九州往復ケチケチ旅行(3)


  

神話と小説の舞台なのに


      草野先生のお宅を辞した私たちは、妻の実家筋の親戚に向かった。
      妻にしても20数年ぶりであり、記憶を辿りながらやっと家を見つけるという按配であ
     ったが、家そのものは昔と変わらぬ農家のたたずまいで、子供たちにとっては珍しい木桶
     の風呂もあった。
      歓待を受け、ぐっすり眠って翌日は阿蘇を目指す。
      途中、小国町の産業物産館「ぴらみっと」に寄る。漠然と林業の町というイメージを抱
     いていたので、木工製品でも多く見られるのかと思っていたが、酪農製品ばかりが目立つ
     所で、とくにどうということもない。
      ただ、小国杉を多用したという建物は立派なもので、とりわけ天井を支える梁は見とれ
     るほど見事だ。聞けば小国町の林業は外国産の木材に押されて昭和40年代をピークに衰
     退しているとのこと。
      それはそうと、なぜこの施設が「ぴらみっと」なのだろう。まあ大きな屋根の形がピラ
     ミッドに見えないこともないが、それにしてもなぜ平仮名なのか、なぜ語尾が「ど」でな
     くて「と」なのか、どうもよく分からない。
      小国から国道212号線を南下し、昼過ぎ、阿蘇の米塚に着く。独特の美しい形は子供
     のころ砂を手ですくってさらさらと落として作った山によく似ている。
      そのせいか、その昔、大飢饉に見舞われ飢え苦しんでいる人々を救うために神様が手に
     米をすくって空から落としたときにできた山だという言い伝えがある。私は子供たちにそ
     れを話したが、誰一人として興味を持つ者はいなかった。
      その神様というのが建磐龍命(タケイワタツミノミコト)というのだということは、ず
     っとあとになって知ったので、その頃にはもう子供たちは成人していて、私自身、もう話
     して聞かせる気にもならなかった。

      県道111号線で草千里へ。広大な草原で牛や馬がのんびりと草を食んだり寝そべった
     りしている。
      「牛と馬の違いを知ってるか?」
      「・・・・?」
      「牛は歩きながらオシッコをするけど、ウンコは立ち止まらないとできないんだ。馬は
     歩きながらウンコをするけど、オシッコは立ち止まらないとできないんだ」
      「・・・・?」

      阿蘇登山有料道路というのを通って中岳の山頂へ。子供たちに火口を覗かせようと思っ
     たのだが、あいにく火口へのロープウエイは運休になっていた。なんでも火口周辺に漂う
     二酸化硫黄の濃度が上がっているためだということであった。
      私は以前見下ろした火口の雄大さをさんざん語っていたので、子供たちは拍子抜けした
     様子で口を尖らせている。運休の訳を説明したかったが、二酸化硫黄って何?などと質問
     されても答えられないので、「頂上に有毒ガスが溜まってるんだって」とだけ言って、近
     くのグラススキー場に車を進めた。
      これは当たって、子供たちは大喜びで滑
     りまくっていた。娘は数メートル毎に転ぶ
     ので、母親は大忙しだったが、息子二人は
     どういうわけかスイスイ滑り、いつかなや
     めようとしない。
      長男が1500円、次男と娘が1000
     円ずつで、安くはないが、まあロープウエ
     イ代と思えばいい。

      白川吉見神社へ。境内には一級河川白川
     の水源がある。というより、水源があって
     神社があると言った方がいい。
      というのも、そもそもこの水源の守り神として社があったところへ、その水量の豊富さ
     に感嘆した細川藩主綱利が社殿の修造を命じたというのが来歴で、水源こそ神社の基なの
     だ。
      なるほどその水量はたいしたもので、湧水がそのまま池になり、すぐ川になって流れて
     いる。毎分60トンと説明があったが、庭に水を撒くにも水道料金を気にしている我が家
     の尺度では見当がつかない。
      透明度も目を見張るもので、水底の水草や砂利がくっきりと見てとれる。湧水が小砂利
     をまき上げている所もあり、これぞ水源という趣きがある。透明な水に似合うマスらしい
     魚も見えるが、これはおそらく放流したものであろう。それ以外の魚はまったく見られな
     かったので、文字通り「水清ければ魚棲まず」ということなのかも知れない。
      この水はすべて阿蘇のカルデラからの伏流水だそうで、阿蘇という大自然の途方もなさ
     を実感する。

      この日は白川水源からほど近い「南阿蘇国民休暇村」という所に泊まる。我が家の定番
     「国民ナントカ」だ。
      手元の記録を見ると、大人料金3人、子供料金2人で51,243円とある。高くはな
     いが、安宿というほどでもない。我が家にしては、まあまあちゃんとした宿と言っていい。

      翌日は国道325号線を南西に40kmほど走り、宮崎県に入る。お目当ては高千穂峡
     だ。
      高千穂といえば天孫降臨の地で、こころなしか、一帯を荘厳な空気が覆っているように
     感じられる。
      私はここを訪れるのは初めてだったが、高千穂という地名はいかにも由緒ありげで、一
     度は行ってみたいと思っていた。
      子供のころ、高千穂ひづるという女優がいた。東映時代劇のお姫様役として代表的な人
     だったと思う。私は長いこと、彼女の芸名はこの地に由来しているのではないかと思って
     いたが、調べる術もなく、おそらく出身地がこの近くなのだろうと勝手に推測していた。
      今改めてインターネットでさぐってみると、彼女は兵庫県の出身で、高千穂とは何の接
     点もなさそうである。なんだか拍子抜けで、調べなければよかったと思う。
      それはともかくとして、五ケ瀬川の作り出す峡谷は神秘的といっていいほど静謐で、遊
     歩道を散策しながらも我知らず敬虔な気分になってくる。
      ただ、近くに天岩戸神社というのがあって、これはいただけない。境内に洞窟があり、
     それが天岩戸だというが、記紀に記された神話によれば天岩戸というのは高天原にあった
     筈で、それが天孫の降り立った地上にあるというのは理屈が合わない。
      そもそも神話というのは高度の空想を基盤とした壮大な物語であって、この世の岩峰や
     河川、湖沼などにまつわる伝説とは似て非なるものである。
      だから、この岩だのあの池だのと特定せずに、「天照大御神から授かった三種の神器を
     たずさえたニニギノミコトは猿田毘古神の案内を得て、ここ日向の高千穂に降り立った」
     ぐらいの話で終わらせておくのがいい。それだけで十分、辺りの景色が神々しく見えてく
     る。
      なまじ、この岩に腰かけただの、あの池で目を洗っただのと言い出すと、神話全体が嘘
     っぽくなってくる。
      現に、イザナギノミコトが最初に作ったおのころ島というのも、ここ高千穂のほかに淡
     路島にもあって、それぞれが「おらが村」を張り合っているおかげで、どちらもが、とっ
     てつけた観光名所に見えてしまっている。
      天孫降臨の地にしても、ここではなく、ずっと南の霧島連峰にある高千穂峰だという説
     もある。なるほど高千穂峰は遠くからでもすっくと立つ美しい姿が見られ、「雲に聳ゆる
     高千穂の・・・」という紀元節の歌のとおりで、いかにも天孫が降臨したと思わせるに十
     分である。
      まあ、高千穂峡か高千穂峰か、この二つくらいにしておいた方がいいだろう。
      ともあれ高千穂峡は、大人にとっては幽玄の郷、子供にとっては滝や流れ、水族館と遊
     びの要素に満ちた場所であり、おおいに満足のゆく所であった。

      次に向かったのは大分県竹田市の岡城址。
      名曲『荒城の月』の舞台となったということ以外には何の知識もなかったが、それだけ
     で行ってみたいと思わせるに十分である。
      瀧廉太郎は少年時代、よくこの岡城址で遊んだということで、その記憶をもとにあの曲
     を作ったという。ときに20歳か21歳。そして23歳で死去。
      20歳といえば、今の日本では鼻にピアスなどつけて原宿あたりでたむろしている連中
     の年頃だろう。私自身の20歳のころにしても、授業を抜け出して映画を観に行ったり、
     寝袋を背負って無銭旅行に出かけたりしていたころだ。
      わずか23年の人生で百年以上も人々に記憶される逸材と、夜中に市街地でバイクの爆
     音をまき散らして快感を得ている愚者と。
      人間に優劣はないなどと分かったようなことを言う人がいるが、とんでもない。優秀な
     人間と劣等な人間とでは、雲泥の差がある。

      岡城はかなりの高所にあり、その上堅牢で複雑な石垣で囲まれていた。難攻不落と言わ
     れたそうだが、むべなるかなと思う。今は石垣のみ残る完全な遺構だが、素人目にも防御
     に適した名城であったことがうかがわれる。
      石垣の上に浮かぶ月を眺めてみたいなどという、柄にもないことを考えたが、走り回る
     次男が石垣から落ちるのではないかという思いの方が勝り、ほどほどのところで引き上げ
     た。

      メモによれば国道502号線を20分ほど走ったとあるが、豊後大野市にある原尻の滝
     に着く。以前新聞の行楽記事か何かで見て、行ってみたいと思っていた場所だ。
      落差20m、幅120mの弓形の滝で、この日は水量がやや少ないということだったが、
     それでもなかなかの滝である。
      ただ、これを「東洋のナイヤガラ」と宣伝していることは気に入らない。
      「原尻の滝」というだけでは集客力が不足だと考えてのことだろうが、外国の有名な滝
     の名を借りて観光客を集めようというさもしさが情けない。
      実は「東洋のナイヤガラ」と宣伝しているのはここだけではなく、群馬県の吹割の滝も
     そうだ。いずれもカナダのナイヤガラの滝とは規模、形状がまったく違う。
      原尻の滝はのどかな田園の中に場違いのようにできており、滝の上にも下にも歩いて簡
     単に行ける。見ようによっては天然のプールのようにも見える。とてもとても、ナイヤガ
     ラには見えない。
      たとえ見えたとしても、ここはナイヤガラではない。原尻である。
 そもそも「東洋の○○」とか「日本の△△」などと外国の
有名な場所の名を借りて価値を高く見せようという卑屈なや
り方を恥とは思わないのか。あっちでもこっちでも「日本ラ
イン」とか「日本アルプス」とか言って悦に入っているが、
その裏には、ライン川やアルプスの方が日本の木曽川や飛騨
山脈などよりも上だという意識がある。そんなものに優劣が
あるわけはないのに。
 滝の下流に緒方川を跨ぐ吊橋がかかっている。子供でも両
手を広げると左右の手すりを同時に触れるくらいの狭い橋で、
長さは90m、高さは22mとある。
 むろんワイヤーで吊っているのだが、手すりも橋床も木製
で、風情がある。かなり揺れ、子供たちは滝よりもこっちに
夢中であった。
 橋からは滝が正面に見え、これもなかなかの景色である。

 この日の予定をすべて終え、湯布院に向かう。
 今回の旅行はいつもの家族旅行のとおり「国民ナントカ」
や民宿に泊まりながらも、京都の宿を始めとして高級旅館や
ホテルにも泊まったことは先述のとおり。その中でも湯布院
の宿は張り込んだものであった。
      というより、懇意にしていた近畿日本ツーリストのTさんに頼んでおいたところ、「い
     い宿がとれました」とか言って1泊3万数千円もする「玉の湯」というところを予約され
     てしまったのである。
      3人が大人料金、2人が子供料金で、飲み物の追加を含めて16万円を超える支払いに
     なった。これは我が家にとっては大事件で、この出費のあとは常に残金を数えながらの旅
     行になってしまった。
      まあ、高いだけあって部屋も食事も豪華なものだし、なによりも全室離れということで、
     子供たちが騒いでも気兼ねせずにいられたから、ぐずぐず考えずに楽しもうと、強いて自
     分を納得させながらの一夜であった。
      ところが、夜半からにわかに風雨が激しくなり、翌朝は出発をためらうほどの嵐となっ
     てしまった。
      10時過ぎまで様子を見て、いくらか弱まったのを機に宿をあとにする。
      一応金鱗湖にも行ってみたが、フロントガラスに叩きつける雨で湖面などまるで見えな
     い。旅行雑誌などに写真が出ている駅にも行ってみたが、目の前を畳よりもおおきな看板
     やトタン板が飛んで行ったり、商店のシャッターが半分外れてバタバタと浮き上がったり
     していて、駅どころではない。
      というわけで湯布院は早々に切り上げ、別府に向かうことにする。
      由布岳を左に見ながら山道を走る。雨は徐々に収まってきたが、所々で杉の倒木が道を
     塞いでいる。どれも直径が20cmくらいあったと思う。たまたま乗っていたのが、買っ
     て間もない5段変速の四輪駆動SUVだったので、ままよとばかり倒木に乗り上げると、
     嬉しいことに難なく乗り越えてしまった。
      我が家では初めての四輪駆動だったので、子供たちはその威力に驚き、倒木があるたび
     に「ゴー、ゴー!」とはしゃいでいる。実は私も子供たちに劣らずテンションを上げてい
     たのだが、そこは冷静を装い、しばしのラフドライブを楽しんだ。
      別府につき、竹の博物館を見学・・・と記録にはあるが、実はまったく記憶にない。そ
     こから「大分かぼす」という特産品を土産で送り、代金は12,450円であったと、や
     けに細かい記録が残っているところをみると、見学したことは間違いない筈なのに、毫も
     記憶がない。
      古い旅行ではそういうことがよくあり、ありありと細かく覚えていることと、どう辿っ
     ても断片すら思い出せないこととが混在している。
      覚えている方では高崎山がある。ちょうど餌やりの時間で、餌を積んだリヤカーのあと
     を猿たちが追いかける光景を見ることができた。ここには何回か来ているが、これは初め
     てで、猿たちの興奮ぶりと騒々しさには圧倒された。初めて来た子供たちも大喜びであっ
     たが、餌やりの喧騒が収まったあとは、私は猿よりも、猿をからかう次男を心配したり叱
     ったりするのに気を取られて観光どころではなくなった。
 
      それよりも私が楽しんだのは、青の洞門である。
      中津市本耶馬溪町にあるこの洞門は、菊池寛の『恩讐の彼方に』の舞台としてつとに知
     られている。私は子供のころ、この話を実話だと思っていた。たぶん本で読んだのではな
     く、「お話」として聞いていたのだと思う。
      大学時代に、菊池寛と綾部健太郎の友情を描いた『末は博士か大臣か』という映画を観
     て、にわかに菊池寛にとりつかれた私は菊池作品を片っ端から読みまくり、『恩讐の彼方
     に』もそのとき初めて読んだのだと思う。
      読んでみると、漠然と頭にあったストーリーとは違って込み入った話であり、使われて
     いる言葉が難しくて閉口した。それでも主人公や大衆の心の変化を鋭く突いている描写に
     感じ入って、読後感を書いて友人に送ったりしたことを覚えている。
      その舞台である青の洞門を訪ねることは、今回の旅行の楽しみの一つでもあった。妻は
     九州の出身で、中学時代に遠足で行ったことがあるとかで、これも楽しみにしていた。
      実話ではないとはいえ、この洞門を彫った了海にはモデルがいたそうで、江戸時代の僧、
     禅海だという。諸国遍歴の途中、ここにさしかかった禅海は、人々が崖沿いの断崖を命が
     けで渡る難儀を知り、隧道開鑿を思い立った。村民や諸藩の援助を得ながら30数年をか
     けて開通させたという。
      開通後、通行料を徴収したとも言われており、かなり組織的な取り組みであったことが
     うかがわれるので、『恩讐の彼方に』の了海とはだいぶ違うようだが、偉業であることは
     間違いない。
      洞門の前に、その禅海和尚の像がある。右手に持った槌を高々と頭上に振り上げたその
     姿は、小説の了海とは違って逞しい体躯をしており、ちょっとばかりイメージが崩れた。
     洞窟も当然ながら拡幅されており、自動車も通れる。中の一部に手彫りの跡が残っている
     が、『恩讐の彼方に』を彷彿とさせるようなものではない。
      まあ、仕方がない。
      それでも、心ならずも主人を殺してしまった市九郎が主人の寵妾に操られながらの逃避
     行で人を殺めることに慣れてゆく心の変化、わずかに残った良心に責められ出家した市九
     郎が了海として衆生救済のために旅を続けながらも罪の意識に苛まれる様子、鎖渡しの難
     所で転落死した馬子を見て隧道を開鑿しようと決意する場面、寝食を忘れて鑿を振るう了
     海に対する村人たちの関心と無関心、尊崇と嘲笑が一再ならず繰り返される非情、等々が
     鮮やかに思い出され、感慨ひとかたならぬものがあった。
      私は妻子と一緒に洞門を歩いて抜け、戻ったあと一人でまた往復した。子供たちには私
      自身が子供時代に思っていたあらすじだけを話し、感慨のもととなった詳しい話はしな
     かった。したところで理解するわけもないし、拡幅されて車も通るトンネルで手彫りの苦
     労を話してみてもピンとこないことは分かりきっていた。

      途中、小石原民芸村で陶芸作品など見て、3日目に泊まった妻の親戚に帰り着いたのは
     夕方の7時を回っていた。
      またしても望外の歓待を受け、子供たちはお小遣いまで貰った。
      明日は九州を出て、山口へ向かう予定である。


九州往復ケチケチ旅行(2) 九州往復ケチケチ旅行(4)
    10月末更新予定
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