中国視察旅行の鬱念(2)


人の矜持、国の矜持



 4日目は飛行機で西安へ。
 昼過ぎ、西安に着き、バスに乗ると現地ガイドの徐さんが「苦労をいとわず、よくお出で下さいました」「孔子は、友あり遠方より来る、また楽しからずやと言っています」「両国は一衣帯水の間柄で」などと淀みのない日本語で挨拶をする。
 徐さんは日本に来たことがないそうだが、いったいどこで習ったのかと思うくらい達者な日本語を話す。少なくとも今回日本から行った18名の中には、徐さんほどきちんとした日本語を話せる人はいない。知識も豊富、人柄も紳士的で品があり、たぶん私がこれまでに会った中国人で最高の人材だ。
 それに比べると、全線随行の王さんはあまり感心しない。日本語があまり得意でないという事情もあるだろうが、どこに行っても現地ガイドに任せっきりで、ただバスの一番前に坐っているだけ。ときどき現地ガイドと何か話しているのが唯一仕事をしているらしく見える場面だ。
 私はその後に2度中国に行き、やはり全線随行が付いたが、みな同じようだった。いわばお上のお目付け役として付いているのかなとも思う。
 西安ではまず「五一飯店」というレストランで昼食。
 そこは外国人向けの場所らしく、バスが止まるか止まらないうちに物売りが群がってきた。手に持っているのはスカーフのようなものや布製の手提げ袋、切り絵など。売っているのは老若男女さまざまで、口々に「イチエン」「オミヤゲ」などと半ば叫ぶように呼びかけてくる。総じて身なりは貧しく、白髪混じりの女性や顔の汚れた年頃の少女などもいる。
 日本ではおニャン子クラブなどというノーテンキな女の子たちがちやほやされ、子供たちがファミコンにうつつを抜かしているというのに、ここでは同じ年頃の子供たちが粗末な服を着て、素足にサンダル履きで外国人観光客を追いかけている。
バスに群がる物売りたち

 たまたま生まれた国が豊かだった日本の子供と、たまたま生まれた国が貧しかった中国の子供。この子たちにとっては日本旅行などということは夢のまた夢、いや、そんな夢さえ見ないであろう。そんな子たちが、札びらを切って中国旅行をしている日本人に媚びるような仕草までしているのを見るのは辛い。
 イチエンというのは1元のことで、当時のレートでは125円にあたる。いくつ買っても日本人の懐に響くものではないが、必死で追ってくる売り手の姿に心が痛んで、却って買えなかった。
 
 この日は大雁塔の見学があった。
 玄奘三蔵が天竺から持ち帰った経典が保存されているそうで、7層64メートルの堂々たる建築物だ。といっても、玄奘の建議によって建立された当時は5層、その後則天武后の時代に10層に改造され、さらにその後戦乱によって7層から上が崩壊して今に至っているということで、姿はかなり変容しているらしい。
 それにしても煉瓦を積み上げて作られた塔はどっしりとして風格がある。おしなべて装飾を競うような中国建築の中では例外といえるくらいシンプルな姿で、却って見る者の居ずまいを正させる雰囲気がある。
 大雑把にいうとエジプトのオベリスクを太くしたような四角錐で、壁面は正確に東西南北に向いている。その4面それぞれに各層1か所ずつ窓が開いており、広大な景色が見渡せる。
 壁に沿った狭い螺旋階段を最上階まで登り、西を見る。シルクロードの方角だ。玄奘三蔵法師はここ西安(長安)から天竺に向かった。16年後に帰り着いたのもこの西安だ。大雁塔が出来上がったあと、玄奘もこの窓から自分の歩いた方角を眺めたに違いない。
 そう思って見る西の方角はシルクロードという言葉から連想される荒涼たる景色ではなく、かなり遠くまで濃い緑が広がっていた。だがそのまた向こうは、確かに赤茶けた不毛の地であるように見えた。
 ああいう所を地平線に向かって歩いて行くというのが“旅”なんだな、と思った。

 秦始皇帝兵馬俑坑の見学はこの日のハイライトといっていい。
 始皇帝が自らの陵墓の周辺に兵馬俑を配したいきさつについては別稿『秦始皇帝兵馬俑坑に思う』に記述したのでここでは省くが、兵馬俑とは、早い話が始皇帝の近衛軍団を実物大に再現した陶製人馬である。
 おそらく実際の守備隊形を模したと思われるが、大きく3部隊になっており、その配置のまま地下に埋めてある。現在発掘調査中なのはそのうちの1号坑と呼ばれるもので、幅60メートル、長さ210メートルに及ぶ遺構をそっくりそのまま体育館のような建物で覆って博物館としている。
 駐車場から博物館まで行くには無数といっていい露店の前を通らなければならないが、呼び込みの激しさは真夏の蝉もかくやと思われるほどで、「シェンシェイ、シェンセイ!」の大合唱だ。
 シェンシェイ(先生)と呼ばれて初めはなぜ俺の職業を知っているのかと驚いたが、聞いてみればなんのことはない、日本人男性を呼ぶには一番無難な言葉なのだそうな。なるほどもし「社長」と呼ばれたらバナナの叩き売りのようだし、「おじさん」「あんた」などと呼ばれても愉快ではないだろう。
 売っているのは主に兵馬俑のレプリカだが、見るからに粗雑で、土産物と割り切ってみても買う気にはならない。その他金魚の形をした布製モービルのようなものとか刺繍を施した手提げ袋とか、やたら赤い物が多い。
 館内は発掘現場そのものであり、既に発掘され修復された兵と馬とが元の位置に整然と並べられている様は圧巻である。まさに発掘中の崩れた人馬もありのままに見られ、このような形での展示を実現した中国人の識見はたいしたものだと思う。
 このときの私の感動についてはやはり『秦始皇帝・・・』に述べたので重複を避けるが、別館になっている銅馬車陳列館に入ろうとして気づいたことを一つ。
 それまで見学地の入場料、入館料はすべて団体で手配してあり、我々は山本さんのあとについて行けばそれで良かった。ここ兵馬俑博物館もそうであったが、別館までは入る予定がなかったらしく、そのチケットはなかった。(今は各館共通券になっているらしい)
 私は個人的興味で勝手に入るので、別料金と言われても抵抗はなく、券売所に行った。
 そこには「外賓」「人民」と書かれた2つの窓口があり、外賓つまり外国人は「外賓窓口」で買うようになっている。それはまあいいのだが、驚くべきことに、外賓料金は人民料金つまり中国人の料金の10倍になっている。
 そんな馬鹿な! 同じ場所で同じものを見るのに。
 見るのが外国人だと何か費用がかかるとでもいうのか。
 私は冗談じゃないと思って人民窓口に行って指を1本立てた。「1枚」の意味であり、これまでどこの国でもそれで用が足りていた。ところが人民窓口の係員は甲高い声でなにやら言いながら隣の窓口を指し示し、チケットは売ってくれない。一目で外賓と見破られたらしい。
 もっとも、仮に見破られなかったとしても、我々の持っている紙幣は「外貨兌換券」といっていわば外国人用の紙幣であるから、支払いの段階ですぐにバレてしまう。空港でも銀行でも外国通貨から両替をすれば必ずこの外貨兌換券を渡されるし、この紙幣でなければ日本円への再両替もできない。“兌換券”といわれる所以である。
 一方、中国国内でのみ通用する紙幣(それが本来の紙幣であるが)は人民幣といい、通常我々観光客の手には渡らない。実際には露店などで買い物をすると釣り銭に人民幣が混じっていたりするので、私も何枚かは持っていたが、観光施設で使うにはとても足りない。
 見ていると、人民窓口で渡される入館券と外賓窓口で渡される入館券はまったく同じもので、腹立たしいことこの上もない。
 あとで山本さんに八つ当たりすると、山本さんはもっと腹立たしいことを教えてくれた。我々が出入りするホテルやレストラン、土産物屋などは兌換券でなければ支払いができないようになっており、そもそも値段が約10倍に設定してあるのだという。
 4千年の歴史をもつ中国ともあろう国が、同じ商品、サービスを提供するのにガイジンからは10倍のカネをふんだくるとは。
 どこの国にも悪い奴はいるし、どこの国にも事情に疎い外国人と見ると値段を吹っかけたりする輩はいる。しかし、「外賓料金」だの「兌換券」だのは国の政策であり、国家が外国人を食い物にしているということである。
 国としての「恥」というものはないのか。

 どこの国にも・・・と書いたが、それにしても中国人の民度は低い。
 私はこれまでに中国旅行以外にも中国人と接する機会が多く、中国人のレベルの低さには辟易している。中国には恥を知らない人間が“とりわけ多い”というのが実感だ。
 兵馬俑坑見学のあとに行った始皇帝陵でもそれはあった。
 陵はエジプトのピラミッドを上から押しつぶしたような形をしており、頂上まで登ることができる。その登り口にやはり露店が並んでいて、ここでも「シェンシェイ、シェンシェイ」の連呼は同じ。
 金魚のモービル、これも同じ。売り手のおばさんが3個を差し出して「イチエン」と言う。1元(約125円)のことだ。それを子供3人への土産にすれば安上がりに違いない。
 私は1元紙幣を見せて「イチエン?」と確認した。
 こういう露店でも兌換券は歓迎される。兌換券と人民幣は一応額面等価とされているが、実際には闇両替屋などで1兌換元が2人民元ぐらいで交換されている。つまり、実際に兌換券で買い物をするとなれば損をするわけだが、人民幣に替えて国内で使えば儲かることになる。
 おばさんが頷いたので、私は1元を差し出しながらもう一方の手を出した。同時交換は信用できない相手からものを買うときの鉄則である。
 するとおばさんは金魚を2個よこそうとした。私は「3個でしょ?」と日本語で言った。おばさんはそのまま2個を私に突き付ける。私は「サン!」と言った。これは日本語であり、中国語でもある。だから通じたらしく、おばさんは首を横に振り、あくまでも2個をよこそうとする。
 私は1元を引っ込めて歩きだした。おばさんが「シェンシェイ!」と叫ぶので振り向くと、その手には金魚が3個ぶら下がっていた。私は「いらない」と日本語で言ってその場を離れた。
 そういうことはその後、何回も経験した。本当に孔子や孟子の子孫なのかと疑ってしまう。
 始皇帝陵の頂上は赤土が剥き出しになった殺風景な広場で、これがあの始皇帝陵かと思っても実感が湧かない。陵は発掘調査がされていないそうだから、私の足の下に始皇帝の遺体があるのだろうが、いくら想像を巡らしてみても、足下にあの皇帝が眠っているという感慨は味わえない。
 ただ景色は良く、遠くにさっき行った兵馬俑博物館も見える。
 と、赤いタンクトップに半ズボンの男が近づいてきた。「チェンジ」と言う。見ると手に人民幣の束を持っている。人民幣を貰ったところで使い道はないのだが、まあ記念品として持ち帰るならいい。
 1兌換元を見せて「いくら?」と日本語で訊くと、1人民元と5人民角を見せてきた。1.5元である。
 相場では2人民元の筈であるから私は相手の持っている1人民元を指して、指を2本立てた。男が首を横に振ったので、やはり日本語で「いらない」と言った。
 男がもう2角を重ねてきた。私の1兌換元を1.7人民元にするということになる。相場よりは安いが、どうせ使うわけではなし、「オーケー」と言う。すると男はあろうことか、平然と1元5角をよこそうとした。私はここでも同時交換をしようと1兌換元を握ったままだったので、すばやくそれを引っ込めた。男は仕方なくもう2角を出したが、私はもう相手にしなかった。

 西安でのホテルは1日目が「秦都ホテル」、この日は「人民大廈」という所だったが、その会議室で日中友好懇談会というのが開かれた。欧州視察のときもそうであったが、「視察旅行」の体裁を整えるためのアリバイみたいなもので、形式的な質疑応答などが取りとめもなく続く。正直なところ、中国の教育事情がどうなっているかなど聞いても、それが我々の現場に生きるわけでもない。
 いきおい質問も形式的なものになりがちだが、それにしても団員の中に「中国では学級名簿を名前順にしていますか、それとも生まれ順ですか」などと訊く人がいたのには呆れてしまう。欧州視察のときに比して常識的な人が多かったとはいえ、やはり学校の教員に馬鹿が多いというのは否定のしようがない。
 中国側からは陝西省高等教育局長ほか2名が参加したが、やはり儀礼的な参加とみえて、こちらの質問に答えはするものの、日本について何か聞こうという姿勢はまったくなかった。

  
 翌日、南京への飛行機が7、8時間遅れるという連絡があった。山本さんは、日本だったら飛ぶような軽度のトラブルでも中国民航は飛ばしません、だから安全なんです、と力説した。しかしそれはあまり説得力のある慰めとは言えず、団員たちには中国民航への失望感の方が広がってしまった。
 そしてその失望感は、やっと乗り込んだ飛行機の窓から見た光景で増幅された。隣に駐機していた飛行機の下に半袖開襟シャツに半ズボン、足にはサンダルという作業員が2人いて、飛行機のタイヤを金槌で叩いていたのである。
 もっとも、何が幸いするかは判らぬもので、この遅れのおかげで予定になかった所を見学できた。山本さんが現地ガイドの徐さんと相談して興慶宮公園と青龍寺を回ることにしてくれたのである。
 実はもう1か所、工芸美術ナントカという所にも連れて行かれたのだが、そこは早い話が土産物屋で、そういう所に連れて行くのがガイドの仕事なのだろう。
 今回の旅行後にできた「視察報告書」には、連日、玉器学校、刺繍工場、彫刻廠、漆器工芸楼、美術展覧館といったような所を見学したと書かれているが、それらはつまるところ土産物屋で、その他に友誼商店と称する土産物屋を加えると、毎日数か所で買い物をしていたことになる。
 中国国内での行程を日本の旅行社の自由にさせないのは、こういう所を組み込む都合もあるに違いない。
 興慶宮公園は、玄宗皇帝が政務を執った唐代の宮殿の一部であるが、私たちには阿倍仲麻呂記念碑がある公園という興味の方が強かった。
 阿倍仲麻呂は奈良時代、留学生として唐に渡り、現地で科挙に合格して官僚になった。こう書くと1行で終わりだが、言葉の通じない国に渡って、その国の言わば国家公務員1級試験に合格して役人になったというのだから、その学才にも驚くが、大変な苦労もあったに違いない。
 19歳で唐への留学を命じられ、16年後に一旦は帰国のチャンスがあったが既に官吏として活躍中で、もう少し唐に留まろうとこれを見送る。その後は仲麻呂という有能な人材を失うことを惜しむ朝廷が帰国を認めぬまま時が流れる。
 在唐35年目にしてやっと遣唐使船に便乗しての帰国が許されたが、船が暴風雨に遭って漂流し、今のベトナムに漂着、3年後に長安に帰着する。唐朝はそれ以降、海路の危険を理由に帰国を認めず、73歳にして現地で没した。
  
   「 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 」
 
 これは仲麻呂が望郷の念やみがたく詠んだ有名な句で、いま興慶宮公園にはその句を刻んだ「阿倍仲麻呂記念碑」が建っている。
 とまあ、ここまでは私の知っていたことで、私は園内に入るとまずその碑を探し歩いた。ところが見つけたその碑には訳の判らぬ漢字ばかりが書かれており、むろん読めない。
 徐さんが、これは仲麻呂の句を中国語に訳したものですと教えてくれ、なるほどよく見れば漢字の中に「三笠山頂上」という5文字が入っている。
 私は読めないままにその漢詩を書き写そうとしたが、文字そのものが流麗な、いわゆる崩し字で四苦八苦していた。結局徐さんが楷書で書いてくれたものを持ち帰ったが、その後とくに勉強もせず、いまだに読めないままでいる。

   「 翹首望東天  神馳奈良邊  三笠山頂上  思又皎月圓 」


 さてここまで書いて、ふと疑問が涌いてきた。徐さんはこれを仲麻呂の句を中国語に訳したものだと言っていたが、本当にそうだろうか。
 仲麻呂がこの句を詠んだのは、帰国を許されての送別の宴でのことだったという。ということは、その場にいたのは皆唐の役人であろう。仲麻呂自身も在唐35年で、日本にいた16年よりも遥かに長い年月を中国語で過ごしている。高級役人として活躍していたのだから漢詩にも通じていたに違いない。
 ここはどう考えても中国語で詠んだものであり、「天の原・・・」こそ後の人による訳詩

なのではないか。
 浅学にしてその辺のことは分からないが、そのうち調べてみようかと思う。もっとも、この「そのうち」で何でも溜め続けてきた我が身を思うと、いささか言うをはばかることではあるが。

 青龍寺は空海が密教を学んだ寺として知られるが、武宗帝による仏教弾圧でされ、その後別名で復興したものの、唐末の動乱でまた廃墟となる。そして約千年を経た1981年からの発掘調査によって確認され、堂宇が復元された。
 つまりできたばかりでピッカピカのお寺であるが、実は寺として機能しているわけではない。言ってみればかつての青龍寺のレプリカであり、空海記念碑、空海記念堂などが建てられてもいる。
 空海は青龍寺で学んだ大勢の学僧の1人であり、寺側から見れば外国からの留学生の1人に過ぎない。しかも空海の在唐はわずか2年。それなのにこの再建されたレプリカがいわば空海一色に染まっているのはなぜか。
 徐さんによれば、この調査と再建には日本の仏教団体が大変な協力をしているという。立場上金銭の話はしなかったが、どうやら日本側の意向と資金で推進されたプロジェクトらしく、それかあらぬか訪れるのは日本人ばかりらしい。
 まあ、空海が学んだ青龍寺の跡地に作られた空海記念館とでもいったらいいもので、あまり史跡という意味合いはない。
 それでも日本人にとって空海は特別の存在であるから、私もありがたい気分で見学をしていた。そのとき、団員の1人三崎さんという人が「高野山には行ったことがありますか」と声をかけてきた。
農家の鶏小屋

「ええ」
「高野豆腐は空海が唐から持ち帰ったんですよ」

 食品について何の知識もない私ではあるが、さすがにそんなことはないだろうと思う。しかし、どうでもいい。
「そうですか」
「そうですよ。うん、そうです」
 いろんな人がいるものだ。


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