第10回 赤穂~門司(2) 2018.9.8 ~ 17 (9泊10日)


2018年9月9日(日)
 赤穂を出たあと、岡山へ向かった。
 400mの廻廊を持つという吉備津神社に行ってみたいと思っていたからである。
 祭神の吉備津彦命はあの桃太郎のモデルになったという話もあるそうで、数多ある神社の祭神の中では希有の美少年であろう。
 国道2号線を走っていると、早速、道路脇に桃太郎の像を見つけた。 桃の上に坐った赤ん坊で、背筋をピンと伸ばして、さすがは桃太郎と思わせる。
 台座に OKAYAMA CITY とある。もう岡山市に入ったのかと思い、地図で調べてみると、岡山市は岡山県の東端にあり、目の前を流れる吉井川が瀬戸内市との市境であると同時に兵庫県との県境にもなっているようであった。
 県庁所在地でもあり県名と同じ名前の市でもある岡山市が、県の端にあるとは知らなかった。
 市街地を走っていると、「後楽園」の文字が出てきた。 日本三名園とか言われているが、行ったことがない。 ならば話のタネにと思ってハンドルを切る。
 駐車場は園と旭川に挟まれた細長い場所に設けられており、観光地の駐車場にしては狭い。 ただ河川敷が舗装されているので、客の多いときには解放されるのであろう。
 入園券を買おうと「一人です」と告げると、「失礼ですが、シニアの方ではいらっしゃいませんか?」と訊かれた。
 老人割引のことを考えてもいなかったので、少しばかりうろたえて「あ、シニア! 何歳からですか?」と尋ねると65歳以上とのことであった。
 「それならとっくに過ぎていますね」と答えたものの、考えてみれば老人割引が76歳以上である筈がないのだから、自分がそれに該当していることは確認の必要もない自明の事実である。
 60歳であろうと65歳であろうと、それ以下でないことは一目して分かるのだから、あれは係りの女性がやんわりと割引を勧めてくれたのであって、それを察しないで訊かずもがなの質問をしたのは愚かの極みであった。
 園内はとてつもない広さで、それには驚いたが、「名園」という言葉から、細部にまで意を用いた日本庭園の趣きを期待していただけに、ちょっと物足りない感じではあった。 稲田、茶畑、蘇鉄の林など、違和感も禁じ得ない。 島根の足立美術館、東京の清澄庭園、香川の栗林公園など、すばらしい日本庭園は各所にあるが、何を基準に日本三名園というのであろう。
 萱葺の家屋や松を配した池など、見どころも多いので、行ってよかったということは間違いないが、それ以上のものではなかった。
 後楽園からこの日の宿「旅籠屋岡山店」までは12kmぐらい、それも国道180号線1本で行ける筈なのだが、その国道にバイパスができていて、普通に走っていると方向違いの道に誘導されてしまう。
 迷いに迷い、結局また後楽園に戻ってしまうなど、最終的に3時間近く、45kmを余分に走ってしまった。
 夜パソコンを開くと、旅籠屋のある岡山市北区は台風のため大雨避難準備情報が出ている。 明日行く予定の呉市には避難勧告が。

9月10日(月)
 5時35分起床。 朝風呂に入る。
 ロビーに行って朝食用にパンを5種類、コーヒー2杯、オレンジジュース1杯を取ってくる。どれも美味い。
 起きたときは雨が降っていたが、出発準備をしているうちに上がる。 車がやけにきれいになっているのは、夜中に強い雨が降ったからか。
 宿泊客の車は6台停まっている。 高崎・愛媛・名古屋・千葉・倉敷のナンバーがある。
 8時40分、宿を出る。 
 10分で吉備津神社。 国道180号線から神社まで、一直線に参道が延びている。
 神社正面の手水舎に近づこうとして、思わず足が止まった。 砂利に見事な箒目がついていて、踏み込むのを逡巡させたのである。
 ところが、目を凝らして見ると、それは箒目ではなく、縦横等間隔に鋲が打ち込まれており、それが遠目には箒目に見えるというものであった。
 拍子抜けと言えばそう言えなくもないが、どこかホッとした気分でもあった。 神に仕える人たちが神への奉仕か己の精神修養かで毎日砂利に箒目をつけているとしたら、それはいささか厳し過ぎると思うからである。 掃いては荒らされ、掃いては荒らされ、それを毎日する空しさが次の何かを生む修養であるとは思いにくい。
 さて、この吉備津神社。 崇神天皇のころに四道将軍の一人として吉備国に派遣された吉備津彦命を祀っているとのこと。 中央権力が地方を武力平定して帰順させるという、今なら決して褒められない事業を担当した訳であるから、神として祀られているということにどうも釈然としない。
 吉備の国はその後、備前・備中・備後・美作に分けられた。 吉備津神社はその備中の東の端、備前までほんの数百mの位置にあり、備中の国一宮として存続している。 格も高く、社殿も豪壮である。 境内の広さは言うに及ばぬ。
 まず石段を上る。両脇に高い鉄枠。 高額奉納者の芳名板を並べる枠であるが、今は1枚もない。 石段上の北随神門の屋根の葺き替え工事に要する資金を募集中で、それが終了した時点で張り出すと書かれている。 額が少なければ下の方に貼られるということであろう。
 北随神門は室町時代後期の建造だそうで、入母屋造、檜皮葺のがっしりした門であるが、なるほど屋根の痛みは素人目にも激しい。
 北随神門の先にはまた石段があり、その上に長大な授与所が建っている。 授与所の一部がくぐり門のようになっていて、その先が拝殿であるが、拝殿までは数mしかなく、拝殿の裳階が授与所の屋根にかぶさっている。いかにも狭い所に継ぎ足した感じで、高格な神社の社殿としてはどうも粗末ではないかと思ってしまう。
 拝殿の扁額には「平賊安民」と分りやすい言葉が書かれているが、吉備津彦命がこの近くで民衆を苦しめていた温羅(うら)という鬼神を退治したという故事に因んでいるように読める。 これが鬼を退治した桃太郎という話のもとになっているというのである。
 しかし、読み方を変えれば、中央政権が地方を武力平定する際に、その地方の賊を平らげて民に安寧を与えるという大義名分を正当化する言葉とも読めるのではないか。
 いよいよあの廻廊に入る。 写真で見て、是非自分の目で見てみたいと思っていた廻廊である。
 ところがいきなり長さ360mという数字が目に入ってきた。 旅の案内などでは400mという数字が躍っている場所である。 インターネットで調べると398mというものもあるが、それを400mと紹介するくらいはあながち誇大ともいえまい。 ただ360mだとすると、1割増しということになり、あまり褒められたものではない。 神社側がわざわざ短く宣伝することは考えられないから、これはおそらく集客をねらった観光関連の業者あたりが、廻廊の所々にある摂社への枝廊を計算に加えて紹介しているのであろう。
 むろん360mだからといって、価値が下がるものではない。
 意外というか、ちょっとばかりがっかりしたのは、その廻廊がコンクリートの上に建っていて、床がないということであった。
 吹きさらしの廻廊であるから、下がコンクリートというのはごく当たり前のことで、がっかりという言葉を使うのは不適当であるとは思う。 おそらく、恐山菩提寺の廻廊を見たあとだから、あるいは以前永平寺の廻廊を見た記憶からか、床板の張られた廻廊の空気が先入観として混入していたのであろう。
 それはともかくとして、廻廊そのものは柱といい梁といい、太い木材をふんだんに使い、木組みを楔で止めた立派なもので、本瓦の屋根も重厚さを高めている。 これだけの廻廊は確かにそれだけを目当てに来る者がいても不思議ではない。
 途中何か所かに木製のベンチが置いてある。 長い廻廊を歩く高齢者に配慮したものと思われる。
 私は3か月前に75歳になり、いわゆる後期高齢者の仲間入りをした。
 「後期高齢者」。 なんという無神経な言葉であろう。 もともと一部の学会で使われていた言葉ではあるが、2006年に高齢者医療確保法が成立して、その後、後期高齢者医療制度が発足したことで広く使われるようになった。
 お役所言葉の常とはいえ、あまりにも機械的な言葉に批判が殺到すると、今度はこれまたお役所的ではあるが、慌てて「長寿医療制度」などという陳腐な言葉を使ったりして失笑を買っている。
 高齢者をシニアとか熟年とか言っても、高齢者は自分が高齢であることを日々感じている。 一度後期高齢者と言ってしまったものを長寿と言い換えたところで、当の高齢者が喜び安心するものでもあるまい。
 廻廊の途中に「御竃殿」と書かれた案内板がある。 鳴釜神事は吉備の国が発祥だという話を聞いたことがあるが、実際に見たことはないので、行ってみることにする。
 枝廊の先にその御竃殿がある。 重要文化財だそうだ。
 鳴釜神事の案内が貼られており、体験したい気持ちにかられたが、いくら必要なのか分からないのでためらっていたところ、中にいた女性から「お詣りは自由ですから、どうぞお入りください」と声を掛けられた。
 内部は写真撮影禁止だそうで、それだけで緊張を誘う。
 靴を脱いで中に入ると、神職はいなかったが、柱、壁、天井、さらに床までが黒光りする室内に竃がある。 火が焚かれ、釜から湯気が立ち上っている。
 厳かな空気が満ち、さきほどの女性が私に付き添うように正座をした。 こうなると私も立ったままキョロキョロいうわけにもゆかなくなり、とりあえず正座をする。 竃の前に賽銭箱があり、その場に一人しかいない参拝客として無視することもできないので、にじり寄り、わざとらしく、女性に音が聞こえるように小銭を数枚落とし込む。
 二礼して、柏手を打とうとしたとき、視界の隅に「参拝の作法」というような文字が入った。 はて? ここでは特別な作法があるのかな、と思って手が止まり、横目でその文字を追いながら参拝したが、特に変わった作法ではなく、二礼二拍手一礼という通常の作法であった。
 さらに廻廊を進むと、小さな牡丹園があり、その前にベンチが置いてある。 休憩用か牡丹観賞用かはともかく、咲いた花の前に坐る勇気のある女性はいるのだろうか? 通る人たちが聞えよがしに「・・・坐れば牡丹」などと言わなければいいのだが。
 廻廊を戻る途中に、細い斜路があったので、どこに出るのかは分からぬまま登ってみた。
そこにきれいな色をしたカタツムリが。
 カタツムリなんて見るのはいったい何年ぶりだろうか。 大きなお世話ではあるが、カタツムリは一日動いても見る景色は同じであろう。 何か面白いことがあって生きているのだろうか?
 その坂を登ると「一童社」という社に出た。 学問・芸能の神様という看板が懸っている。 それはいいのだが、木枠で2本のトンネルが作ってあり、その壁面に合格祈願の絵馬がびっしりとぶら下がっている。 入り口に「祈願トンネル」と書かれているのにはげんなりした。「明るい門出」「勝利はわが手に!」「栄光への旅立ち!」とも書いてある。
 昨今は結婚式場でもあまり俗っぽい趣向は飽きられているというのに、由緒正しい神社ともあろうものが、こんな仕掛けで受験生を呼ぼうという浅ましさには言葉がない。
 加えて「みちびき」なる〝おみくじもどき”がさらに興をそぐ。 長方形の箱に丸い穴が3つ開いている。 100円玉を入れる穴も4つあり、コインを入れた客は丸い穴から手を入れて中にあるおみくじのような紙片を取り出す。 そこには明治天皇・昭憲皇太后の詠まれた人生歌が書かれているらしい。
 それを読んだあと、客は横にしつらえてある針金におみくじよろしくそれを結びつけるのだが、針金が「合格」という字の形に張られているという、なんとも低俗な仕掛けなのである。
 その一童社から一段低い位置に吉備津神社の本殿がある。 ちょっと見、小さく見えるが、出雲大社の2倍以上の広さがあるそうで、国宝に指定されている。
 入母屋造りの建物が2棟合体したような形で、比翼入母屋造りと呼ばれ、日本でここだけの様式であることから、吉備津造りとも呼ばれている由。 調べてみると「比翼入母屋造り」の神社はここだけではなく、全国に何か所かある。 比翼入母屋造りがここだけということではなく、棟の向きか何か、組合せの一つがここだけなのかも知れない。
 おみくじ売り場。 売り場という言葉は神社では使わないのであろうが、今ではおみくじというのは大抵が自動販売機で買うようになっており、おみくじを〝引く”という言葉は合わなくなっている。
 そのおみくじ売り場であるが、六角堂のような建物の周りに代金を入れる所があり、壁面には桃太郎の話の各場面が描かれている。 吉備津彦命が桃太郎のモデルということなのであろうが、このモデル話は多分に後のこじつけであり、高格の神社がこれ幸いとばかりにそれを利用しているのは、少しばかり情けない気がしないでもない。
 多くの寺社が集客をねらって軽薄低俗な趣向をこらしている中で、ここもまたという失望感は拭えないが、そういう私自身が喜んでしまったのは、授与所に展示された大相撲・千代の富士の優勝額であった。
 縦317cm、横228cmという大きな額に納められた写真。 白黒写真に油絵具で彩色したものだそうだが、絵とも写真とも判じ難い精巧なものである。
 千代の富士は、知らぬ者とてない大横綱であり、私も熱心なファンであった。 その雄姿は今も目に焼き付いているが、それとは別に、私が強い共感を抱いている姿がある。
 それは彼の引退の辞を述べる彼の姿である。 当時優勝回数歴代1位であった大鵬の32回にあと1回と迫る場所での初日、新鋭の貴花田に敗れ、3日目に貴闘力に敗れると、その日に記者会見を開き、引退を表明した。 その言葉は「体力の限界・・・、気力もなくなり」というものだった。
 まだまだ何回もの優勝が可能と思われていたし、事実引退後も若い力士に稽古をつけるときの強さは際立っていたという。
 それが「気力もなくなり」とはどういうことかという向きも多いが、私はこの言葉にこそ、第一線で頑張ってきた人の重みがあると感じていた。
 張りつめた気持ちというのは、一瞬で切れる。 それも他者からみれば「そんなことで」と思われるくらい小さなつまづきで。 そしてそうなるともう、何をどうやってももう一度自分を奮い立たせることはできない。
 プロ野球でホームランの世界記録をもつ王貞治選手が、まだまだ球界の第一人者として活躍できる状況で引退したときにも気力の衰えという言葉が発せられた。
 一流中の一流を歩く人が、気力の衰えという、あまり体裁の良くない言葉を口にするとき、自分が自分に追い詰められた寂寥感がその裏にあると思うのである。
 吉備津神社で、手の届く高さに置かれた巨大な優勝額を前に、改めて千代の富士の偉大さに思いを馳せて、嬉しいような寂しいような気分を味わった。
 吉備津神社のあとは吉備津彦神社に回る。
 よく似た名前だが、吉備津神社は先述のとおり備中の一宮であり、吉備津彦神社は備前の一宮である。 吉備の国が備前・備中・備後・美作に分けられた際、吉備津神社は備中にあってそのまま存続した。 ところが備前には一宮がないので、吉備津神社からの分社という形で吉備津彦神社が作られた。 備後には吉備津神社と同名の神社が作られたからややこしいが、もうひとつ厄介なのは、吉備津神社が備中の東端、吉備津彦神社が備前の西端にあるということで、両者の距離は2kmほどしかない。
 吉備津神社が境内の広さ、社殿の数と大きさ、けれんみのない商魂等で集客に成功しているのに対し、吉備津彦神社は劣勢を否めない。
 とはいえ、そこらの神社に比べれば豪壮であることは間違いなく、本殿拝殿の作りにも風格がある。 桃太郎がどうのという飾り付けがないのもいいし、広い池に亀が泳ぐのもいい。
 赤トンボに秋を感じながら岡山をあとにし、広島県、まずは鞆の浦に向かう。

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