中国西域見聞記(1)


   

中国化の進む風土


     20数年前、近畿日本ツーリストの田中さんに新企画のツアーを勧められた。田中さん
    はのちに千葉教育旅行支店の支店長になった逸材で、私は公私に亘って大変な世話になっ
    ている。
     三蔵法師の通った道のうち、シルクロードと重なる部分、即ちウルムチから西安までの
    約二千キロをバスと列車で移動しようというもので、田中さんは「西遊記の舞台に立って
    みませんか」などという殺し文句を用意していた。
    『西遊記』。子供のころ本で読んだのは勿論であるが、繰り返し映画になり、テレビでも
    放映のたびに人気を博している物語なので、映像の記憶の方が強い。
     まず、昔エノケンこと榎本健一という役者がいて、その孫悟空は秀逸であった。五行山
    の岩に閉じ込められ、500 年後に助けられて三蔵法師の供となり、天竺まで行くことにな
    る。途中ブタの猪八戒、カッパの沙悟浄が供に加わり、金角・銀角大王、牛魔王といった
    妖怪との戦いを始めとして数々の苦難に遭いながら旅を続ける。
     この猪八戒に扮したのが岸井明という巨漢の俳優で、そのミスター善人といった風貌は
    今でもはっきりと目に浮かぶ。沙悟浄役は中村是好であったように思うが確かではない。
     岸部シローの沙悟浄も印象的であった。そのときには猪八戒は西田敏行であり、孫悟空
    は堺正章であった。とにかく何度も映画化されたもので、それぞれの配役が記憶の中で混
    乱しており、正確なことは分からない。ただ、三蔵法師は夏目雅子が今に語り継がれてお
    り、私もそれ以外の俳優は記憶にない。彼女は美人すぎて三蔵法師のモデルになった玄奘
    三蔵とは似ても似つかないが、そんなことはどうでもよい。
     田中さんによれば、行程の中には『西遊記』のハイライトに出てくる火焔山も含まれて
    いるという。そう聞いては抗することなどできるわけもなく、私はその場で申し込みをし
    た。
     同僚の伊藤さんと持崎さんが一緒に行くことになった。伊藤さんには2年前のヨーロッ
    パ美術巡りでも世話になっている。

     シルクロード。なんという魅惑的な呼び名であろう。
     ところがその道は、運ばれたシルクの光沢とは凡そ似つかわしくない灼熱の砂漠地帯を
    通っている。シ・ル・ク・ロ・ウ・ドを逆に読んでドウロクルシ(道路苦し)とふざける
    話もあながち見当違いとも言えないのである。
     大陸性気候の見本みたいなその辺りは、夏は連日40度を超え、ときに50度にも達す
    るという。私はかつてある所で42度という気温を体験したが、そのときは猛烈な下痢と
    脱力感に襲われ、持っていた小型カメラまで重くなって捨ててきた。それが50度となっ
    たら、いったいどういうことになるのか。
     私は不安になり、珍しくガイドブックの注意書きを丁寧に読んだ。そして高校生の息子
    から帽子を借り、小学生の娘から水筒を借り、その上、生まれて初めてサングラスを買っ
    た。380 円であった。

     北京からウルムチに行く飛行機は4時間も遅れ、到着は夜中の2時半だった。機内では
    ボール紙の箱に入った弁当が出たが、見るからにまずそうで、鶏肉を一切れ食べただけで
    捨ててしまう。
     ウルムチ空港からマイクロバスに乗る。ガイドは金さんという女性。
     一行14人の中に沼津から来た木下さんという夫婦がいたが、この女房殿がとんでもな
    いルンルンおばさんで、旅行中ずっと皆の顰蹙を買っていた。そのおばさんが心得顔でこ
    のガイドを「キムさん」と呼んだ。おそらく韓国に行ったことがあり、金をキムと読むの
    だと覚えてきて、何の疑問も持たずに中国語でもキムと読むのだと思ったのだろう。
     当の金さんは「キン」と自己紹介していた。これは日本人相手のサービスであり、本当
    の発音はと訊くと、「ジン」だと教えてくれた。それでも木下さんはずっとキムと呼んで
    いた。
     ウルムチなどというと、羊と瓜ぐらいしか目に入らない所と思っていたが、着いてみる
    と、これが案に相違してたいした都会で、ビルもデパートもある。
     それでも町中にウイグル文字が溢れていたり、やたらとロバが歩いていたりするのを見
    ると、やはり西域に来たんだという気分になってくる。
     ホテルでは部屋のキーではなく、部屋番号の記されたカードを渡される。これを各階の
    服務員に見せてドアを開けてもらうのだという。
     さて部屋に入ってみると、ベッドが2つしかない。
     ツインルームにエキストラベッドを入れてもらって3人で入るということは、事前にく
    どいほど念を押してある。文句を言ったが、エキストラベッドはないとニベもない返事で
    取りつく島がない。
     添乗員の吉野さんはまだ23歳の新人で、オロオロしながら、明日からはなんとかする
    ので今晩だけ山内さんという一人で参加している男性の部屋に泊まってくれないかと言う。
     見ず知らずの人との相部屋というのは何度も経験している。山内さんさえよければ、こ
    ちらとしてはゴネるほどのことではない。
     私は結局、旅行中すべてのホテルでこの山内さんと同室になった。
     中国旅行では事前の手配など殆ど意味をもたない。あとから来た者がちょっと金品を渡
    せば、旅行社は平気で先客の予約を反古にする。この旅行も最初から最後までトラブル続
    きであった。それが中国旅行なのだと思えば腹も立たない。

     朝、なんとも粗末な朝食をとってロビーに出る。世界各地の時間に合わせた時計が並ん
    でいるのはよくあることだが、見ると倫敦(
LONDON)・巴黎(PARIS) などと並んで伊
    斯蘭堡(
ISLAMABAD)などというのがあって、これまた西域にやってきたな、という感じ
    がする。
     ちなみに中国はあの広い国土で標準時は北京1か所のものしかない。だからウルムチ辺
    りでは午後2時ごろにならないと太陽が真南にこない。午後2時ごろが昼食で、夕食は午
    後9時ごろになる。
     バスで観光に出る。清真食堂と書かれた店があちこちにある。イスラム教徒用の食堂ら
    しい。
     頭にスカーフを巻いた女性が多い。ウイグル族だそうだ。
     ウルムチは行政上、新疆ウイグル自治区に属し、中国の都市ということになっている。
     しかし、そこに住む人々はどこからどう見ても中国人ではない。
     人種的にはトルコやイランに近いようで、一目で漢民族との違いが見てとれる。多くは
    小柄で、彫りの深い顔立ちをしている。髪も赤く、目も緑色だったりする。着ている服も
    まったく違い、男性は丸いつばなしの帽子をかぶり、女性は色鮮やかなスカーフを頭に巻
    いている。殆どがイスラム教徒で、男性、とくに年配者には顎鬚をたくわえた人が多い。
    言葉も中国語とはまったく文法が違い、主語、動詞、目的語の並び方は日本語と同じだそ
    うだ。
     つまり人種的にも文化的にも中国人とはまったく異質なのだが、武力に勝る中国によっ
    て長く支配されてきた。何度か一時的な独立もしたのだが、1949 年に中国に統一され、今
    も力づくで支配されているというのが実態だ。
     と、分かったようなことを書いたが、これは私が表面的に見たウルムチの一部であって、
    本当はもっと複雑らしい。
     私は殆ど見なかったが、実際には漢族もかなり住んでおり、その他にもカザフ族、蒙古
    族、キルギス族、回族など雑多な種族がいるという。とくに中国政府の同化政策によって
    漢族が大量に送り込まれているらしく、その割合は住民の2割ぐらいになっているという
    話を聞いた。(2010 年の話では8割に達しているとのこと)
     近年ウイグル族と漢族の間でトラブルが多発し、そのたびに中国政府が武力でウイグル
    族を抑え込んでいるということは世界中が知っている。
     自分で手に負えないほどの広大な国土を持ちながら、なお飽くことなき覇権主義で領土
    拡大をねらう中国が力だけで自国領に組み込んでいる西域。我々のような一介の旅行者が
    見ても、言葉も文字も顔つきもまったく違うこの人たちを中国人と考えるのは無理がある。
     民族の同化というのは何百年もかけて自然に行われてゆくものであり、一方の領土欲に
    よって強引に引かれた国境線によってすぐにできるというものではない。

     新疆ウイグル自治区博物館という所を見学する。
     とりたてて記憶に残るようなものはなかったが、そこの売店に日本人の団体がいて、そ
    の中の60歳前後と思われる男性が、日本語のまったく解らない店員に向かって、京劇の
    面はないかと訊いている。
     店員が困って
Do you speak English ? と訊くが、それは男性には解らないようで、両
    手を頭上に上げて「ジャジャーン」などと叫んでいる。京劇の真似をしているつもりなの
    だろう。
     日本人が中国語を知らなくたって別に悪いことではない。相手も日本語を知らないのだ
    からお互い様だ。英語が解らなくたって非難される筋合いはない。これまたお互い様だ。
    だから身振り手振りを交えながら日本語で意思表示をするのに遠慮はいらない。
     ただ、そこには多少の品位というものが必要であろう。どうも外国で見かける日本人に
    は知性の感じられない輩が多い。
     外に出ると、道路を隔てた並木の中で市が開かれている。中国の並木はどこでも2列3
    列になっていて、その間が木陰になっているので、市など開くにはもってこいだ。
     売り手はやはりウイグル人が多い。トマトやニンニク、ピーマン、インゲン豆などの野
    菜を、それぞれ地面に敷いた麻袋などの上に広げ、棒秤で計って売っている。やたら目に
    つくのは大きな瓜の山だ。
     野菜だけではない。羊肉、魚も売っている。これらの商品はロバの曳く荷車に載せてく
    るらしく、3列目の並木の下にはロバが何頭も繋がれている。
     買うものは何もないので、しばらくうろついたあと、紅山公園という所に行く。紅山と
    いう小高い丘を中心とした公園で、頂上には鎮龍塔という10層の塔が建っている。緑が
    濃いが、その緑は絶えず散水しているスプリンクラーによって守られている。
     無理もない。この紅山というのは完全な岩山で、湧水などありはしないし、雨の降らな
    いこの土地では緑が欲しければ灌漑に頼るしかないのだ。現にスプリンクラーの水が届か
    ない所はまったく緑がない。前方に見える山々も、一木一草生えていない赤茶けたもので、
    日本では見ることのできない風景だ。
     それにしても、中国の公園というのはどうしてこう人工的な感じが露わなのだろう。や
    たら石が配してあるが、日本の庭にあるようないわゆる銘石とは違い、多孔質の溶岩のよ
    うなものが多い。まあそれは自然条件が違うのだから、日本人がとやかく言うことではな
    い。ただ、自然の風景を模した筈のそういう石にことごとく電線が絡み付き、小さな電球
    がこれでもかというほど付いているのを見ると、“侘び寂び”を愛する日本人としては幻
    滅感を禁じ得ない。

     人民公園というのがあり、大きな池がある。多くの家族がボート遊びに興じており、子
    供が釣りをしている。池の周りに屋台が並び、その中でシシュカバブを焼いていたアンチ
    ャンが大声で呼びかけてきた。
     折角だから1本ぐらい食べてみようと思ったが、言葉がまるで通じない。日本語と英語
    で、
    「1本だけ。いくら?」
    と訊き、さらに昔「イー・アル・サン・スー」と聞いたことを思いだして「イー」と言っ
    てみたが、まったく伝わらない。10本ずつかと訊かれ、5本ずつかと訊かれ、3人で3
    本と指を立てて説明する。 アンチャンはなにやら喚きたてながら、虎が食うのかと思う
    ような大きな肉の刺さった串を9本、ドーンと出してきた。
     ごたごた言って、その串で刺されでもしたら大変だから仕方なくそれを食べたが、これ
    が滅法美味く、値段も3本で1.5元(約40円)と嘘みたいに安い。これなら最初から
    ビクビクせずに頼めばよかった。
     5元札を出したところ、人民幣でお釣りがきた。これは余っても円に両替できない厄介
    ものだ。
     別稿『中国視察旅行の鬱念(2)』にも書いたので細かいことは省略するが、当時中国
    は外国人用に兌換券という別種の紙幣を作り、兌換券しか使えないホテルや土産物屋の値
    段を10倍にするというあこぎなやり方で外貨を稼いでいた。利益のためには道も道理も
    ないこのようなやり方が国家によって行われていたのだから呆れた話だが、さすがにそん
    なことがいつまでも通用する筈はなく、15年ほどで廃止された。
     中国当局だってそれが世界の顰蹙を買うことは分かっていただろうが、ともあれ荒稼ぎ
    をして、非難が極に達したところでさっとやめる魂胆だったのだろう。
     兌換券は普通の店でも使えたが、お釣りが本来の紙幣である人民幣でくると、両替でき
    ないから普通の店で使い切るか、捨てるしかなかった。

     ホテルに帰って昼食。ビールが冷えてない。
     中国は来るたびに「もう来るもんか」と思う。理由はいろいろあるが、最大の不満はビ
    ールだ。「冷えたビール」と頼むと、露骨に嫌な顔をされる。
    「メイヨウ(没有)」
     たいていはその一言で終わり。たまに持ってくることもあるが、ドスンとテーブルに置
    いて無言で行ってしまう。
     何日も日向に置いてあったのではないかと思われる腐臭のするビールを出されたことも
    ある。文句を言うと不貞腐れたように瓶を持ち去り、代わりを持ってこない。何度か催促
    したあとやっと持ってきたが、それも無論冷えていなかった。

     昼寝をしたあと、バザールを見に行く。金さんから貴重品にはくれぐれも気をつけるよ
    うにと念を押されたので、バッグを体の前に下げる。
     店がひしめき、人がひしめき、なによりも人種がいろいろで、異様な雰囲気がある。
     野菜・肉・香辛料・生きた鯉などの食品、衣料・絨毯、はては物騒な短剣までがゴチャ
    ゴチャと並べられ、右から左から甲高いウイグル語が飛び交って、なんとも落ち着かない。
     おまけに、ここには笑顔がない。これまで見てきたバザールというのはどこでも喧噪の
    中に笑顔が溢れており、楽しい所というのが相場だったが、ここでは我々を見る目つきも
    剣呑で、あちこちで喧嘩の声もする。
     いきなり「ジャパン?」と声を掛けられた。ナイフ屋だ。2~3本のナイフを見せられ、
    なにか言われる。かねてナイフを欲しがっていた伊藤さんが手に取ってみたが、結局買わ
    なかった。買わなければ殺されるような雰囲気だったのに、買いそうなそぶりをしておき
    ながら買わないというのだから、神経が図太いのだろう。
     伊藤さんはどこに行ってもさんざん見たり聞いたりして、やっぱり買わないということ
    がよくある。伊藤さんに言わせれば、買うと決まっていれば見たり聞いたりする必要はな
    いというのだが、こんなぶっそうな所で相手もナイフを持っているというのに、そんな理
    屈が通るのだろうか。
     私はといえば、もちろん一緒に殺されるのは嫌なので、離れて見ていた。
     人民公園でよこされた人民幣を使ってしまおうと思い、扇子を買った。
     10本で1元だから1本3円もしない。そういえば前に知人が中国旅行の土産としてT
    シャツを100枚買って帰り、あちこちばらまいていたことがあった。一般人の生活圏で
    の物価は驚くほど安い。
     というより、兌換券しか持たされず友誼商店など特定の店やホテルでばかり金を使わさ
    れる外国人だけがべらぼうな値段での滞在を強いられるということで、その値段の方が異
    常なのだ。
     さてその扇子だが、誰にあげてもいいと思っていたが、いざあげようという段になると、
    3円もしないものを土産に渡すというのも憚られて、結局自分の子供にだけあげてあとは
    捨ててしまった。
     ぶどうを買う。1.20 と書いてあったので2元を渡すとお釣りが7角( 0.7 元)しか来
    ない。中国ではよくあることだし、抗議するのも億劫なのでそのまま受け取った。もっと
    も、それで大きな房が5つか6つあり、日本円で30円ちょっとであるからすったもんだ
    揉める話でもない。
     岩塩のようなものを売っていたので1粒失敬して食べてみる。苦いようなしょっぱいよ
    うな変な味で、口の中にざらざら残る。あとでガイドに訊いたら硝石だということだった。
    そんなものをどうして露店で山にして売っているのだろう。
     伊藤さんがカミソリの電池がなくなってしまったので軽便カミソリを買いたいと言う。
    近くのデパートに入り、店員に訊くと3階だという。3階に行って訊くとあっちだと言わ
    れ、そっちに行って訊くとあっちだと言われ、無愛想な店員に何人かあたったあと、よう
    やく買うことができた。
     こういう店員の態度など見ると、やっぱりここは中国なんだなと思う。こういう悪いこ
    とは中国流がどんどん西域に浸透してきているようだ。

     ホテルに帰ってまた昼寝。
     夕食に下りていくと、案の定冷えていないビールが出てきた。飲めたものではないので、
    レストランの入り口で売っている冷えた缶ビールを買う。ところが栓を引くとプルタブの
    輪の部分だけが取れてしまい、穴が開かない。栓の部分をスプーンの柄で突くとスプーン
    が折れてしまう。
     あれこれ試したあと部屋に持って帰り、洗面所のシンクの角に当てて缶を叩くという方
    法でやっと開ける。ビールは吹き出し、半分ほどになってしまった。
     部屋に冷蔵庫がないので何回かに分けてレストランにビールを買いに行き、遅くまで飲
    んでいた。そのあと山内さんの部屋に忍び込み、寝かせてもらう。

     翌朝は7時半に起きる。先述のとおり中国は国内に時差を設けていないので、7時半と
    いってもまだ暗い。
     トイレの紙はただタンクの上に置いてあるだけ。ペーパーホルダーは最初から付けてい
    ない。
     10時前、マイクロバスでトルファンに向かう。いよいよ熱砂の中心地に入る訳だ。海
    面下150メートルのこの大盆地では地表温度が70度を超え、地面に置いた卵がそのま
    まゆで卵になるという。
     私はタンクトップに半ズボン、頭にはジャイアンツの野球部をかぶり、肩からはキティ
    ちゃんの絵のついた水筒を下げて、バスに乗り込んだ。
     市街地を抜けるとすぐに地平線まで見渡せる荒野に出る。
     石ころと砂だけ。かすかな起伏の続く大地に1本だけ、一応舗装された道が続く。その
    道を挟むように両側に電柱が並ぶ。細い丸太で作られた電柱は頼りなく、渡された細い電
    線もまた頼りない。こんな広い所を、こんな細い電線で運ばれている電気は、途中で弱っ
    てしまうのではないかと思われる。
     屋根に荷物を載せた見るからに年代物のバスが1台、我々のバスと抜きつ抜かれつ走っ
    ている。近くに村などあろうとは思えぬから、長距離バスなのだろう。あんなバスで長距
    離を走ったら体がバラバラになってしまいそうだ。
     右方に塩湖が現れた。遠目に、塩を盛り上げた小さな墳丘が無数に並んでいるのが見え
    る。塩湖と道路の間には塩の工場が広がっている。工場といっても、製塩の必要はないの
    だから、精製と袋詰めでもしているのだろう。
     塩湖などというものは本やテレビでしか見たことがないので、湖畔まで行ってバスを停
    めてもらいたかったが、運転手が不機嫌そうに飛ばしているので、頼みそびれる。
 
     達坂城というオアシスで小休止。
     達坂(ダーファン)とは突厥語で峠の意味だそうで、昔から天山山脈を横切る主な通路
    となってきた由。全線随行の王さんによれば、ここの女性を歌った有名な歌謡曲があると
    のこと。
     この辺りから山道に入って行く。荒涼たる山塊を縫って走るのは、他では味わえない独
    特の雰囲気だ。山というものは木の生えているものだという我々日本人の感覚はまったく
    通用しない。すさまじい景観だ。
     ガイドが、ここはもう天山山脈の一部だと説明した。
     天山山脈というのは小学校のときに白地図に書き込んだりしたところであり、大人にな
    ってからは胡桃沢耕史の『天山を越えて』を読み耽ったりして、私にとっては長く眷恋の
    地であった。
     田中さんに「西遊記の舞台」という殺し文句で勧められた今回のツアーであり、それが
    抗いがたい魅力であったことは間違いない。しかし、私にはもう一つ、是非ともこのツア
    ーに参加したい理由があった。それが『天山を越えて』である。
     この小説はなんとも不思議な作りになっている。全編に推理小説のような謎が散りばめ
    られているが、登場人物の素性は容易に推測できるし、ころころ変わる話の展開もその都
    度簡単に予測できる。それでは読んでいて退屈かというと、これが逆にその推測や予測を
    確かめたくてどんどん読み進んでしまうのだから、なにやら作者に弄ばれているような気
    分にもなってくる。
     国家間の軍事的機密や駆け引き、荒漠たる西域を荒らし回る蛮族の凄惨な虐殺など緊張
    を強いる話の連続でありながら、随所に官能的な場面も挿入されており、全体的には信義
    や純愛に満ちた救いの多い筋立てになっている。
     小説の中に小説が挿入されていたり、舞台が東京になったりウルムチになったり、さら
    に時が数十年も行ったり来たりして、ときどきページを戻って再確認しないと流れを見失
    ってしまったりするが、中心となる舞台はタイトルにもある天山だ。
     西域は古くから政治的に中国の領土とされながら、実態としては中国の支配に服さずに
    独自の路線を貫いたきた。それを可能にしてきたのが峻嶮にして荒涼たる天山で、中国政
    府としても行く手に立ちはだかるこの山を越えて支配の実効を期すことは至難であった。
     私はその天山を直接自分の目で見てみたいという思いを強く持っており、今回のツアー
    はそのための絶好の機会であった。
 

     バスはやがてボゴダ山にさしかかる。名にしおう不毛の山で、その麓にかつて隊商を苦
    しめた天山北路がただ1本、延々と延びている。今では一応簡易舗装がされているものの、
    枝道というものがまったくない一本道というのは、やはり目に馴染まない異郷の風景であ
    る。バスはひたすらその道を走るのだが、左右は赤茶けた岩肌が続くのみで、木も草も川
    もない。
     次第に高度を上げ、山中に入って行くのは分かるのだが、植物がまったくないので日本
    でナントカスカイラインなどという道路を走るのとは感覚がまるで違う。こんな所を拠点
    とする騎馬の蛮族にゲリラ戦法を取られたのでは、なまじ近代化された中央政府の正規軍
    には手に負えないであろうことは十分に理解できる。
     天山山脈全体は二千五百キロもある長大なもので、私たちが通ったのはその東端のほん
    の一部であるが、それでも『天山を越えて』の場面を彷彿とさせる異形の山容は十分に堪
    能できた。
     小説の中の情景が徹底したリアリズムに裏付けされていることを全身で感じて半ば陶酔
    していると、やがて下りに入り、今度は果てしもない平野に出る。遥か彼方に山並は見え
    るが、それ以外には何もない。
     ガイドがここはゴビ砂漠だと教えてくれた。
     砂漠には「砂漠」と「沙漠」があると昔教えられた。砂でできた丘陵は文字通りの砂漠。
    砂がなく、岩石や小砂利でできているのが沙漠だという。なるほど「沙」という字は水が
    少ないと書く。サハラ砂漠、ナミブ砂漠などは前者、ゴビ沙漠は後者であることも教わっ
    て知っていた。
     「ゴビ」という言葉は「沙漠、乾燥した土地」という意味だそうで、ゴビ沙漠と言った
    のでは「沙漠沙漠」という意味になってしまう。「リオ・グランデ(グランデ川)」をリ
    オ・グランデ川と言ったりするのと同じことで、外国語であればよくある話だ。東京の通
    りには「
Meiji Dori Avenue 」などと言う表示もあり、これも「明治通り通り」という意
    味になるが、目くじらを立てることでもない。
     因みに我々の頭の中にある砂の砂漠はハンマダというらしい。
     さてそのゴビ砂漠。どこまでも平らな礫砂漠だが、所々、まっすぐに水路が引かれてい
    る。両端が地平線に消えているので、その水がどこから来てどこへ行くのか分からない。
     金さんに頼んでバスを停めてもらい、外に出る。強烈な寒風が吹きすさび、米粒ほどの
    小石が飛んできて、ビシビシと頬に当たる。ときおり体が煽られ、2、3歩よろける。
     我々につられてバスを降りた人も何人かいたが、この悪条件にそそくさとバスに戻って
    しまった。降りる気もなく車窓から見ていた人たちは、バスに戻らない我々3人を見て、
    なにを酔狂なと思ったことだろう。
     私はといえば、バスの後ろ、つまり他の人たちからの死角に立ち、立小便をした。
   
   

       万里の長城でションベンすれば
       ゴビの沙漠に虹がたつ

     学生時代によく歌った、ダンチョネ節の替え歌である。実は万里の長城には2度行き、
    立ち小便のできる場所を探したのだが、2度とも大変な人出で、警察官も随所におり、願
    いを果たせなかった。しからばゴビ沙漠でと、この機会を狙っていたのである。
     小便は真横に吹き飛び、虹こそ出なかったが、確かに霧になった。
 

 
一度かぎりの出会い 中国西域見聞記(2)
     
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