第10回 赤穂~門司(3) 2018.9.8~17(9泊10日)


2018年9月10日(日)
 吉備津彦神社を出て鞆の浦に向かう。
 昼飯を食べたいと思うが、国道2号線にはなかなかコンビニがない。浅口市という初めて聞く地名の所でようやくセブン・イレブンを見つけ、握り飯2個と氷を買う。
 1時半を過ぎて鞆の浦の町に近づく。町の手前では7月に広島県全域で猛威を振るった豪雨による崖崩れが何か所かあり、それぞれ道路を片側通行にして復旧工事を行っている。
 2時過ぎ、前回泊まった旅館「景勝館 漣亭」の前に着く。「鞆の浦観光情報センター」というのがあったので行ってみると、駐車場には「お買い物中のみ無料。観光等に行かれる方は有料。ご利用のお客様は先に店内で受付けしてください」と書かれた看板が立っている。 観光情報センターというのは付け足しで、本体は土産物屋なのだ。 似たようなやり方はほかでも見たことがあるが、買い物をしている間だけ無料というあからさまな商魂は初めて見た。
 腹が立ったが、仙酔島への渡船の情報を知りたかったし、町の散策用に地図も欲しかったので、店の向かい側に路上駐車して店内に入る。 案の定、センターとは名ばかりで、店の一角に無人のコーナーがあり、チラシの類が置かれているという按配であった。
 それでも散策マップがあったので、1枚貰って車に戻る。
 まずは渡船の駐車場に車を停め乗り場に行くと、乗船券の自動販売機があり、往復240円とある。 片道切符というのはない。まあ、島に渡ったままという人はいないのであろうから、それでいいのだが、わざわざ往復乗船券という言葉を使われると、その対語として「片道」という言葉が浮かんでくるので、内心苦笑をしてしまった。
 船は20分毎に出ているということで、待つほどのこともなく次の便が出る。 
 乗り込む際、「はい、帰りは要りませんから、これは貰います」と言って往復券を取り上げられる。
 船名は「第二べんてん」。 定員は乗員込みで50名だそうだが、乗客は私1人。 もう1隻と合せて1日40便も出ているということだが、無人の便もかなりあるのではないかと心配になる。
 10分足らずで仙酔島に着く。 正面の高台にホテルが見える。「人生観が変わる宿 ここから」というのが宿の名だ。 またなんとも凝ったというか、張り切ったというか、馴染めない名前である。飯島旅館とか双葉旅館とかいうような素朴な名前では客を呼べないと思ってのことなのであろう。
 桟橋から砂浜に出ると、そこに魚の死骸が2体。それがどう見てもへらぶなだ。 淡水湖のない島にへらぶながいるわけはないのだが、子細に見てもやはりへらぶなでしかない。
 目玉と内臓だけが抉り取られているところを見ると、カラスかトンビが美味しいところだけ食べて捨て去ったものであろう。
 砂浜の先が切通しになっていて、そこを抜けると島の反対側に出られる。 一帯を「鞆公園」というらしい。 切通しの先は急に開け、海水浴場になっている。 田ノ浦海岸である。
 親子が水に入っているが、水際から何メートルもない所に立っている父親は、腰の上まで水に浸かっており、この場所が沖に向かって急勾配で下っている、いわゆるどん深であることをうかがわせる。
 いつもの通り砂を採取する。 私が行く先々で砂を集めていることは前にも書いたが、始めたのは30年ほど前、長男の自由研究で南房総の海岸を回って砂を集めたことに端を発する。 今およそ1400本の標本になっている。
 子どもたちが、お父さんが死んだら処分に困ると言っており、確かにその通りだとは思うのだが、やめるのも惜しい。 まあ、庭にでも撒き、瓶は不燃物としてゴミ収集所に出すということになるだろう。


 
 砂浜の先は海岸線に沿って遊歩道が続いている。 ほかに行く所もないので、ともあれ先に進んでみる。
 沖合に小さな島が浮かんでいる。 上陸できそうにないが、猫の額ほどの砂浜がある。 神功皇后が仙酔島に渡るためにこの島で船を乗り換えたというところから、皇后島と呼ばれている由。
 遊歩道沿いに岩がオーバーハングになっている崖が現れた。 説明板があり、「激しい火山活動の証である流紋岩質溶結凝灰岩でできている」とあり、大地が大きく左側に傾いたことが分かると書いてある。 流紋岩質溶結凝灰岩といわれても分からないが、大地が傾いたことはまあ、見れば分かる。 
 少し先にまた説明板があり、そこには「火山活動が一時衰えた時代に、海底または湖底に泥、砂、礫が堆積してできた地層で、この時期に地盤の変動があったことが分かる」と書かれているが、いくら見てもごく普通の海岸の崖にしか見えない。
 さらに先へ進むと、今度は「流紋岩質凝灰岩層とその上に堆積した仙酔層を断ち切る断層が生じたため、断層面を境に仙酔層と凝灰岩が隣り合わせになっている」「仙酔層を断ち切るように火成岩をつくるマグマが貫入したため、仙酔層と火成岩の岩体が隣り合わせになっている」「断層とマグマの貫入によって、流紋岩質凝灰岩、仙酔層、火成岩という順にできて、横並びになった」とまあ、何が何だかさっぱり分からない説明が書かれている。
 無論、説明が悪いのではなく、その説明を理解するだけの知識がない私に問題があるのだが。 いずれも9千万年ほど昔のことらしいが、数十年しか生きていない学者たちが「分かる、分かる」と書いているその学識は、私なんぞとはあまりにレベルが違い過ぎて劣等感すら湧いてこない。
 その先、右方の海中に磯が延びて小さな島に続いている。 いわゆる陸繋島であるが、満潮時には繋がった部分が海中に没して完全な島になるという。 磯であるから砂洲とは呼びにくいが、その左側には砂浜が広がっている。 彦浦の浜である。
 褐鉄鉱の風化によってできたという赤色岩などを見ながら来た道を桟橋まで戻り、本土に渡る。 最初に乗船した渡船場に着いて気がついたのだが、桟橋がない。 出札所から海面まで雁木になっていて、船はそこに舳から突っ込む。
 なるほどこれなら舳を長くしておけば潮の干満に合わせて雁木のどこかにぴたりと付けることができる訳だ。 雁木が船をつける設備だということは漠然と承知していたが、考えてみると、そこに船体を横付けするのは困難で、渡り板でも使わなければ乗り降りや荷役はできないだろう。
 今回、着岸の様子を直接見られたのは、いい勉強になったといえる。
 鞆の浦は前回来たときにざっと歩いているが、せっかく来たのでまた散策してみることにする。
 観光情報センターで貰った散策マップを見る。 なんと、貰ったマップにはボールペンで乱雑な書き込みがしてあり、それが中国語である。 自分で書き込みをしたものをそのままもとに戻しておくという無神経さに腹が立つ。 中国人はどこまで行っても中国人だ。
 港に沿った道に扁額もなく社名も書かれていないい小さな祠がある。マップを見ると住吉神社となっているが、周りにゴミ袋が置かれていたりして、どうもあまり大切にされてはいない印象を受ける。 玉垣で囲まれた部分は4畳半くらいだろうか。 その中に漬物石の化け物みたいな石が何個か転がっている。 数十センチ角の板に書かれている文字を読むと、それは「鞆ノ津の力石」というものらしい。 江戸時代に荷物の積み込み、陸揚げに従事する仲仕たちが祭礼の場などで持ち上げてはその力と技を競ったものだという。 花崗岩製で、重さ140~200kgあるというから驚く。
 その先はお馴染みの鞆ノ浦の街並みが続く。 例のマップに「いい感じの家並」と書かれている所だ。 確かにいい感じである。 何よりも、家の前にポリバケツが置いてあったりする生活感がいい。 よくある伝統的建造物群保存地区というような所では、通りの両側が軒並み土産物屋・カフェなどになっていることが多く、逆にシラけてしまうことがあるが、ここはそういう様子がまったくない。
 太田家住宅というのがある。 玄関の上に唐破風の庇に守られた杉玉があるところから酒屋であることは一目して分かる。 さらに古びた木看板には「銘酒賣捌所」「十六味地黄保命酒」というような文字があり、漢方薬酒の店であることが伺える。 国の重要文化財になっているという。
 太田家からは歩くほどもなく港に出る。 まあ、酒の出荷・輸送に便利な所に醸造所を建てたのだろうと思えば納得がゆく。 
 そこには鞆の浦を象徴する雁木と常夜灯があり、前回も当然来ている。 団体客らしい人たちもいるが、幸い中国人ではない。 いろは丸展示館というのがあり、坂本龍馬率いる海援隊が大洲藩から賃借していた蒸気船・いろは丸が紀州藩の軍船と衝突して沈んだ事件の史料を展示している。 鞆の浦ではひときわ大きな建物であるが、それ自体が江戸時代の土蔵であり、国の登録有形文化財になっている。
 しばらく散策をしたあと、今晩の車中泊を予定している福山市沼隈の道の駅「アリストぬまくま」に向かう。
 県道47号線を走っていると、左に「小室浜海岸」の看板が。 それに従って小路を下ると間もなく左に矢印があるものの、鎖で道が塞がれている。 シーズンオフとはいえ、道まで閉鎖しているというのは訳が分からぬ。 直進する道はあり、下り坂になっているところを見ると、いずれにせよ、海岸には出るのだろうと思い、そのまま進む。
 ところが道はどんどん狭くなりすれ違いはもちろん、切替して戻るだけの幅もない。 曲がりくねって細い、しかも下っている道をバックで戻るのは至難であるから、とにかく切替しのできる所までと思って渋々進む。
 左右から木の枝が張り出していて、車体をこすりながら行くと、今度は道の真ん中に藤の枝が視界を遮るように垂れ下がっている。 ゆっくり進むしかないが、枝はボンネットをこすり、フロントガラスをこすり、屋根をこすってガリガリと音を立てる。
 と、今度は行く手に沼が。 水は一面黄緑で、いかにも不潔だ。 しかも道は企んだようにその水面に向かっており、セメントの路面が大きく割れて左に傾いている。 そのセメントは左側が水に没して、先へ渡るにはタイヤを水につけながらでなければ進めないことが見てとれる。
 しかし他に方法はないので、とにかく止まらないように、ギアをローに落としてそろそろと進み、なんとか通り抜けた。 そしてその先でようやくわずかな道のふくらみを見つけ、10cm刻みの前進後退を繰り返し、やっと向きを変えることができた。 とはいえ、戻るにはまたあの沼を越えなければならぬ。 しかも今度は沼が右側だ。 ということは、沼に転落すれば運転席が水に没することになる。
 水没した車からの脱出を考えて、両サイドの窓を全開にした。 窓から首を出して路肩を確認しようとすると、路面が見えない。 つまり車体が沼の上にはみ出ているということだ。
 そうしているうちにも弱い路肩が崩れていくのではないかと心配になり、ローギアでエンジンをふかし、一気に通り抜ける。
 そしてまたあの藤の枝にこすられながら坂を登り、ようやく県道に出た。
 小室浜海水浴場への道を閉鎖するくらいなら、私の通った下り坂をこそ閉鎖すべきではないか。 憤懣やるかたない気分で沼隈に向かう。
 アリストぬまくまに着いたのは午後5時ちょうど。 さして広くはない駐車場に、泊まっている車は2~3台、それも地元の車で、車中泊の仲間は見当たらない。 あまりありがたくないが、今からほかの場所を探すのも億劫だし、見つけたとしてもそこがもっと良い場所だとは限らないので、ここに泊まることにする。
 それにしても、アリストぬまくまの「ぬまくま」は所在地の地名であるからいいとして、アリストとはいったい何なのだろう。 調べてみると、Assemble(集まる)・Rest(休む)・Image(イメージ)・Study(学ぶ)・Talk(話す)・Oasis(オアシス)の頭文字をつなげたものだとのこと。 なんたることか。 アリストと聞いてそんな言葉を思い浮かべる人は皆無であろう。命名者の自己満足以外のなにものでもない。
 道の駅といっても産直売店のような感じで、まだ5時だというのに店は既に閉まっている。 となれば夕飯を買いに行かなければならない。 来た道を少し戻った所にスーパーがあったようなので、行ってみる。 「HALOWS沼南店」というようだ。 刺身、ざるそば、わさびを購入。 道の駅に戻って車中での夕食となる。
 夜中に3~4台の車があって車中泊らしいものもあったが、一晩中エンジンをかけており、その音が強弱を繰り返していてうるさい。
 この日は94kmしか走っていなかった。 旅行でこの距離というのは滅多にないことだ。
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