第10回 赤穂~門司(4) 2018.9.8~17(9泊10日)


2018年9月11日(月)
 5時半ごろ起床すると、売店前に軽トラが7台停まってる。 道の駅に産直品を運んできた様子だ。 
 洗面所の水は、手を動かしていないと3~4秒で止まってしまい、使いにくい。 設計者は実際に自分で使ってみたことはないのだろうか?
 8時。 道の駅「みはら神明の里」着。 どうということもない駅だが、広いのと、トイレがウォッシュレットなのがいい。 
 9時過ぎ、竹原市忠海長浜の「エデンの海パーキングエリア」という所に着く。 よくある国道沿いの駐車スペースで、海が見渡せるという以外、とりたてて見るべきものもない。 なんでも山口百恵の映画「エデンの海」の舞台となった忠海沖の瀬戸内海を見渡せる夕日鑑賞のスポットだということだ。 多々羅大橋を遠望できるが、だからどうというほどのことでもない。 中年の男性がバイクを停めて休んでいる。
 9時半過ぎ、道の駅「たけはら」に着く。 道の駅との表示に従って駐車場に入ったが、店舗はなく、駐車場も不定形で、どうしても道の駅とは思えない。 もう一度走り出してそれらしい所を探すが見つからず、また同じ駐車場に停める。
 気づくと、小さな川を隔てた先に道の駅と書かれた建物があり、その手前に小さな橋が架かっている。 とても道の駅とは思えない、ただの建物であるが、ともかく行ってみる。
 中はやはりただの商店といったところだが、一応散策マップが置いてあったので、それを持って歩き始める。
 町並み保存地区の手前に頼山陽広場というのがある。 広場というにはあまりにも小さい空間だが、レンガが敷き詰められ、ベンチもあって、散歩の休憩などにはよさそうだ。
 頼山陽というのは、あの頼山陽であろう。 竹原に関係があるのだろうか?
 あとで調べてみると、祖父が竹原に住んでいたというだけで、山陽自身はとくに関係がないらしい。 それでも竹原では頼山陽まつりというのがあるらしく、地元の中高生が頼山陽音頭を踊ったり、頼山陽仮装道中というのがあったり・・・なんだか山陽が竹原に利用されているような・・・。
 山陽の銅像もあるが、やけに頭の大きいその姿に、崇敬の念が薄れる。 傍らにはあの「鞭聲粛々夜過河・・・」という漢詩の刻まれた石碑がある。 2基並んで建っており、どちらにも同じ詩が書かれているのがなんとも寄せ集めという感じだ。 おまけに山陽の顔出し看板まである。 頼山陽といえばあの日本外史を書いた知識人だろうに、こんな形で利用されたのでは形無しだ。
 町並み保存地区のメインストリートである本町通り。 その写真を撮っていると、背後から声を掛けられる。 振り返れば二階に手摺りのついた立派な家が。 旧笠井邸というらしく、その主らしい女性が、お茶をどうぞとのこと。 辺りに観光客はおらず、断りにくい状況だったこともあり中へ。 明治5年に建てられた家だそうで、塩田で財を成したという“浜旦那”の家だけあって、豪邸といってよい。 
 邸内には製塩で使う枝条架(しじょうか)の模型が展示されている。 なんとなく、これに海水をかけて水分を蒸発させて塩を作るのだろうとは思ったが、実際にはそんな簡単なものではなく、海水をかけて、したたり落ちる海水をまたかけて、ということを繰り返して海水の塩分濃度を高め、それを煮て塩の結晶を得るのだという。 竹原はそもそも製塩で発展した町だそうで、製塩といえば赤穂と思っている人が多いということにいささか不満な様子で説明をしてくれた。
 この旧笠井邸、見学は無料だが中に募金箱が置いてあり、これも私一人しかいない空間で無視はできず、100円を入れる。
 本町通りを進むと、ニッカウヰスキーの創業者・竹鶴政孝さんの生家というのがある。 江戸時代中期からの酒造りで、「竹鶴酒造」といえば私でも名前だけは知っている。
 竹鶴さんはテレビ小説「マッサン」のモデルだそうで、道の駅にもマッサン、マッサンと大きく書かれていたが、私はその番組を観たことがないのでピンとこない。
 ただ、50年以上前に「判決」というテレビドラマがあり、毎週、白黒テレビにかじりついていた。 その番組のスポンサーがニッカウヰスキーで、竹鶴さんの名前は頭に沁み込んでいる。
 松阪邸も必見とのことだったので行ってみると、なるほど唐破風がひときわ目立つ瓦葺きの豪壮な屋敷が見えてきた。 二階は漆喰の壁に大きな虫籠窓がつき、1階は板壁になってりる。 江戸時代末期に建てられた商家の建物だそうで、竹原市の重要文化財になっているとのこと。
 内部見学は有料だが、窓口に5~6か条の条件を書いた紙があり、このうちのどれかに該当すれば無料ですが、と言われる。
 見ると、その一つに「後期高齢者医療被保険者証をお持ちの方」という文言があった。
 「あ、あります、あります」
と言ったものの、文化財保護のために徴収している見学料を払わないというのはどうかと思う。
 「後期高齢者になったばかりで気が引けますから、払います」と申し出たところ、「結構です」「いや払います」の押し問答になってしまった。
 結局タダになったが、申し訳ないことで。
 土間があり、勝手があり、居間があり、金具の引手がついた箪笥があり、いちいち懐かしい。 地震のときに箪笥の引手がカタカタ鳴ったことを思い出す。 
 なによりも気を惹かれたのは便所だ。 廊下の突き当たり、建屋の端に突き出た所にあるのがいかにもそれらしく、「厠」という言葉がしっくりくる。 便器がまたいい。
 板張りの床に和式の便器。 陶製で、焼き込まれた絵柄や色合いから有田焼ではないかと思われる。 絶えて使わなくなった「きんかくし」という言葉を思い出してついニンマリしてしまうが、いったいこの「きんかくし」という言葉は何であろう?
 男性器である「金玉」を隠すためのものという意味であることはまず間違いないが、他人が入り込む余地のない個室で、果たして隠す必要があるものだろうか? これはおそらく隠すためのものではなく、小便が前に飛び散るのを防ぐための工夫なのであろうと思う。 だったら、「飛尿止め」とでもいえばよさそうなものだが、それもまたあまりに散文的で艶がない。
 とまあ、どうでも良いことを考えながらつい長居をしてしまったが、この松阪邸には規模こそ違え私の生家を想起させる間取りや調度品が多く見られ、なかなか楽しい時間を過ごすことができた。
 本町通りの突き当りまで来る。
 小さな胡堂があり、大林宣彦監督の映画「時をかける少女」でお馴染みのスポット、と紹介されているが、私はその映画を観ていないので、ちっとも“お馴染み”ではなく、そのまま右折して照蓮寺に向かう。
 親鸞聖人の像があるところから浄土真宗の寺だということは分かるが、それ以外のことは何も知らずに本堂の階を昇る。 広い板張りの廻廊があり、素足で歩くと足に馴染む。静寂の中に板のきしむ音が心地良い。
 その照蓮寺からほど近い所に憧憬の広場という空間がある。 広場というにはあまりにも狭いが、そこに竹鶴政孝さんと奥さんの像がある。
 竹鶴さんがウイスキー作りを学ぶためにイギリスに留学したこと、そこでイギリス人女性と結婚したことは聞いていたが、その女性の名前も知らなかった。 
 今回、そのリタさんが64歳で亡くなったということを知り、思わず像に見入ってしまう。 私の妻が64歳で死んだこととは何の関係もないのだが、改めて妻の人生が短すぎたことに思いが至り、憐憫の念を禁じ得ない。
 
 竹原を出たあと、呉に向かう。 以前、大和ミュージアムを見学したときに、その膨大な史料をとても1回では見きれないと痛感したからである。
 駐車場がガラ空きだったのは意外だったが、ともあれ良かったと思いながら車を降りる。 道路を隔てて海上自衛隊呉史料館、通称てつのくじら館が見える。 前回は中に入ったが、見学通路は限られており、さして見るべきものもなかったので、今回はパス。
 駐車場からミュージアム入口まではレンガパークという屋外展示場になっており、そこに戦艦陸奥の砲身、主砲やスクリュー、錨などが展示されている。
 陸奥が当時世界最高の戦艦と言われ、連合艦隊の旗艦を務めていたものの、謎の爆発によって沈没したのは周知のとおり。 ここにあるものは、その現場から引き揚げられた本物だそうだ。 主舵は巨大なマンボウのようにも見える。
 主砲は41センチ砲というから、かなりの体格の人でもすっぽり入ってしまう太さだが、その長さがまた19メートル弱ということで、立てると6階建てマンションの屋上くらいになるとのこと。
 はやる気持ちを抑えながら入口に向かう。 まずは戦艦大和の模型から見ようか。 10分の1の模型とはいえ、本物は全長263メートルであるから、前回はその迫力に息を呑んだ。
 入り口。 やはり空いている。
 なんと、休館であった。 火曜日が休館とは・・・。
 茫然としていると、年配の男性が声をかけてきた。
 「休み?」
 「ですねえ」
 「どっから?」
 「千葉」
 「俺は神奈川」
 「・・・」
 「・・・」
 それで会話は終わり。

 大和ミュージアムには模型だけ見に行ったわけではなく、鎮魂の気持ちもあったから、休館だからといってほかを観光するという気分にはならない。
 せめて戦没された方々に礼を尽くそうと、長迫公園に向かう。もとは呉海軍墓地だったものを、呉市が整備して公園化した所である。
 さして広くはない斜面に、海軍関係の慰霊碑が所狭しと建ち並んでいる。
 重巡最上戦没者慰霊碑というのがある。 最上は多方面で活躍したものの、大破小破を繰り返して最後は戦闘能力を失い、自沈したと聞いている。
 特務艦間宮戦没者慰霊碑というのもある。 間宮という艦名は聞いたことがあるような気がするが、特務艦という言葉は初めてだ。
 説明によると各戦艦に食糧を運ぶ任務を持った艦ということで、そのため戦線にある各艦兵士たちからは「海軍のアイドル的存在」として親しまれたとのこと。
 確かに戦争ではとかく武力が注目を浴びるものではあるが、その陰で勝敗を決するほど重要なのはいかに兵員の糧食を確保するかということである。
 たとえば、いわゆる万里の長城は、今私たちが観光で訪れる八達嶺あたりにあるものなど文字通り城壁であって高さも厚さも目を見張るほどであるが、あれは明の時代のものであって、当初はせいぜい人の背丈を超えるくらい、厚さも2メートルほどであったという。 それも煉瓦で築いた堅固なものではなく、土を盛っただけで、それで防御の役に立ったのかと危ぶまれるような代物であったらしい。
 ではあるが、それはそれで十分であった。 なぜなら、当時は冷凍車などあろう筈がなく、兵員の食糧は生きた羊を連れて行き、先々で屠殺して食べていたのであるから、羊が越えられない障害物さえ作れば、軍隊はそれ以上先へ進めなかったのである。
 現代ではベトナム戦争が我々の記憶にあるが、あのときアメリカは一時50万人の兵をベトナムに投入していたという。 50万人と一口に言うが、その兵士たちが1日3食を食べるのであるから、アメリカがベトナムに兵を留めるためには毎日150万食を用意しなければならなかったわけで、これは戦闘機や戦車以上に重要なものであった。
 かかるがゆえに、間宮の任務は各艦戦闘員の命を左右する至上のものであったのだが、後年映画や小説で語られることは殆どなかったと思う。 「武蔵に乗っていた」とか「大和で戦った」とかいうと英雄視されるが、「特務艦で食糧を運んでいた」というと兵隊としてのイメージがやや低くなる。 理不尽な話であり、間宮の乗組員には申し訳ないという気がしてくる。
 その間宮は、終戦の前年にアメリカの潜水艦による魚雷攻撃を受けて沈没したということである。
 間宮が戦中も戦後も地味な存在であったのに比して、戦艦の中の戦艦として光を浴び続けているのが大和である。
 この長迫公園にも当然「戦艦大和戦死者之碑」というのがあり、供物の数も多い。
 その大和。建造中、既に戦いは航空機を主力とする流れが始まっており、巨艦無用論が叫ばれていたとのこと。 案の定、就航した大和はあまりの大きさに却って活躍の場がなく、わずかな戦歴でもさしたる戦果をあげられなかった。
 大和が最後に負った任務が海上特攻。 沖縄沿岸で敢えて座礁させ、艦そのものを敵艦接近の障害物とする一方、砲台として米軍を攻撃するというものであった。
 しかし大和以下第二艦隊は坊ノ岬沖で米軍航空機の猛攻を受け、沖縄に到達することなく壊滅、大和は爆沈した。
 碑にはその戦死者の名が刻まれているが、実数は2500名を超えるというだけで正確には判っていない。 お名前も知られずに亡くなった方々のことを思うと胸が痛む。

 そのほか沢山の慰霊碑や墓碑が並び、どれも素通りできないので、ここではかなりの時間を費やしてしまい、その後に予定していた宮島観光は翌日に延ばすことになった。
 そのため宮島手前で寝場所を探す必要が生じ、見つけたのが国道2号線の西広島バイパスにある佐方サービスエリア。
 売店、食堂とも7時~20時まで開いており、宿泊には都合が良いのだが、トイレはすべて和式。 多目的トイレだけが洋式だが、それもウォッシュレットではない。
 さらに車道と駐車場がわずかな植栽で仕切られているだけなので、一晩中トラックの音が響き、とてもぐっすりとは眠れない。
 幸いクーラーボックスの中には発泡酒がほど良く冷えていたので、食堂で広島ラーメンを食べたあとは車中でのんびり過ごす。
  第10回 赤穂~門司(3) 第10回 赤穂~門司(5) 
       9月末更新予定
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