第10回 赤穂~門司(5) 2018.9.8~17(9泊10日)


2018年9月12日(火)
 5時過ぎに起床。 ゆっくりしたつもりだが時間を持て余し、6時半過ぎに出発。 10分ほどで宮島口に着く。
 もみじ本陣駐車場という所に入る。 ガラガラに空いている。 駐車料は1,000円と高いが、この駐車場を利用すると、隣接している土産物店「もみじ本陣」での買い物が5%引きになるとのこと。
 島への船は松大汽船とJR宮島フェリーの2社が運行している。 どちらも料金は同じで、片道180円。 まあ、片道という人はいないと思うが。
 JRの方が大鳥居に近づくので人気があることは周知のとおりだが、そのセールスポイントを露骨にかざし、券売所の看板に「大鳥居に最接近」などと大書して客を呼んでいるのはいささか品がない。こっちの水は甘いぞと言わんばかりで、松大汽船はさぞかし切歯扼腕の思いであろう。 
 その松大が「直行便」とか「宮島ゆきのりば こちら」とか懸命に対抗しているのがなんとも健気で
ある。 私は迷わず松大に行き、自動販売機で往復券を買った。 両者の有利不利を見ての判官びいきというよりも、日本の企業なのにジェーアールなんて表音文字を社名に冠している節操のなさが気に入らないからである。
 農協はジェーエー、日本たばこはジェーティー、漁協はジェーエフだそうだ。
 ジェージェージェージェーと、蝉でもあるまいに我も我もと「J]を使いたがるのは何なのか? 日本という立派な言葉があるのに、わざわざ意味の分からない「ジェー」という音を冠したがる感覚が分からない。
 まあ、この件については別稿でも述べているので、今回は深入りしない。
      http://zatsunen4989.web.fc2.com/hitorigoto/056_JR.html

 10分ほどで宮島に着く。
 ぞろぞろと下船する人たちに続きながら、ふと思った。 観光客らしいのは私一人ではないのか? 
 改めて下船客を見回すと、皆一様に黙って歩いている。 まるで都内の駅の人の流れのようだ。
 そうか、この人たちは通勤者なんだ! 宮島には多くの旅館や土産物屋がある。 当然そこで働いている人がいるわけで、それが皆島民である筈がない。 時間はまだ7時半より少し前。島外からの通勤客ばかりが降りてゆくことはしごく当たり前なのだ。
 
 ガラガラのターミナルを抜けると桟橋広場が開けている。
 すぐに見えたのが世界遺産登録記念碑というもの。 1996年に宮島が世界遺産に登録されたことを記念して2000年に建てられたのだとか。 私はその後にも宮島には行っている筈だが、この碑に覚えはない。
 台座の上に載った石に丸い穴が開いており、それを通して大鳥居が見える。 これが人気で、最近では写真撮影の順番待ちができるほどらしい。 まだ観光客がいない時間だったので、すぐに覗けたが、それでどうということでもない。
 そもそも私は、猫も杓子も世界遺産、世界遺産と騒ぎ、中には世界遺産をいくつ回ったなどと浮かれている輩が多いことにうんざりしている。
 平清盛像。これも初めて見る。 あの時代の日本人とは思えぬ八頭身の体躯。 それだけでなんとなく胡散臭い。 2014年の建立だということなのでおおかた観光用だろうと思ったら、案の定、2012年にNHKの大河ドラマで「平清盛」というのが放送されたようで、観光協会が中心になって建てたのだそうな。 大河ドラマの舞台となると日本中から観光客が押しかける風潮も、世界遺産騒ぎと同じで、好きではない。
 海沿いにゆっくり歩いていると鹿が寄ってくる。 昔、修学旅行の引率で来たとき、生徒の誰かがティッシュペーパーを出すと、鹿がそれを食べた。 驚き喜ぶ生徒たちの中で一人の男子生徒が千円札を出し、食べさせた。 周りの嬌声に、得たりとばかりもう1枚取り出し、鹿は無表情で完食。
 私は、つくづく世の中にはどうしようもない馬鹿がいるものだと思った。 人間には上中下があるというのが私の持論だが、この件は、誰が何と言おうと私の説が正しいということを証明している。
 ほどなくして石鳥居。 明治38年に建てられた(39年という説明もある)そうで、周防大島の石材が使われているとのこと。 こういう大きなものを見ると、つい手の平でペタペタと叩いてしまう。何の意味もないのだが、なかば習性みたいなものだ。
 その手前には狛犬。 狛犬というのは、そもそもが想像上の動物だというだけあって、威厳に満ちたものからユーモラスなものまで実に多様で、どこでもつい足を止めて見入ってしまう。 もっとも文化史的な知識・関心があるわけではなく、ただ面白いというだけのことで、ここでも私の感想は「短足だな」というだけであった。
 その狛犬の後ろに「ねじれの松」というのがある。
 真っ直ぐに立ち上がった松の幹が突然参道中央の方向に折れ曲がっているのだ。 その角度はおよそ110度くらいであろうか。つまり水平より下がっている。 枝先はまた上に向かっているから、木そのものの生理からすると最初に折れ曲がったことに無理があるのだということが分かる。
 ねじれの松の名は単にその姿からしてのものであろうが、私はむしろその「無理」にこそ「ねじれ」があると感じた。 言うまでもなく木が自然にそうなる訳はなく、人間が横に伸びた枝のすぐ上で幹をばっさり切り取ったもので、年月がその切り口を塞いだだけのことである。 その人間の行為こそねじれているのではないか。
 厳島神社の建つ入り江の端、御笠浜に出る。 大鳥居に最も近く、以前干潮の折りにこの浜を歩いて大鳥居まで行ったことがあるが、この日は潮が上げている途中で、浜には下りられない。
 宮島といえば厳島神社、厳島神社といえば大鳥居で、この鳥居の写真を撮らない観光客はいないのではないかと思う。 むろん私も撮った。 そしてふと思ったが、私は何回もここに来ていながら、カメラを持ってきたのは今回が初めてではないか?
 陸側の扁額には「伊都岐島神社」、海側のものには「厳嶋神社」と書かれている。 どうして二通りの名前があるのか、いつ誰が書いたものなのか、私には分からない。 というより、調べてみようというほどの関心もない。

 300円を払って厳島神社社殿に入る。 手前に注意書きが掲示されており、次の行為はご遠慮くださいとある。 どこでも見かけるもので、別段違和感はない。
 ところが読むともなく読んでみると、落書きなどの社殿を傷つける行為、というような文が並んでいるのはごく当たり前として、「報道および商用の写真等の撮影は許可を取る事」というのが気になる。
 「次の行為はご遠慮ください」といって「次の行為」の中に「許可を取る事」とあるのは・・・許可を取るのはご遠慮くださいということになるのではないか? 無断で撮れということか?
 まあ、そういうイチャモンをつけるのはやめて先に進むとしよう。 上げ潮ではあるが、潮はまだ社殿まで届いておらず、足元は砂地が露出している。
 東廻廊に入ってすぐ、客(まろうど)神社がある。 厳島神社に来る人々をもてなすための神社だそうだ。
 もてなすというのは温かみのある行為で、世界中これを否定する国民性というのはないと思う。 むろん日本人にもそういう習慣はある。日本を訪れた外国人が日本人からもてなしを受けて感激したというような話は枚挙にいとまがない。
 しかし、それをあたかも日本人のみが持つ美徳であるかのように喧伝して、「日本に来たらもてなしを受けられますからどうぞ来てください」などと前もって売り込むのはいささか品がない。
 先年、オリンピックを東京へ招致しようというプレゼンテーションで、ある人気の女子アナウンサーが日本人のもてなしの心をくどくどと述べ、さらに日本へ来た人への約束として「お・も・て・な・し」と繰り返したのには心底辟易した。
 もてなしというのは客への誠意から自然に行う行為であって、あらかじめそれを売りにするというのは事の本質を外れている。 接客を要とする業種などで、「当店はお客様を笑顔でお迎えします」というような宣伝をし、かつ店内に従業員用の規範と称して「笑顔は足りていますか」などと張り出している例がある。 つまりその店では接客中に客への親しみから自然に笑顔が出るのではなく、あらかじめ客に約束した決まりとして笑顔を作っているのだということになる。
 私はそのアナウンサーの得意然としたプレゼンテーションに対する嫌悪感から、もてなしという言葉そのものに不純感を抱くようになってしまった。
 東廻廊の終わりに拝殿があり、その奥に本殿がある。
 祭神はイチキシマヒメノミコト、タゴリヒメノミコト、タギツヒメノミコトという3柱の女神だそうだが、寡聞にしてどの神も知らない。 女神というからには社殿の千木の切り口が水平になっている筈だと思って改めて屋根を見る。 千木も鰹木もない。 神社なのにどうしてそれがないのか、これまた不勉強のそしりを免れないが、私には分からない。
 国宝平舞台に出る。 海上に巨大な簀子を広げたようなもので、なんとも贅沢な空間である。 いつ行っても記念写真を撮る団体で賑わっている所だが、この日はなんと工事中。 無粋な囲いが巡らされている。 2か月半に亘る工事で、終了は明後日というから、運が悪いというべきか。
 もっとも、そのおかげでこれまでただ歩くだけで目に止まらなかったものにも目が届き、それはそれで良かったと言えなくもない。
 たとえば筏組みの床板である。 波や高潮に襲われたとき、海水が板の隙間から上に抜けて床板への圧力が軽減されるという工夫。 また狛犬についても、ここのものは尻尾が炎のように分かれているのが特徴であるが、それをじっくり見たのは今回が初めてで、これまた工事用の囲いで普段見栄えのするものが覆われていたおかげだと思う。
 東廻廊との相似形で、西廻廊がある。
 東廻廊は85m、西廻廊は109m、合せて194mということになるが、「廻廊の総延長275m」とか262mという説明もよく聞く。 
 廻廊は所々に摂社や舞台に渡る枝廊があるから、それらを合せてのことだと思う。
 西廻廊に出ると、その山側に素木の建物「天神社」がある。 菅原道真を祀った、つまり天満宮で、厳島神社の摂社の一つである。
 天満宮といえば学問の神様で、受験生たちが我も我もと押しかけて合格祈願をする所であるから、そこへの渡り廊下にはびっしりと絵馬がかかっている。 受験生はこんな所に来て絵馬なんか書いている暇があったら家で歴史年代の一つでも暗記した方が合格に近づくと思うのだが。
 そう思った親が子供を家に残して代りに来たと思える絵馬があった。 切なる親心。まあ、それも効果はないと思うが。
 その天神社のそばに鏡の池がある。
 湧水があるので、干潮でもそこだけ水が溜まっており、細い溝で海に続いている。
 まったく同じものが東廻廊にもあるので、なんだか人工的な感じがするが、どうなのだろう?
 前方に見える反り橋は勅使が渡った橋だそうで、反りが大き過ぎて渡れないため、実際に使うときは橋の上に勾配の緩やかな階段をつけたのだとか。 この程度の反りで渡れないとは・・・、貴族というものはなんと軟弱な人種なのであろうか。
 全体にシンメトリックな厳島神社社殿の中で、なんだかいびつな屋根の建物。 朱を施していない点でも逆に目立つ存在の能舞台。
 古そうに見えるが、実は江戸時代初期に建てられ、その後2回再建されている(2回目は平成6年!)ということであるから、まだ築12年というピッカピカの建物である。
 この能舞台のそばが厳島神社の出口。 これで参拝は終わり。
 それにしても、厳島神社はやっぱり満潮のときがいいと思う。 私は今回を合せて6回か7回来ているが、そのうち満潮は1回だけ。 「海に浮かぶ」社殿の美しさは格別であったが。

 さて、神社から出ると正面に大願寺がある。 空海によって開かれた寺だそうで、当然高野山真言宗ということになる。
 神仏習合の時代には厳島神社と一体になっていたようだが、明治の廃仏棄釈で神社と分離されたということ。
 インターネットのクチコミを見ると、寺人の高圧的な対応に不愉快な思いをしたという人が多いようだが、確かに愛想がない。 何が面白くないのか知らないが、参拝客には目もくれず、仏頂面で掃除などしている。 多くの観光客が厳島神社参詣のついでに覗いていくという現実はあるだろうし、いちいちそんな客の相手はしていられないという気分なのかも知れぬ。
 形ばかりのお参りのあと御朱印を求める客も多いことだろう。 なにしろ最近はご朱印集めが一種のブームになっていて、いわばスタンプラリーのようなノリで来る者もいるに違いない。
 しかし、そういう軽い人たちに丁寧に接して仏教の魅力を教えるぐらいの度量があってもいいだろうし、それはまた仏に仕えるものとしての務めであろうに、とも思う。

 さて、今回の宮島では弥山に登ることを一つの目標にしていた。
 これまで何回も来ている宮島ではあるが、弥山には登ったことがない。 おそらくこれが最後の宮島であろうから、ここで登らなければもう機会はあるまい。
 標高は500m余りということで、それを登るのは少々しんどい。 まあ、無理をせず、ロープウエイで行くことにしよう。 紅葉谷という所を歩いてゆくと、ロープウエイ駅への案内標識がある。
 「ゆっくり歩いて8分、ときどき走って6分 8MIN, WALK (6 IF RUN A LITTLE !) TO ROPEWAY STN.」
 洒落た文言だ。 こういうユーモアが無機質な案内板を明るくしている。 大願寺の人たちにも見習ってほしいものである。
 紅葉谷駅から乗るのは循環式ロープウエー、つまりゴンドラがスキー場のリフトのようにぐるぐる回っているもの。
 乗車定員は8人だが、これはあとで知ったことで、私は乗るときに4人だと思っていた。
 係員は、客が夫婦やアベックだと、2人だけでドアを閉めてしまう。 粋な計らいというか余計なお節介というか。
 私は若い男性と乗ったが、そのあと客がいなかったので、ドアを閉められた。 無論、降りるまで会話はない。
 約10分で標高371mの榧谷駅に着く。 駅といっても出口はなく、乗客は全員ここで獅子岩駅行きに乗り換え、さらに上に向かう。 榧谷駅からは交走式ロープウエーになる。 並行して張られたワイヤがそれぞれ独立してゴンドラを前後させる方式で、ロープウエーというとこちらの方が一般的であろう。
 これは30人乗りだそうだが、ちょっと疑わしいほど小さい。 中ほどの人は景色がまったく見えず、着くころには汗の匂いと口臭で気絶してしまうに違いない。
 獅子岩駅からは徒歩。
 目指す頂上には大きな岩が見える。 弥山というと頂上の岩に腰かけて景色を眺めている写真が目に焼き付いているが、たぶんあの岩であろう。
 思えば私は、これまでの宮島行きはいつも背広に革靴で、とても山に登れる恰好ではなかった。
 今回はTシャツ・ジーパン・スニーカー。 頂上まではチョロイもんだろう。
 と思ったら、いきなり下り。 それも結構長い距離で。 自然石を階段状に置いてあるのだが、踏面も蹴上も不揃いなので、結構膝にくる。
 やがて現れた上り坂(殆どは石段だが)を、ヒマラヤにでも登るような歩調で登ってゆくと、弥山本堂に出る。
 獅子岩駅前の案内図ではここまで20分となっていたが、私は30分。 頂上まではチョロイと考えたのは甘かった。
 本堂前には地蔵様があり、周りに小さな地蔵がびっしりと並べられている。 「ねがい地蔵」「ごめんね地蔵」といい、自分の願いや懺悔の気持ちをこの小さな地蔵に託して奉納するのだそうな。
 この手の金儲けはあちこちの寺でやっているので珍しくもないし、地蔵を買ってまで懺悔しなければならないほど罪を意識しているわけではないから、まあ見るだけである。 強いて挙げれば子供のころに新聞配達の途中で神社の賽銭を盗んだことやカエルの皮を剥いで泳がせたことなどは、やらなければよかったと思っている。 いや、実はもっと深刻な、今となってはやり直しのきかないこともあるのだが、ここで地蔵を買ったぐらいでそれが消えるわけでもないから、そういうことは私が生きている限り後悔し続けるしかないのだろうと思う。
 で、また上を目指す。 先述の案内図では頂上まで10分となっている。
 路傍に文殊堂がある。 文殊といえば知恵を司る菩薩で、三人寄れば文殊の知恵という諺で広く知られている。 中学のときであったか、森鴎外の「寒山拾得」を読んだものの、何を言っているのかまったく分からず、ただ文殊という名を覚えただけのことであった。 付言すると、その後何度か読み返してはいるのだが、いまもって分からない。
 その文殊堂を過ぎると間もなく、くぐり岩に出る。 巨岩・奇岩の多い弥山の中でもひときわ目を引くのが、このくぐり岩である。
 決して不動ではなく、長年の間に少しずつずり落ちているそうであるから、最後の崩落が今日でないことを祈るしかない。
 そのくぐり岩の手前で一人の男性が休んでいた。 荷物をくくりつけた背負子を背負ったまま岩に寄りかかっていたが、私が息を整えている間に歩き出した。 ゆっくりゆっくり、人を寄せ付けない厳しい空気に包まれた姿で、強力であることは間違いない。 しかし、この上に山小屋や茶店があるとも思えないが。
 そしてほどなく、空が開けてきた。 目の前の石段を登れば頂上であろう。
 弥山本堂からは10分ということであったが、やはり15分以上かかっている。 意識的にゆっくり歩いていたとはいえ、後期高齢者というのはこういうものなのかと思う。 まあ、写真を撮りながら登ってきたせいだということにしよう。
 思ったとおりその上は頂上であった。
 なんということであろう。 弥山の頂上といえば巨岩が天然の展望台になっているとばかり思っていたのに、そこにはほかでも滅多に見ない立派な展望台が建っているではないか。 一瞬、観光地によくある土産物屋兼レストランかと思ってしまった。
 そんな所から景色を見る気はさらにないが、イメージにあった巨岩を探すために一応入ってみた。 興覚めという以外にないが、見れば前方に登ってくれと言わんばかりの岩が。
 あれだよ、あれ! 急いで人工の展望台を降りる。
 今見た巨岩の方向に見当をつけて、これまた巨大な岩の間を抜ける。 岩の下に「宮島 弥山頂上 五三五米」の文字が。
 目指す岩は、確かにあった。 だが、なんと、岩の手前には無粋な鉄線が張られているではないか。 その気になれば越えられないものではないが、さっきの展望台から監視員が見ているかも知れず、切歯扼腕の思いで立ち尽くす。
 鉄線のない岩を求めて別の道を辿る。 そして見つけた写真の岩。 中央の岩に跳び移るのは無理としても、左の岩場なら天然の展望台として十分であろう。
 それなのに、近づいてみると、あろうことかそこにも鉄線が。 ご丁寧に「立入禁止」の札までついている。 いったいいつから岩に乗れなくなったのであろうか。
 弥山に登った目的の99・9%は巨岩に腰かけて景色を見ることであったから、この徒労感は筆舌に尽くしがたい。
 未練がましく鉄線越しに岩を眺めること数分、まあ、落ちなくて良かったと無理な理屈を自分に言い聞かせて頂上をあとにする。

 弥山本堂まで戻ってくる。 その本堂に向き合う形で霊火堂がある。
 空海が焚いた護摩の火を1200年も守り続けているということで、その火は広島平和公園の「平和の灯」の元火にもなっているそうだ。
 中に入ると、いろりがあって火が燃えている。 これこそ1200年守られてきた「消えずの霊火」で、大きな釜がかかっている。 この釜の湯は万病に効くということで、ふーんと思っただけだが、隣りにいたご婦人がわざわざ蓋を開けて勧めてくれたので、ありがたく頂戴する。
 ところでこの霊火堂、平成17年に全勝して、再建されたのが今の建物だとのこと。 火事の火を何かに移して守ったのだろうか?
 ここからは獅子岩駅まで戻ってロープウエイで下る方法もあるのだが、かねて大聖院コースをゆっくり徒歩で下るのがお薦めというような記事を読んでいたので、霊火堂から歩き始めた。
 それが、なんということであろう。 それまで晴れていたのにポツリポツリと雨が。
 思えば今回の旅行、いつも肝心なところで雨が降った。 傘は車の中である。
 しかし、もう一度来るとは思えない弥山であるから、ここで妥協したくはない。 思えば私の人生は妥協と諦めの連続。 ここでの妥協はずっと後悔することになるだろうと、いささか大袈裟に考えた私は、ままよとばかりに歩き出した。
 雨はどんどん激しくなり、カメラをバッグにしまい、携帯電話で写真を取りながら下ったが、ついつい急ぎ足になり、膝が痛くなってきた。
 途中、何組かの西洋人が登ってくるのとすれ違った。 下りでも難儀な山道を地理不案内な外国人がビニールの雨合羽を着て黙々と登ってくるその姿には畏敬の念さえ抱いたが、そう思って見ると東洋系の人にはまったく遭わなかった。 あの騒々しい中国人が、ロープウエイで簡単に行ける高さより上には一人もいなかったことを思ってみても、やっぱりなという気がしてくる。
 霊火堂から70分、ようやく大聖院コースを下りきる。 下から見ればここが登山口という訳で、神の山らしく鳥居が建っている。 その鳥居の形が四脚で、厳島神社の大鳥居と同じということに興味を持つ。
 ここで、あれほど降っていた雨がピタリと止む。 いったいどういうことなのだろう?
 今さら止んでも・・・。 鏡を見るまでもなく、我ながら情けない濡れねずみだ。 雨に濡れると、白髪が頭に張り付いて地肌が透け、それはそれはみすぼらしい姿になるということが経験で分かっている。
 ほとんどが石段の下りで、時々滑ったりしたもので、左膝が危険レベルの痛みを訴えているのも辛いことだ。
 石鳥居前から小さな橋を渡ると、大聖院仁王門に出る。
 ここも初めてで、島に渡るフェリーの桟橋で待っているときに何気なく取ったリーフレットに載っていたので、まあ行ってみるかという程度のノリであった。
 というわけで観光気分の参拝ではあったが、仁王像の前で思わず足が止まる。
 仁王の握り拳の力強さもさることながら、その木目の美しさには言葉もない。 これだけ指の方向に目の揃った材は、そのつもりで選りすぐったものだろうか? 完成当初は彩色してあったのだろうから、木目は隠れていた筈で、それでも目を揃えることに意を用いたものか、偶然にしては美しすぎて、考え込んでしまった。
 仁王門から御成門までは、まっすぐに延びた石段がある。
 勾配は緩く、登るのは楽だと思うが、ちょうど人力車の車夫が客に左の脇道から登った方が見るものがあると教えていたので、それに従う。
 なるほど、曲がった小路に五百羅漢がひしめいている。 四国の雲辺寺のそれと違って小さいので迫力には欠けるが、どれも表情が豊かで、ほのぼのとした雰囲気がある。 それぞれの像には毛糸で編んだ帽子が被せられている。 揃っているところを見ると、寺で用意したものか? それとも信者の仲間たちが共同で編んだものであろうか?
 御成門をくぐると正面に勅願堂があって、中に波切不動明王が祀られている。 豊臣秀吉が朝鮮出兵での必勝を祈願したのがこのお不動様ということで、そのことが大聖院の売りらしいのだが、朝鮮出兵は負け戦だったのだから、このお不動様には戦勝の御利益がないということになるのではないだろうか? また千体不動というのもあり、本尊を囲むように小さな木彫りの不動明王像がびっしりと並んでいる。 3万円を納めると、このうちの1体を奉納したことになるようだが、とくに戦って勝ちたい相手もいないので、見るだけにしておく。
 観音堂には、その名のとおり十一面観世音菩薩が祀られているのだが、その他にもチベット密教の砂曼荼羅だの金色の弥勒菩薩像だの、ダルマ、狸、撫で仏、果ては戒壇巡りの地下空間まであって、さながらこのお堂そのものが曼荼羅のようだ。
 その観音堂の縁側にはまた、なんとも場違いな聖ミカエルの像が建っている。「モンサンミシェル友好五周年記念」の文字があり、なんでもフランスのモンサンミシェルとここ廿日市市が観光友好都市なのだということだが、ちょっと腑に落ちない。 モンサンミシェルという市はないと思うが、「友好都市」という以上、廿日市市という「都市」の相手となる「都市」がなくてはおかしいのではないか。 モンサンミシェル修道院は誰もが知るところであるが、廿日市市が特定の修道院と友好「都市」という関係を結ぶというのも変な話であるから、廿日市市役所に問い合わせてみた。
 しばらくして返事が来たが、モンサンミシェルというコミュニティと結んだという、なんとも曖昧な内容であった。 
 大聖院という宗教施設とモンサンミシェルという宗教施設が友好関係を結ぶというならともかく、市と実体不明なコミュニティが友好都市というのはいかにもおかしい。 さらに調べてみると、モンサンミシェル修道院のある地方を漠然とさす概念があることはあるらしいが、その場合は「ル・モンサンミシェル」と言うのだそうで、それとても対外的に条約や契約を結ぶ主体ではない。
 どうもこの大聖院というのは、なんでもありのタイガーバームガーデンのような所だと思ってしまったのは、こちらの認識不足だろうか。
 そんなことを思いながら、最初に見上げた仁王門から御成門までの石段を下る。
 その石段を上り下りに分けるように設置された手摺り。 そこには真鍮でできた摩尼車がずらっと並んでいる。 またか! これはチベット仏教のものではないのか。 なんでそれが日本の真言宗のお寺にあるのか。
 とにかくこの大聖院、いろんなものがゴチャゴチャと置かれていて、石造りのウルトラマンまであって、統一感がまるでなく、逆に有難みが薄れてしまう。
 最後は豊国神社に行った。
 前に一度来て、そのシンプルさに感動した覚えがあったので、大聖院で味わった雑多な気分を洗い流そうかという程度の軽い気持ちからではあったが。
 まずは本殿である千畳閣の縁の下を歩いてみる。
 大人がゆうゆうと通れる高さに張られた大引きと、その太さに見とれてしまう。
 そのあと100円を払って千畳閣に上がる。
 まず回り縁に出る。 なんにもないという贅沢な空間で、こういう所にいると、旅をしているという充実感に浸れる。 その床板が二枚重ねになっているのは、風雨に晒される縁側のこととて年月を重ねるうちに傷んでくる床板を保護する意味であとから上張りされたものだとのこと。
 それにしても、その板の厚いこと。 ホームセンターで手に入るようなしろものではない。
 そこから千畳閣の内部に踏み込む。 内部といっても壁も雨戸もないのだから、中とか外とかは言いずらいのだが。
 どうしてこんな吹きさらしの建物を造ったのであろうと思うところだが、実はこの建物は未完成で、本当はちゃんと壁も作る予定だったのだということである。
 言われてみれば、なるほど天井もない。 いったいなぜ未完成なのかというと、施主の豊臣秀吉が死んでしまったので、工事が中断したままになっているのだそうな。
 秀吉の思い入れは誰にも分かっていたであろうに、死んだらさっさと中断してしまったというのだから、権力者というのは空しいものだと思ってしまう。
 秀吉がこれを建てたのは、月毎の法要の場としての目的だったので、本来は仏教の施設だった筈であるが、明治の神仏分離令で「豊国神社」になったのだという。
 いつ、誰が奉納したものか分からぬが、大きな絵馬が何枚もかかっている。

 厳島神社・弥山・豊国神社と、やや盛り沢山な観光を終え、フェリー乗り場に向かう。
 もみじ饅頭、焼き牡蠣、杓子せんべい等々、これぞ宮島という商品が並んでいるが、土産を渡す妻がいないのでは買う気にもならぬ。
 フェリー乗り場で、帰りの乗船券がないので慌てた。 ズボンのポケットを裏返してみると、沁み込んだ雨で原形をとどめなくなった券が見つかったが、とてもこれが乗船券だと主張できる状態ではないので、仕方なく買い直した。 180円の損失であった。
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