一度かぎりの出会い


   

島根の渓流に涼む母娘


     島根県を旅行中、断魚渓という渓谷があることを知り、名前に惹かれて行ってみた。
     県中部の山間にあり、江の川の支流濁川(にごりがわ)が作る渓谷だという。
     千畳敷と書かれた小さな木札を見つけて小路を降りてみると、一帯はほぼ水平な流紋岩
    の河原で、岩盤を洗うように水が流れている。濁川という名にそぐわぬ清流で、心まで洗
    われるようだ。
     ちょっと見には穏やかな川のようだが、すぐに断魚渓という名の由来が判った。広い河
    原に幾筋かの切れ込みがある。覗いてみると思いのほか深く、そこを圧倒的な水量の流れ
    が飛沫をあげ、ドードーと音を立てている。この水が岩盤を削り、深い筋を作ったのだと
    いうことは考えるまでもない。どんな魚だって、これを遡上するなんてことができる訳は
    ない。
     あとで聞いた話ではこのような段差が4か所ほどあるそうだが、私が見たのはここだけ
    で、ゆうに1時間ほど岩に腰かけて見ていても、飽きるということがなかった。その間、
    人の姿はまったく見ない。


 
     














                                            




     陽を遮るものがなく、さすがに暑くなってきたので、木立ちを求めて少し下流に移動し
    た。そこにはイタヤカエデの大木があり、日蔭ができている。
     流れも比較的穏やかで、その水に足をつけて2人の女性が座っていた。1人は40代後
    半か50代初めであろうか、もう1人は20代であろうと思われる。
     一応の儀礼で、こんにちは、と挨拶をし、2人ともこんにちはと返事をした。
     旅の醍醐味は人との触れ合いだということはよく言われて、その通りなのだが、私は一
    人旅で見ず知らずの人と言葉を交わすということはあまりない。コンビニや土産物屋で物
    を買うときには勿論口をきくし、宿でも必要なことは言うが、居酒屋で臨席の人に声を掛
    けたり景勝地で観光客に話しかけたりということはまずない。
     別に人と言葉を交わすのが嫌なわけではない。その証拠にいかにも夫婦と思われる2人
    連れが交代で写真を撮っているときなど、「シャッターを押しましょうか」と言ったりす
    る。
     このときも、その2人に挨拶はしたが、それ以上の会話をする気などさらさらなかった。
     それなのに、私が木陰で休んでいると、その若い方の女性が裸足で岩を伝ってきて、私
    に握り飯と魔法瓶の蓋に入れたお茶をくれた。流れに足を浸していたので、裸足なのは不
    思議でもないが、無言で差し出されたので、こちらもちょっとうろたえた。
     礼を言ったが、やはり無言である。といって、愛想が悪い訳ではない。はにかんだよう
    な笑顔は実に可愛らしく、少女のようでもあった。連れの女性に向かって会釈すると、先
    方もにこやかに頭を下げてくれた。
     好意であることは間違いない。
     食べ終わって蓋を返しに行くと、ご旅行ですかと訊かれ、それをきっかけに話が始まっ
    た。それで2人が親子だということが判った。
     話は10分か15分か、まあそんなものだったと思うが、内容は勿論とりとめのない世
    間話で、どうということもない。
     こちらとしては、年頃の娘さんに合う話もなかったが、全然話しかけないのもどうかと
    思ったので、たいして意味のないことをいくつか言った。
    「さっきのお握りはあなたが握ったんですか」
    「そうです」
    「若いのに上手ですね。梅干しの種を取って入れるなんて、芸が細かいじゃないですか」
    「そうです」
    「家は近くですか」
    「そうです」
    「ここまでは歩いて来たんですか」
    「そうです」
     こんな具合である。文字の悲しさで、こう書くとその娘さんが可愛げのない不貞腐れ女
    のように思うであろうが、どうしてどうして、「そうです」と言うときの笑顔は天使の如
    き善意に満ちており、今どきのギャルたちには望むべくもないものであった。
     結局私が聞いたその娘さんの言葉は「そうです」だけであり、母親と私との会話にも合
    いの手を挟むことは一度もなかった。
     それじゃあ、と別れを告げた。
    「お気をつけて」
     母親の言葉に私は
    「またお会いしましょう」
    と言って、またさきほどの岩場に向かった。
     また会うなどということはあり得ない。先方もそれを承知で「ええ」と応じた。
     それでいい。
     旅先での出会いは一度きり。
     旅先での別れも一度きり。
     それでいい。


ヨーロッパ美術巡り(4) 中国西域見聞録(1)
       
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