人間の功名心を支えるために死んでいった一人々々のかけがえのない人生については一顧だにしない。
 それはさておき、その航海の途中に、98日間も島影ひとつ見ぬまま焦燥の旅を続けていたマゼランの一行が、偶然発見して欣喜雀躍したのが、グアム島であった。1521 年3月6日のことである。
 そのあとずっとスペイン領となっていたが、米西戦争の結果、1898 年にアメリカ領になった。そんな訳で白人が多く住んでいるが、原住民はチャモロ族と呼ばれる褐色の肌をした人々で、チャモロ語を話すという。
 もっとも、現在のチャモロ語は、スペイン語を母体としてフィリピンのタガログ語と古代チャモロ語がミックスされたものになっているそうで、それもだんだん使われなくなり、若い人の間では英語の方が通じるということだから、便利なようで一面寂しい感じもする。

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