九州往復ケチケチ旅行(4)


歴史も地理も興味なし


      8月9日、妻の親戚でこの旅行7日目の朝を迎える。
     さんざんお世話になった上、土産やら子供たちの小遣いまで貰って、恐縮のうちに出発。
     小倉南インターまでは1時間ほど。そこから九州自動車道、中国自動車道を走り、美祢イ
    ンターまでがまた1時間、さらに国道435号線を30分弱で秋芳洞に着く。
     日本三大鍾乳洞の一つということだが、何をもって三大と位置付けるのか分からない。私
    はあちこちで言ったり書いたりしているが、この三大○○という言い方がどうも好きではな
    い。
     鍾乳洞に限ってみても、三大と言われる秋芳洞、龍河洞、龍泉洞以外にそれらと同等もし
    くはそれ以上に感激した鍾乳洞は沢山ある。何が3番で、何が4番なのだろう。
     まあ、くどくなるのでこれ以上は書かずにおくが、何番目かはともかくとして、確かに秋
    芳洞は見事なものではある。
     私は教員をしているので、ここには何度か生徒を連れて来ている。ほとんどの生徒は入口
    から出口までサッと歩いて出てしまう。6分で出たと自慢している生徒もいた。親が一生懸
    命やりくりをして旅行費を払っているというのに、罰当たりなことだ。
     そういうこともあって、この日は子供たちに逐一説明しながらゆっくりと歩いた。神社仏
    閣や城などでの説明にはとんと興味を示さなかった子供たちも、このときばかりは驚嘆の眼
    差しで洞窟内を見回し、歩き回っていた。「手を触れないでください」という字が読めない
    らしかったが、これは私も見て見ぬふりをした。
     ものに触るということはとても大事なことである。
     京都や奈良で古刹に詣でるとき、巨大な柱の横を通りながらほとんど無意識に手の平で叩
    いてしまうのは私だけではないだろう。その手にぴったりと吸い付くような木の触感はえも
    いわれぬ神秘的なもので、おのずから身が引き締まる。ヨーロッパでは石造りの教会という
    ことになるが、それもまたピタピタと叩く。寒い時期でも不思議に冷たくなく、これまた敬
    神の念が募ってくる。
     火縄銃はガラス越しに見ただけでは単なる美術品にしか見えない。手に取ってみると、そ
    の質感と重量に、それが紛れもなく「武器」であることが理解できるし、それを担いで戦場
    を駆け回らねばならぬ鉄砲足軽の難儀も見えてくる。
     鍾乳石は触ってみると固いのになぜか「ぬめっ」とした手触りで、水溶性の石灰質が気の
    遠くなるような年月を経て巧まぬ造形を続けていることが実感できる。
     子供が鍾乳石に手を伸ばすのを止めなかったのは、躾としてはいけないことなのだろうが、
    鍾乳洞を理解させるという意味では・・・ま、いっか。
     それはそうと、鍾乳洞というのはどうしてどこも見学料が高いのだろう。私はずいぶんと
    いろんな鍾乳洞に入っていると思うが、おしなべて見学料(入洞料)が高い。ここでは大人
    が1030円、中学生が800円、小学生が515円であった。
      
※ 現在はそれぞれ1200円、950円、600円である由。
     大人が1人洞内に入ることによって、秋芳洞としては何か電気代が余計にかかるとか、洞
    内の手すりがすり減るとかいうことがあるのだろうか。この日私たち家族が払った見学料は
    4120円だが、私たちが入ったせいで秋芳洞にそれだけの出費を強いたとは思えない。
     もちろん洞内の保全とか人件費とか、さらには若干の利益も考えるのは当然だが、ラーメ
    ンとかチャーハンとか、明らかに元手がかかっているものなら分かり易いが、ただ入るだけ
    で1人1000円も取られるのはどうもしっくりこない。

 そんなケチくさいことを考えながら見学を終え、展望台へ。名に
しおうカルスト台地、秋吉台が一望できる。起伏に富む草原に無数
の石灰岩が露出しており、ちょっと見には草原に放たれた羊の群れ
のように見えなくもない。
 さてここでも父親としてはカルスト台地について解説したいとこ
ろだが、実をいうと私はこのカルストというのがよく分からない。
 一応3億年以上前の海底火山上にできたサンゴ礁が分厚い石灰岩
層を作り、それが隆起してできた台地であること、そこに降った雨
水が地下に浸透する際にドリーネというすり鉢型の窪みを作ってい
ることなど、つまり教科書に載っていることだけは言葉として知っ
てはいるが、自分の頭の中でその生成過程が整理されているわけで
はない。下手に説明して、子供に質問でもされたらお手上げだ。
 ここは情けないが、ただ景色として眺め、そのあと延々と続く石
灰岩の羊を眺めながらほぼ真北に進み、萩に入る。

 言わずと知れた幕末・明治の人材輩出の地であるから、何はとも
あれ松陰神社あたりの見学から始めるのが常道であろうが、私たち
が先ず向かったのは藍場川であった。
 江戸時代に掘られ、農業用水路として利用されている人工の小川
である。防火用水としても使われ、逆に水害のときには水捌けにも
使われるというから、実用という面からもまことに結構な設備であ
    る。そこに現在は鯉が放流され、風情ただよう景観を作り出している。
     津和野の殿町通りにある掘割も鯉が泳ぐ水路として有名だが、そちらがコンクリートでき
    っちりと作られた細長い池のような感じであるのに比べ、こちらは自然石を積んだ川岸が深
    い趣きをもっている。津和野が鯉を放すために作られた水路だとすれば、藍場川は先に水路
    があってそこに鯉を放したというところだろうか。
     萩もやはり修学旅行の引率で何回か来ているが、回るのは専ら幕末の歴史に関する所ばか
    りで、こういう所には来ない。たまたま数年前に個人的に来たときに偶然この川べりを歩き、
    忘れられない場所となっていた。
     はたせるかな子供たちはおおいに気に入ったようで、鯉にパン屑など投げながら長いこと
    遊んでいた。
     さて、鯉は鯉として、やはり萩に来た以上、松下村
    塾を見ずに帰るわけにはいかぬが、実はこのとき、ま
    だ昼飯を食べていなかった。萩にお目当ての店があっ
    て、それまではと思って我慢していたのである。
     店は松本川に近い路地にある「蕎麦舗ふじたや」さ
    ん。あるときある人と来て奢ってもらったのだが、そ
    の美味さはすこぶるつきであった。
     今回は私が家族を連れて、いかにも常連のような顔
    をして入ったのだが、実を言うと2回目であった。
     店内はとくにどうということもない町の蕎麦屋といった感じで、コンクリートのたたきに
    何の変哲もないテーブルが数脚。殺風景といえば殺風景なのだが、そこは味で勝負というこ
    となのだろう。
     壁の上部に有名人のサイン色紙がずらりと並んでいる。坂本九さんのサインには妻が目を
    見張り、長嶋茂雄さんのものには私が声を上げる。子供たちはほとんど興味を示さない。
     肝心の蕎麦は、この店の名物せいろ蕎麦を頼んだ。せいろはやや小ぶりだが、5段重ねで
    出てくるから子供たちも「おー!」と声を上げる。生卵を落としたちょっと濃い目の出汁が
    またコクがあり、家族皆で美味い、美味いの大合唱。
     白状すると、私はおよそ食というものに興味がなく、テレビ番組などで食通と言われる人
    たちが一口食べては「素材が自己主張し過ぎず、さりとてソースに負けず・・・」などと講
    釈しているのを見ても一向に食べたいと思わない。
     そもそも食べるということは活動するためのエネルギー補給であって、言ってみれば車が
    走るためにガソリンを入れるようなものだと思っている。
     つまり食は生きる(動く、働く、活動する)ための手段であって、目的ではない。食べる
    ために働くというのは、ガソリンを入れるために入って走っている車のようで本末転倒であ
    る、というのが持論だ。
     だから食通を気取っている輩を見ると、軽蔑とまではいかないが、尊敬できない気持ちに
    なる。男子たるもの、もっと天下国家に目を向けることはできないのか、と言いたくなる。
     そんなものだから、旅に出てもその土地の美味しいものを食べてみようという気にはとん
    とならない。
     それが、この「ふじたや」さんの蕎麦を奢ってもらったときは珍しくその美味さに話が弾
    んだ。
     それで今回、家族にいいところを見せようという気になって連れて行ったわけだ。そして
    思惑どおり家族は大満足し、私は「お父さんはこういう店を知っているんだ」と恰好をつけ
    ることができた。

     さて腹も膨れた。となればいよいよ萩に来た最大の目的である松下村塾の見学だ。吉田松
    陰の私塾であり、吉田松陰の名を知らぬ日本人はいないであろう。
     萩に来たら松下村塾を見学して松陰の事績を学ばせる。どこの親でも当然考えることで、
    私としても今回の旅行の目玉と考えていた。
     車は松陰神社の境内に置けた。その名のとおり松陰を祀った神社で、明治時代に松陰の門
    下生たちによって創建されたという。
     松下村塾は瓦葺きの平屋で、8畳一間、4畳半一間、3畳二間と小さな土間があるだけの
    質素なものだ。ここから日本を変える大物が多数輩出されたというのは驚きである。
     私は吉田松陰と松下村塾について通り一遍の解説をした。松陰がまだ30前であったこと、
    松陰がここで教えたのはわずか1年余りであったこと、それなのにここで教えを受けた門人
    たちが幕末の日本を駆け抜け、明治維新の力となり、明治政府で活躍したこと。
     教育は設備ではない、教える者と教わる者の意気込みだ、などとも言った。
     それを明らかに上の空で聞いていた次男が突然言った。
     「ここって、学校なの? 何を教えてたの?」
     私ははたと困った。
     実は私は高校で日本史を教えており、当然幕末から明治にかけての流れは教科書にも出て
    くる。
     しかし吉田松陰や松下村塾についてはほんの数行の扱いであり、「松下村塾で吉田松陰の
    教えを受けた高杉晋作、久坂玄瑞らが尊攘攘夷運動を展開し、大政奉還に大きく貢献した」
    という表面的な授業にしかならない。
     私は個人的に高杉晋作に魅力を感じており、その人となりについては熱っぽく語ったもの
    だが、受験のために勉強している生徒たちは、そういう試験に出そうもないことに時間を割
    くことを喜ばなかった。
     次男の「何を教えていたのか」というもっともな質問に慌てた私は、これまた「まんが日
    本史」で仕入れた程度の分かり切ったことを言ってその場をごまかした。
     「まあ、兵法や地理歴史が中心だ」
     次男はそっぽを向いたまま「ふーん」と言ったきり、それ以上の質問はしなかった。
     無理もない。それだけで時代を動かす傑物が輩出するなら、私の勤務している高校も兵法
    こそ教えないが、地理歴史は教えている。しかも私の担当は地理歴史だ。
     ということは、吉田松陰が地理歴史を教えれば時代が変わるが、私が教えても何も変わら
    ないということになる。どうもつまらぬ話になりそうなのでそれ以上は言わなかったが、内
    心忸怩たるものがあった。松陰が何を教えていたか、実は私も考えたことがなかったのであ
    る。
     旅行後、こっそり調べてみた。
     松陰が山鹿素行の著書である『武教全書』を講義した記録だという『武教講録』というの
    を読んでみた。いや、読もうとした。てんで歯が立たない。チンプンカンプン、何が書いて
    あるのかさっぱり解らない。
     ほかにも倫理・経済、それに上述の地理歴史などを教えていたようだが、特に世界史には
    力を入れていたということであった。あの時代に世界史を教えていたというのは、やはり並
    外れた視野をもっていたということであろう。
     そしてそういう知識を単に伝達するということではなく、それを通して人としての生き方
    を教えていたようで、その様子を松陰神社境内にある吉田松陰歴史館で見ることができる。
     吉田松陰の生涯を70数体の蝋人形で再現したもので、宮城県松島の「みちのく伊達正宗
    歴史館」、千葉県成田市の「宗吾一代記館」、香川県高松市の「平家物語歴史館」、高知県
    香南市の「龍馬歴史館」など、同様の施設は各地にある。
     いわば立体的な紙芝居のようなもので、どうしても浅く一面的な伝記になってしまうが、
    それは仕方がないことで、とりあえず吉田松陰という人がどんな人だったのかを知るために
    はまことに手っ取り早い。
     生涯を20ほどの場面にして、それぞれ説明があるので、ちゃんと見て回れば1時間はゆ
    うにかかるだろうが、子供たちは親に連れて行かれて仕方なく見ているので説明などほとん
    ど聞かない。まあ無理もない。私が修学旅行で引率していた生徒の大半は10分もかからず
    に館を出てしまったし、入りもせずに外で遊んでいる生徒も多かった。
     それでもまあ一応は松陰について勉強したということにして、あとは萩の名所を巡って宿
    に入る。

  次の日にまた2か所ほど定番の見学をしたあと、
島根に向かう。途中海水浴をしたりというのんびりし
たドライブで石見畳ケ浦には昼過ぎに着いた。
 ここは海岸の石畳一面にノジュールと呼ばれる丸い
石がある。ちょっと見には無数の腰かけが並んでいる
ようだ。これは海床の孔に貝が溜まり、その石灰質分
で砂粒が固められたものだそうで、その後海床が浸食
されてもそれだけが残ったものだとのこと。
 そこから1時間ほどで琴ケ浜に着く。
 現在は島根県大田市になっているが、この旅行の当
時は島根県邇摩郡仁摩町であった。鳴き砂の浜として
知られている。
 鳴き砂とは、文字通り音のする砂で、その上を摺り
    足で歩くとキュッ、キュッと鳴る。その仕組みを専門書から引用したら大変で、よけい分か
    らなくなるのがオチであるが、大雑把にいうと石英を多く含む微細な砂粒がこすれて鳴ると
    いうことらしい。
     ほんのわずかでも砂が汚れると鳴らないということで、具体的には、コップ1杯の鳴き砂
    にタバコの灰を耳かき1杯分落としたらもう鳴らなくなると説明されている。
     水のきれいな海岸で、適度に波があって常に砂が洗浄されており、しかも川からの土壌流
    入がなく、近くに石英層があるなど、いろいろな条件がうまく合致した場合に形成されるこ
    とになるが、そういう場所がそうそうあるわけではなく、この旅行当時で鳴き砂のある浜は
    全国に19か所しかないと言われていた。
     別稿『ねんきん老人のせこい旅 第2回』にも書いたとおり私は砂を集めており、ここの
    砂は是非とも手に入れたいものであったから、心は躍る。
     海水浴シーズンでもあり、有名な浜であるからさぞかし賑わっているものと思っていたが、
    案に相違して人は誰もいなかった。海の家も駐車場もなく、細い道の行き止まりに車を停め
    て浜に出る。
     鳴る、鳴る!
     キュッ、キュッと、期待どおりの澄んだ音がいくらでも鳴る。これには子供たちも喜び、
    かなりの時間をそこで過ごした。砂を採取したのは言うまでもない。
     そのあと、近くの仁摩サンドミュージアムに行く。
     この旅行の数年前に竹下登首相の発案で実施された「ふるさと創生事業」で全国の市町村
    に公布された1億円を使って作られた砂の博物館である。
     目玉は世界最大の砂時計で、1tの砂をサラサラ、サラサラと1年かけて落とすという。
    ちなみに公布された1億円はこの時計だけで吹っ飛んだそうだから、おそらく世界一高い時
    計ということになるだろう。
     砂を入れるガラス容器の大きさは言わずもがなであるが、上下の容器をつなぐノズルの直
    径がわずか0.84mmだということに驚く。
     1秒間に0.032g、1日で2,740gの砂が落ちるということだが、その精度を守
    るための砂は、全国の鳴き砂の中でもとりわけ粒子の揃った山形県西置賜郡飯豊村遅谷の砂
    が選ばれたという。
     これは見応えがあった。感激のあまり私は翌年、飯豊町遅谷で珪砂を採掘している川鉄鉱
    業という会社に手紙を出し、採掘現場を見学させてもらったほどだ。そこは海岸ではない内
    陸の山奥であるが、良質の石英を含む珪砂が豊富にあり、その砂で耐火レンガなどを作るの
    だそうな。
     そのときそこで採取させてもらった砂は今も私の標本箱の中でひときわ白く光っている。
     そのほかこの博物館には砂に関するあれこれが様々な工夫をもって展示されており、日本
    全国、世界の各地から集められた砂も並んでいる。私は自分の住む千葉県各地の砂を持って
    いるので、寄贈したいと考え、申し出てみた。
     スペースの関係で展示できるかどうかは分からないが、寄贈はありがたいとのことであっ
    た。まあ、迷惑だとも言えないのでそう答えたのだろうが、私はそうとも察せず、2度に亘
    って何か所かの砂を送った。
     10数年後に私はまた2年続けてこの博物館に行ったが、そのとき陳列棚を見ると、私の
    送った場所の砂が1瓶だけ展示してあった。ただ多くの標本に提供者の名が書いてあるのに、
    それには採取場所以外なにも書いてない。私の送ったものかどうか訊きたかったが、度胸が
    なく、そのまま館を出てしまった。まあ、私のものだということにしておこう。

     予約してあった民宿「いいの屋」さんに入る。琴ケ浜までは歩いて数分の所にある。
     60代後半か70代前半と思しき夫婦で営む宿で、客はほかに誰もいなかった。
     これが大当たりで、私が鳴き砂に興味があると言うと、おかみさんがとたんに饒舌になり、
    夕飯の間つきっきりで話をしてくれた。
     鳴き砂のことを少し勉強した者ならば誰もがその名を知っている三輪茂雄さんという人が
    いる。紛体工学の第一人者で、当時は同志社大学の教授だったと思うが、その人がこの「い
    いの屋」さんを定宿にして琴が浜の研究を続けているというのである。
     失礼ながらあまり学問とは縁のなさそうなおかみさんは、「フンタイコウガク」という言
    葉に力を込めて、三輪先生のことを熱く語った。
     私がさいぜん琴が浜の砂を採ってきたと言うと、ただすくっただけではダメだ、ゴミなど
    が混入しないように専用の篩を使って採取しなければ、と言う。そしてこれがその篩だとい
    って見せてくれたのは、外枠が木で作られた直径20cmほどのせいろのような篩で、網の
    部分は薄い布といってもいいくらいの目の細かなものであった。
     特注品で、網は馬の毛で作ってあるという。
     なんでそんなものがここにあるのかと尋ねると、それは三輪先生のもので、先生は度々こ
    こに投宿して研究を続けておられるので、いちいち持ち帰らずに、ここに置いてあるのだと
    いう。
     へー、と感心する私におかみさんは、それを持ってもう一度浜に行き、改めて採取してく
    るようにと勧めた。
     滅相もない。そんな大先生の私物を私などが無断で使用していいわけはない。二度三度と
    断ったが、おかみさんのたっての勧めに抗しきれず、翌朝もう一度浜に行った。前日採った
    砂を捨て、くだんの篩を使って改めて採取する。なるほど捨てた砂と篩を使って採った砂と
    では見た目にも粒子の揃い方が格段に違う。調子に乗って、いくつものビニール袋にいやと
    いうほど詰め込んだ。
     後日その砂を生徒たちに見せ、音を聞かせ、望む生徒には分けたりした。そうしてだんだ
    ん減ってはしまったが、今でもインスタントコーヒーの瓶1本が残っており、乳棒で突くと
    きれいな音が出る。
     さてこの鳴き砂。地域によって鳴り砂とも呼ばれ、2007年に全国鳴き砂ネットワーク
    という組織が統一しようとしたが両者譲らず、結局「鳴砂」と表記して読み方は地域に任せ
    るとした経緯があるらしい。
     「いいの屋」のご夫婦は鳴き砂と言っていたが、最近の資料(島根県大田市観光協会HP)
    を見ると鳴り砂となっている。どちらでもいいが、私はその種の砂を初めて知ったときの言
    い方、すなわち「鳴き砂」という方がしっくりくる。
     ちなみに川中美幸さんという演歌歌手が『女 泣き砂 日本海』という歌を歌っているが、
    それはこの琴が浜のことだそうだ。「鳴き」を「泣き」と書いているところがいかにも演歌
    らしい。阿久悠さんの作詞だとか。
     民宿「いいの屋」さんの気さくで温かいもてなしを受けた私はその後何度か手紙を出し、
    またお世話になりたい旨伝えていたが、最近はご無沙汰しており、今回この稿を書くにあた
    って改めてインターネットで検索してみた。
     琴が浜周辺の民宿はいくつか見つかったが、「いいの屋」さんの名はなかった。あれから
    もう20年以上が経っていることでもあり、お歳を考えるともう閉めているのだと思う。

     翌日、繰り返しお礼を述べて「いいの屋」さんをあとにした。
     小一時間ほどで出雲大社に着く。
     ここも修学旅行の引率で何回か来ている。一通りの見学をして日御碕へ。
     岬の突端に立つ灯台は高さ日本一だ
    そうで、上まで登ることができる。狭
    い階段で最後は梯子と言った方がいい
    ような急な階段だ。それでも展望台に
    出てみるとさすがに絶景で、日本海が
    青く広がっている。
     宍道湖の北岸を通り、松江城へ。
     ここには修学旅行の引率でも何回か、
    個人旅行でも何回か来ている。だが、
    あまりいい思い出はない。
     近くの土産物屋でうちの生徒が万引
    きをしたという訴えがあり、私は一人
    残って防犯カメラのチェックをすることになった。店主が「これだ!」と止めた画面には
    明らかに違う制服の男子が写っており、確かに品物をバッグに入れる様子が写っていたが、
    私は制服の違いを説明して放免された。
     そのあとタクシーで旅行団を追うのにかなりの時間を費やしたが、自校の生徒でなかっ
    たという安堵感と無駄な時間を費やしたバカバカしさでなんとも複雑な思いであった。
     また、教員の中にいい年をして女生徒にばかり声をかけることで評判の悪い男がいて、松
    江城をバックに写真を撮ろうとしている女子グループを見つけると、相好を崩して近寄って
    行った。我々が「またやってるよ」などと笑いながら見ていると、女生徒たちがかなり大き
    な声で「来るよ、来るよ」「ヤダー」などとざわめき出した。その教員がグループの中に入
    って一緒に写真に納まろうとしたところまではいつもの光景であったが、このときは生徒の
    一人が金切声を上げたので、まずいことになった。
     「アタシ、この写真いらない!」
     「入らないでください、いやらしい!」
     そのあとしばらくその教員が不貞腐れていたのはいいとして、夜、生徒たちが「あの先生、
    何とかしてください」と訴えてきたのには困った。その教員は私より年上であり、悪意でし
    たことでもないので、角が立たないように注意するにはかなり苦労した。
     そんなことを思い出しながら松江城を見て回り、そのあと小泉八雲の旧宅に行った。観光
    地としては地味な場所なので子供たちが興味を持つかどうか危ぶみながらであったが、案に
    相違して熱心に見ている。八雲の使った机だのキセルだのと、何の変哲もないものを時間を
    かけて見ているし、直筆原稿など読めもしないのに見ている。
     まったく子供の感性というのは分からぬものだ。

     そのあと中海の北岸を走って東へ。この日の泊まりは鳥取なので、中海は南岸を走った方
    が近道になるのだが、美保関灯台に寄りたいと思っており、そのためには北岸経由の方が近
    い。
     美保関灯台は島根半島の東端にあり、どう考えても遠回りになる。しかも国道431号線
    から分かれて灯台に向かう県道2号線は片道10kmの行き止まり道だ。
     そうまでして行きたかった美保関灯台とはどんな所なのか。
     明治31年にフランス人の指導で建造された山陰最古の灯台ということであり、海面から
    の高さが83mだとのことであるが、そういうことは知らなかった。
     ただ写真で見たことがあり、その外観に強い印象を受けたものだから、自分の目で見たい
    と思っただけのことである。
     日本に灯台が何基あるかは知らないが、おそらくその殆どはコンクリート製であろう。白
    亜の灯台という言葉も、コンクリートであれば当たり前ともいえる。
     それがこの灯台は石積みである。円柱状の外壁が白い石を積み上げられてできているもの
    だから、ちょっと見にはスペインの田舎にでもある風車小屋か何かのようでもある。
     間近に見る灯台は思ったよりずんぐりして14mもの高さがあるようには見えない。よく
    あるように円柱状の灯台の基部に直接扉がついているような入口ではなく、基部に入口を兼
    ねた執務室か何かのような建物が付随しているので、よけいに低く見えるのかも知れない。
     石は凝灰岩だそうで、コンクリートとは違って趣きがあるが、それがその執務室にも灯台
    本体とまったく同じ作りで使われているので、景観に人の営みが感じられる。
     それだけではない。灯台脇には灯台守の宿舎が建っているが、これも外壁はすべて同じ凝
    灰岩。さらに灯台と宿舎を囲んで石塀があり、その一角がそのまま歴史遺産ともいうべき空
    間になっている。
     残念ながら灯台も宿舎もすべて無人で、中に入ることはできない。
(現在、宿舎はレストランに
      なっているらしい)

     それでもわざわざ遠回りをして、行き止まりの道を走ってきた甲斐はあった。
 
     県道2号線を戻り、美穂湾にかかる日本最大のコンクリートラーメン橋である江島大橋を
    渡って境港に入る。橋の下が県境になっていて、島根県から鳥取県に入るということになる。
     ラーメン橋というのは、その名前の面白さから聞いてはいたが、橋桁と橋脚をしっかりと
    固定する工法で作るものだという。
     通常、橋を作る際には温度変化等で伸縮やねじれなどを起こしてもいいように桁と橋脚の
    間に伸縮やねじれを吸収する部分を作るものらしい。それは広く知られている技術で、現在
    では橋に限らず、高層建築などでは当然使われるものと、小学生でも思っている。
     それを敢えて使わずに頑強に固定するというのはどういうことかというと、長い橋の場合、
    過大な変形によって桁がずり落ちてしまう恐れがあるからということらしい。それならいっ
    そ、ゆがみようもないほどにガッチリと固定してしまう方が・・・ということらしい。
     「らしい」「らしい」とあやふやな物言いしかできないことに我ながら情けない思いであ
    るが、私の知識というのは殆どが居酒屋仕込みで、まっとうな学問からのものではないので、
    それ以上はなんともならない。
     さらに白状すると、私はラーメン橋という名のラーメンをあのラーメンだと思っていたが、
    実は「骨組み」を意味するドイツ語の Rahmen なのだそうだ。穴があったら入りたいという
    のは、まさに私のために用意された言葉であろう。
     国道9号線を日本海沿いに東へ進み、夕方6時、白兎海岸の民宿に入る。
     なにはともあれ、海へ。
     なにしろあの「因幡の白兎」の舞台である。当然子供たちも知っている。ただ残念なこと
    に、子供たちはそれを実話だとは思っていない。
     「ここでウサギが皮を剥がれたんだ」
     「作り話でしょ」
     実話ではないと思っているのは仕方がないとしても、「作り話」という言葉はどうもいた
    だけない。なにか「嘘でしょ」と言われている感じがする。
     私は折角ここまで連れてきたというのに誰も感動しないことに腹を立て、古事記という昔
    の本に載っているんだ、と語気を強めた。
     「ふーん。どの島から渡ったの?」
     「この海の向こうにある隠岐の島という所だ」
     しかし、これはあとで後悔した。デタラメと言われても仕方がない。
     そもそも私は古事記を読んだことがない。まあ、読もうとしたことはあるが、難しくてと
    ても歯が立たない。悪戦苦闘して放り出し、何年か経ってまた挑戦しては放り出し、何回か
    そんなことを繰り返したあと、挑戦すらしなくなってしまった。
     むろん、易しい言葉で書き直したものなら読んではいるが、それがどこまで原典に忠実な
    のかは分からない。
     たとえば「因幡の白兎」と簡単に言うが、それには数多の解説があり、読めば読むほど分
    からなくなるというのが正直なところだ。
     どだい、「因幡」というから鳥取県の話だろうと思っていたのは浅学の極みで、古事記で
    は「稲羽」となっているらしい。「稲羽」は「イナバ」の音に当てた字で、「イナバ」は稲
    場、つまり稲の置き場を表す言葉、全国に多くある地名だというのだ。
     それに大国主命が白兎を助けたのは「気多前に着いた時」とあるが、その気多前というの
    は白兎海岸から10数キロ西の長尾鼻という岬だという説もある。
     隠岐の島にしてもそうだ。
     私は単純に「この海の向こうにある隠岐の島」などと言ったが、それは島根県隠岐郡隠岐
    の島のことで、白兎海岸からは直線で60kmぐらいある。鮫を並べて渡れるような距離で
    はない。
     古事記にある「淤岐嶋」をその隠岐の島だとする説は確かにあって、私も単なる当て字だ
    と思っていたのだが、「淤岐」は「沖」を表すのに使われることが多いということで、「沖
    にある島」つまり「沖の島」という意味だという説に接して愕然とした。
     それなら確かにいくつかの島とも岩礁とも見えるものがあるから、鮫を並べて渡るという
    話も生まれやすい。
     かく見てくると、古事記の舞台がここ白兎海岸だという話はかなり怪しくなってくる。
     というわけで、私はこの旅行のあと、またしても本棚のどこかに隠れていた古事記を引っ
    張り出して、その部分だけを読んでみた。
     やっぱり読めず、諦めた。自分の浅学を棚に上げて言わせてもらえば、古事記をスラスラ
    と読める人はそう沢山はいないのではないかと思う。

        故此大國主神之兄弟八十神坐 然皆國者避於大國主神 所以避者
        其八十神各有欲婚稲羽之八上比賣之心共行稲羽時 於大穴牟遅神負
        爲従者率往 於是至氣多之前時 裸菟伏也 爾八十神謂其菟云 汝將爲者
        浴此海鹽 當風吹而 伏高山尾上 故其菟従八十神之教而伏
        爾其鹽随乾 其身皮悉風見吹拆 故痛苦泣伏者 最後之夾大穴牟遅神見其菟
        言何由汝泣伏 菟答言 僕在淤岐嶋 雖欲度此地 無度因 故欺海和迩
         ( 中略 )
        服 因此泣患者 先行八十神之命以 誨告浴海鹽當風伏 故爲如教者 我見悉傷
        於是大穴牟遅神教告其菟 今急往此水門 以水洗汝身 即取其水門之蒲黄
        敷散而 輾轉其上者 汝身如本膚必差 故爲如教其身如本也 此稲羽之素菟者也

     これが例の皮を剥がれた兎が兄神たちにだまされて塩水で体を洗ったあと陽なたで寝てい
    て、乾いた皮膚が裂けて苦しむ場面、そこに通りかかった大国主命が真水で体を洗い蒲の穂
    にくるまって休むよう教える場面、そのとおりにした兎が回復する場面・・・らしい。
     そのつもりで読めばそれらしい文字が散見するが、これで「読んだ」と言うのはさすがに
    憚られる。
     ここはあまり深入りせず、オオクニヌシノミコトがウサギを助けた海岸、というくらいに
    しておいた方がよさそうだ。

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