第2回  久里浜 ~ 平塚            1996.03.28 (日帰り)


 前回の終点久里浜から先へ進み、三浦半島の西海岸を走ることにする。

1996年03月28日(木)
 金谷からフェリーで久里浜に渡り、トリップメーターをゼロに戻して出発。浦賀水道を左に見ながら三浦半島を南下する。
 菊名海水浴場先の琴音磯(ことねいそ)に出る。
 室町時代、新井城の城主三浦義同(よしあつ)が野狩りの帰途、この辺りまでさしかかると、美しい琴の音が聞こえてきた。
 その音を頼りに海岸に行ってみると、その音は磯に湧く清水の音だった。聞き入っているとそこから1体の観音像が浮き上ったので、義同はこれを祀り、以後狩猟をやめたということで、以後この磯に「琴音磯」の名がついたという話である。
 なんの変哲もない磯から、よくもまあこんな作り話をと思うが、太古の昔から、人間の想像力がどれほど人々の生活を潤してきたかを思えば、この話も捨てたものではないし、むしろ現代人の機械的な思考回路の方が問題ではないかとも思えてくる。

 剱崎灯台下の磯を歩く。
 学生時代、毎年5月の連休になると仲間で三浦半島のあちこちでキャンプをしていた。洞窟で寝てゲジゲジに刺されたり、闇鍋のせいか腹を壊したりしたが、焚き火を囲んで夜通し飲んで騒いで、愉快な上にも愉快であった。
 メンバーは、友人の友人というような、普段は付き合いのない連中を含めて毎回6,7人だったと思うが、これが皆あっぱれなエンタテイナーばかりで、次から次へといささか品のない芸を披露する。誰も彼もが抱腹絶倒し、私もかなりの芸を覚えた。
 といって、彼らはそれぞれの分野においてはたいへん博識でもあり、真摯でもあり、私は年ごとのキャンプでどれほど啓発されたか計り知れない。
 この剱崎もそんな場所の一つであったが、嬉しいことに周囲の景観は30数年を経てまったく変わっていない。この旅で私はかつてキャンプした場所をいくつか回ったが、どこもかしこも著しく変貌し、どう記憶を辿っても同じ場所だとは思えぬ所もあった。

 城ケ島大橋を渡る。けしからぬことに有料になっており、150 円取られる。橋を渡り切ると右下に、

   雨はふるふる 城ケ島の磯に
   利休ねずみの 雨が降る

 という、北原白秋の歌碑が建っている。確か昔は別の場所にあった筈で、この碑の前で感傷に耽った記憶があるが、今は橋の下に移設され、意識して探さなければ見落としてしまう。
 磯伝いに馬の背洞門と呼ばれる海食洞穴まで歩く。第3紀の凝灰質砂礫岩という軟らかい岩でできているため崩れ易い、登るなと注意書きがある。岩の手前に紫色の貝の欠けらを含んだきれいな砂地があったので、持参のタッパウエアに砂を採る。
 なんでタッパなど持っているのかというと、実は私は、長いこと砂を集めている。各地の海岸や河原で砂を採り、30ccのサンプル管に整理して50本ずつ標本箱に入れ、それが現在29箱目、つまり 1,400本を少し超えている。
 別に学術的な意味があってのことではない。以前エジプトに行ったとき、当時6,7歳だった長男が砂漠の砂を採ってきてと言った。それでギザのピラミッド前の砂をビニール袋に入れて帰った。それ以来、どこかに行くとそこの砂を採ってきて並べている。それだけのことである。
 しかし集まってみると、それぞれに色も粒子も違っていて、きれいでもあり、なかなか興味深い。コレクションが 300 本になったとき、周りの人たちが、ほう、よくこれだけ集めましたね、などとお世辞を言ってくれた。私はいい心持であったが、そのとき尾関さんという同僚が、
「 何万本というならともかく、300 本じゃあ、何の価値もないね 」

 
 砂礫標本

 と、宣うた。私はがっかりし、何の価値もないということはなかろうと思ったが、反論するのも大人げないと思い、いやいやお恥ずかしい、などと言ってその場を終えた。
 数年後に 600 本になったとき、勤務先の文化祭で展示した。周囲のお世辞は倍加し、私は内心得意にもなった。 すると尾関さんが、
「 何万本というならともかく、600 本じゃあ、何の価値もないね 」
 と、まるで覚えていたかのように一言一句変わらぬ台詞を吐いた。私はむっとしたが、そこは大人であるから、いやいやお恥ずかしい、と言ってその場を終えた。
 900 本になったとき、尾関さんが言った。
「 何万本というならともかく、900 本じゃあ、何の価値もないね 」
 何の価値もない、というところに妙に力が入っているように聞こえた。私はついに切れて、声を荒げた。
「 尾関さん、何万本って一口に言うけどね、人の一生は3万日だよ。オギャーと生まれたその日から棺桶に入る日まで、毎日1か所ずつ拾い集めても3万本にしかならないんだよ。そんな人って、いるのかね 」
 そして、すぐに後悔した。
 世の中には、他人の言動を評価すると相対的に自分の価値が下がると思う人が結構いる。そういう人は周りが誰かを誉めたりすると反射的にそれを否定して見せずにはいられない。
 それを笑って聞き流せないで、いちいちムキになっていたのでは、こちらの器が小さいということになってしまう。
 ともあれ、そうやって砂を集めているのが、今回タッパを持参していた理由なのだが、付言するならば、旅行の途中で時々しゃがみ込んで砂を採る行為は、家族の中で極めて評判が悪い。

 城ケ島を出てからは、相模湾を左に見ながら北上する。
 和田長浜(なはま)海水浴場で休憩。この地は鎌倉幕府の侍所初代別当和田義盛の出身地だということで、高校の教科書には必ず出てくる名前だけに、なんとなく意味ある旅をしているような気になる。
 しばらく休んで出発。 ところがなにか気が重い。なんだか判らぬが、楽しくない。さんざん道に迷ったことで気が滅入ったのかも知れぬ。
 初めに、海岸線に沿って日本一周と考えた。だから海沿い、海沿いと思って無理やり狭い道に入り込んだりしていたが、これがどうしてなかなか難儀である。
 海沿いの道というのは漁港であれ自然の海岸であれ、細く、折れ曲がっていて、しばしば行き止りになっている。 臨海工業地帯などでは、やたら立入禁止の看板に出合って立ち往生することにもなる。
 三戸浜では、キャベツ畑に屈んでいたお婆さんに海への道を訊いたところ、この道を行くとお寺さんにぶつかるから、そこを右に行かずに左へ行けばそのまま海に出られる、と教えられた。
「 右に行くんじゃあないよ 」と念を押され、その通りに左に進むと、道は急勾配の上り坂になり、しかもどんどん細くなる。Uターンもかなわず、左右のミラーをたたみ、小枝にガリガリと車体をこすりながら進む。とうとう諦め、そのままバック。脱輪を恐れ、ノロノロと首の筋を痛めながら寺まで戻り、今度は右に行ってみた。なんということか、1分もかからず海に出てしまった。
 どうも海沿いの道ということにこだわり過ぎない方がよさそうである。
 そんなこんなで心身共に疲れてしまったのだろう。元々今回も1日しか取れない休みなので宿泊の予定はなかったが、それでも伊豆半島の付け根ぐらいまでは行けると思っていた。 それがどうにも気が乗らず、どこで帰るかばかり考えていた。
 結局、湘南大橋で終わりにして、メーターを見る。95 キロ。今回の始点久里浜までの往路と終点の湘南大橋からの帰路が合わせて 184キロであるから、なんとも効率の悪い一日であるが、しかたがない。
 前回と合わせて、海沿いに 296キロ走ったことになる。目指す日本一周の約 50分の1。目標達成の日がくるような気は、まったくしない。


第1回 木更津 ~ 久里浜 第3回 平塚 ~ 河津
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