広島~加古川歩き旅(1)        1965.8.1~8.13 (12泊13日)


駅という名の旅人宿、神社という名の隠れ宿


 大学最後の夏休み、広島から東京まで歩こうかと思った。
 1年のときに東北一周ヒッチハイクに出かけて挫折し、2年のときに日本列島を徒歩で横断しようと企てたが、諏訪湖までしか歩けなかった。
 3年のときには東海道五十三次を歩くと言って家を出て、浜松の手前から汽車に乗って帰ってしまった。
 一度として初心を貫徹したことがなく、心中忸怩たるものがあり、さればと出かけたのが広島である。
 そしてこの旅も、計画のおよそ3分の1、数字にして270キロを少し過ぎたあたりで挫折した。

 広島へは8月の2日に着いた。

 前日、夜行列車で東京を出た。前年に東海道新幹線が開通していたが高くて乗れず、寝台も私の財布ではためらわれた。
 姫路行き普通急行の自由席。夜中に腰や背中が痛くなる。席を人に譲って床で寝たが、この方が楽だ。他にも床で寝ている人が何人もいて、とくに恥ずかしいということもなかった。
 朝がた姫路に着き、ホームでうどんを食べる。透明で薄味のつゆというのは初めてだったが、こんなに美味いものがあるのかと感激した。
 広島の平和公園に着き、なにはともあれ平和記念資料館を見学。入館料は20円だったが、今でも50円だから、物価の変動率からいうと高かったということになる。
 衝撃的であった。被害の状況が生々しく展示されていて、直視するのが被害者に申し訳ないような気持にもなる。

 この資料館にはその後も何度か行っているが、展示がだんだん抽象的になってきている。被害者の姿を晒すことがよしとされなくなってきたのか、それとも別の理由によるものか判らないが、世の中すべてがオブラートだらけになっている昨今の世相と関係しているようにも思われ、残念である。
 元安橋を渡って原爆ドームへ。今では世界遺産になっているが、当時は保存するか取り壊すかで揉めていたときであり、ドーム前では保存派の署名集めが行われていた。もちろんためらうことなく署名した。翌年、保存が決定したという報道に接する。
 公園に戻り、原爆の子の像、平和の鐘、平和の観音像など見て回る。一つひとつも胸に迫るが、公園全体が平和への祈りという一点でコーディネイトされていることに感銘を受けた。
 広島二中原爆慰霊碑の近く、立ち木の間にテントを張る。
 そのときになって、蚊取り線香を忘れたことに気づいた。野宿の旅の必携品であり、いつも持ち歩いているのに、どうしたことか。
 もう辺りは暗いし、これから雑貨屋を探して歩くのもしんどい。まあ、一晩だからと思って寝たが、これが大間違いで、広島の蚊はあなどりがたい。
 テントのファスナーを閉めるとたちまち汗まみれになる。開けると蚊が襲ってくる。プーンという羽音に気を取られていると、それとは違う方角の腕などにチクリとくる。もう手遅れで、叩き潰した辺りがヌルッとするほど血がついている。
 刺されてから潰しても意味はない。そう思って覚悟を決め、チクッときた手の甲を懐中電灯で照らして見た。憎々しい斑模様の蚊が尻を立てるように止まっている。反射的に懐中電灯を持ったまま蚊を叩いたが、金属をぶつけた痛みが加わっただけで、痒さはひととおりではない。
 あのシュバイツアー博士は蚊に刺されると、その腕をそっと窓から差し出し、フッと吹いて蚊を逃がしたそうだが、優しいというより、どうかしている。
 刺されたところに爪を立てたりして一時的に痒さをしのいでも、それは本当に一時的なことであり、結局一晩中、寝ては覚め、覚めては寝てという繰り返しだったような気がする。

  翌8月3日は、まず原爆死没者慰霊碑に詣で、通りかかった人に写真を取ってもらう。リュックを担いだ私の姿に、どこまで行くのかと、ごく自然な質問。
「東京まで歩いて行きます」
 これまでいつも途中でダメになっている自分に言い聞かせるように答える。
 さあ、東京目指して出発だ。
 10分ほどで国道2号線に出る。2号線は大阪まで続いている筈で、私も基本的にはこの道を辿るつもりであった。頭上の標識に「福山 105km」とある。

 国道、それも1号線とか2号線とか、いわゆる一桁国道というのは、歩いていてあまり面白くない。トラックが多くて空気も良くない。ヒッチハイクをするときには救世主のように見えるトラックが、歩いていると憎たらしく見えるから、勝手なものだ。
 2時間ほど歩いたところで、道が瀬野川に沿うことになった。河原に降りて裸になり、タオルを濡らして体を拭く。人の頭ほどの石がゴロゴロしている河原で、坐る場所もないのでリュックに腰掛けて、途中で買ってきたパンを食べる。
 国道を歩いているというのは目立つらしく、ときどき「頑張れよ」というような声をかけられる。自転車旅行らしい人からもファイト!と言われた。
 そのあと道は山陽本線に沿って続き、4時過ぎ、八本松駅前に出る。駅舎で休みながら地図を確認すると、いつの間にか国道2号線を離れていたことが判る。2号線は少し手前で右直角に曲がっていたのだ。
 今いる所は国道486号線上で、これはしばらく山陽本線に沿って続く。
 もうかなり歩いて疲れてもいたし、どこかの駅で寝るのも悪くない。駅というのは屋根があってベンチがあって、寝るには都合が良い。これまでにも何度か寝ている。
 というわけで、そのまま進むことにした。ところが次の駅までは思いのほか距離があり、2時間近く歩いてようやく西条駅に着く。
 お約束のベンチもあって条件は整っているが、まだ人も多く、そのまま寝るわけにもいかないので、駅前の食堂で親子丼を食べ、近くに銭湯はないかと訊いてみる。
 歩いて15分ほどの所にあるというので行くことにする。15分よりかなりかかったが気持の良い銭湯があり、今日1日の汗を流す。なにせ今日は35キロぐらい歩いている。明らかにオーバーペースだ。
 気持が昂ぶって歩き過ぎたようで、こんなペースを続けていたら数日でダウンしてしまう。明日からは30キロ以下に抑えよう。
 風呂上がりにコーヒー牛乳を飲みながら地図上で計画を練る。とりあえず明日は概ね本郷駅まで、できればその少し手前で寝ることにしよう。
 銭湯を出ると、もう真っ暗になっていた。
 駅にはまだ駅員がいて、乗客らしい人も2、3人いたような気がするが、ベンチは空いていたので、そのまま寝る。咎める人はいない。
 今日は途中で蚊取線香を買ってあったが、さすがにまだ人のいる駅舎内ではためらわれたから、それを出すことはしなかった。幸い気になるほどのこともなかった。
 ところで、今これを書きながら思ったのだが、昔の駅のベンチは数人が並んで坐れる横長のものだった。壁際にも真っ平らな木製の腰掛けがついていて、これまた横になるにはすこぶる都合が良かった。
 最近はどこの駅でも1人用の椅子が横に繋がった形になっていて、寝ることはできない。混んだときには「お膝送りを」などと言って互いに詰めて坐った時代は去り、1人1人が自分の領域として椅子を占有する時代になったのだろうか。


 4日目、歩き始めて2日目は、朝から雨だった。
 傘をさして出発。西条駅からまっすぐ行くと、20分ほどでまた国道2号線に出る。
 今回私は靴を履かず、サンダルで歩いていた。
 これまでの経験で、靴だと蒸れて不快であることからそうしたのだが、雨が降って、その選択が正しかったことを知る。靴が濡れたときの歩きにくさは堪らないが、素足にサンダルではどんなに濡れようと、一向に気にならない。
 思いがけず、トラックが止まってくれた。濡れるだろう、乗っていけよ、と声をかけられる。
 私はまだ意気軒昂で、雨もまったく苦にならなかった。せっかくの好意を袖にするのは一瞬ためらわれたが、最敬礼をして礼を述べ、訳を話して乗車を遠慮した。
 この日は雨が降り続き、道も景色も単調で、ただ歩くだけの一日であった。

 こんな雨の中でも、自転車旅行の何人かと出会った。ビニールの合羽を着て、黙々と走っている。
 食事をどうしたのか、覚えていない。旅行中、昼食は食堂で定食を食べるか、道端でパンを食べるかを続けていたが、この日はそのどちらも記憶にないし、メモ帳にも書かれていない。
 午後の早い時間だったと思うが、荘野小学校という所があり、雨宿りをさせてもらう。教室で濡れたシャツとズボンを履き換え、横になっているうちに、ついウトウトした。慌てて飛び起きたが、時計を見れば30分も寝てはいなかった。
 職員室に行って礼を述べたが、先生は殆ど私に関心を示さず、言葉は忘れたが、今で言うなら「ああ、どうも」という程度のことしか言わなかったように思う。

 三原市に入ってしばらくした所で、国道の左側に無人の神社を見つけた。
 まだ3時過ぎで、泊るには早過ぎるが、雨でもあり、どこかでテントを張るのも億劫なので、今日はここで寝ることにする。神社は駅舎と並んで私のお気に入りの宿である。

 社殿とは別に、何のための建物か判らない小さな小屋のようなものがあった。小屋といっても使っている木材は太くてしっかりしたもので、単なる作業小屋ではなさそうだ。掃除も行き届いていて、床は黒光りがしている。ただ、扉などはなく、中は丸見えだ。
 それはそれで都合が良い。なまじ戸があって閉まっていると、何かの用があって入ってきた人が、床に転がっている私を見て腰を抜かすだろう。
 開いていれば、前に立ったときに中で寝ている人間に気がつくし、落ち着いて見ればリュックもあって、無銭旅行者が寝ているのだということはすぐ判る。大騒ぎにならずに済む。
 無人駅で寝るときもそうで、駅は無人といえども一晩中電気がついているし、ホームの待合室には戸もないから、遠くからでも寝ている者の姿が見える。私が専ら駅や神社で寝ている所以である。
 神社の唯一の欠点は蚊が多いことだが、今日は蚊取り線香を持っている。濡れた衣類を適当に広げ、横になる。

 時間が時間だけに眠れるわけもなく、しばらくそうしていたが、起き出して地図を広げる。正確な現在地は判らないが、今日1日で20キロも歩いていないらしい。
 夕食をどうしたのか。これがまた記憶にない。

 朝には雨もすっかり上がっていた。歩き始めて3日目、8月5日。木曜日。
 どういうわけか、メモ帳のこの日のページにアブラゼミの羽が1枚挟んである。朝起きたときに蝉が鳴いていたのか、神社の木に止まっているのを捕まえたのか、まったく記憶にない。
 衣類が乾いていないこともあって9時過ぎまでぐずぐずしていたが、乾くのを待っているわけにもゆかぬので、濡れたままビニール袋に入れ、リュックに詰め込んで出発することにする。
 出発に先立って、セルフタイマーで写真を撮る。
 あとで見ると、広島で撮った写真に比べてかなり痩せているように写っている。まだ2日歩いただけで、そんなに痩せる筈もないから、たまたまカメラの角度でそうなったのだろうが、その数日後に撮った写真はもっと痩せている。
 ちゃんとした食事をとらずに重いリュックを背負って長距離を歩いていたので、本当に痩せたのかも知れない。

 国道2号線は本郷駅を過ぎた辺りからしばらく沼田川に沿って続く。川であれ海であれ、水を見ながら歩くのは気持の良いものだ。
 そんなとき、前から来た青年に声をかけられた。声をかけられたというのは正確ではなく、行く手を遮られたという方がいいかも知れない。リュックを背負っている。
 青年は聾唖であるらしかった。手話を使っていたが、当時は今のように手話が社会的に広まっておらず、もちろん私も皆目判読できない。青年も私が手話を読めると思っていたわけではなく、殆ど無意識に手が動いていたのだと思う。
 首から下げた地図を指し示しながら、自分は岡山市から広島まで徒歩旅行をしている、君はどこからどこまで歩いているのか、と訊いているようだった。
 私も地図を使って広島から東京まで歩いて行くのだと答えた。青年はおおいに驚いた表情で、拳を振り、どうやら頑張れと言っているようだった。
 驚いたのはこっちの方だ。
 耳が聞こえなければ後ろから車が近づいてくることが判らない。危険度は私の比ではなかろう。旅館に泊るにしても意思の伝達は容易ではない。その他さまざまな困難を考えたら、私の旅などは距離の長さを加えたとしても青年よりは遥かに楽なものだ。
 私は青年と別れたあと、自分が東京まで行けなかったらどういう言い訳も通用しないと思った。

 昼をかなり過ぎて三原駅に着き、駅前の食堂でカレーライスを食べる。そのころの大衆食堂ではカレーライスというと、スプーンが水を入れたガラスのコップに突き挿されて出てきたものだが、それは全国的なやり方だったのか、ここでも同じだった。
 頭上に白黒テレビがあり、何をやっていたのかは覚えていないが、かなり長いこと、それを見ながらゆっくりカレーを食べた。
 糸崎町あたりから国道は波打ち際を走るようになる。所々、国道に接して小さな岩礁があり、覗いてみるとウミウシが大儀そうに体をくねらせている。
 なんでウミウシなんかを覚えているのかというと、私はウミウシというものを衣笠の山田君という傑物から教えられたばかりであり、このとき初めて自分で見つけたからである。
 学生時代、毎年三浦半島でキャンプをしていた。そのとき、友人の友人である山田君が参加したのだが、なんと長靴を履いており、どういうわけか海軍旗を持ってきてテントの脇に立てた。夕食のおかずにと、磯でタコを捕まえたり、土手でノビルを採ってきて酢味噌あえにしたりと、サバイバル技術に長けた男で、さらに驚いたことに、浜の番小屋に忍び込んで薪をごっそり盗んだ。私も1束を背負わされたが、その重いことといったら、肩の骨が外れるのではないかと思ったくらいだ。キャプファイヤーのときに彼が見せる卑猥な芸は玄人はだしで、私は砂の上を転げ回って笑った。
 その山田君がウミウシを見つけて、その生態などについて教えてくれた。だから糸崎町の磯でウミウシを見つけたときには感激して、しばらく棒でつついたりして遊んだものである。
 しばらくすると、そんな岩礁に無理やり載せたような小屋があり、ペンキで大きく「湯」の文字が。
 訊いてみると、海水を沸かして銭湯にしているのだという。珍しいし、かなり汗もかいていたので入っていくことにする。
 湯舟は1坪ほどだろうか。洗い場も3、4人でいっぱいになってしまう。先客は1人しかおらず、のんびりと浸かることができる。大きく開いた窓にはガラスなどなく、ときどき波しぶきが入ってくるが、それがまた、えもいわれず心地よい。湯を舐めてみると、なるほどしょっぱい。

 国道に接して学校があった。既に薄暗かったが、門に「広島県立尾道商業高等学校」の文字が見える。尾商(おのしょう)といえば野球の名門で、前年か前々年の選抜で活躍している。
 小学校、中学校にはよく泊めてもらったが、高校には母校以外泊ったことがない。校舎を回り込むとグラウンドがあり、無論誰もいない。校舎の1室だけ電気がついているのはおそらく職員室であろう。
 今晩はここで寝ることにする。テントを張るわけだから職員室に行って許可をとるべきだとは思ったが、もし断られたら、それから別の場所を探すのは難儀だ。
 校庭は完全にフェンスで囲まれているわけでもなく、校庭なのか隣接する空き地なのかはっきりしない場所があった。そこならもし怒られても言い逃れができると思ってテントを
張った。1人用のかまぼこ型テントなので、設営も簡単だし、なによりも遠くの職員室からは見えないであろうと思う。
 この日の歩行距離は概ね20キロぐらいだろうと推測する。

東北一人旅(3) 広島~加古川徒歩旅行(2)
     
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