東北一人旅(3) またしても簡単に挫折  1962.7.31~8.13 (13泊14日)


 かくして渋民村を堪能した私が次に目指したのは、小岩井牧場であった。
 中学のときに先生からその存在を教えられ、創始者3名の名字から1字ずつを取って「小岩井」と名付けたとの話に、いたく興味を持った。
 国道4号線を歩いていると、後ろから走ってきたタクシーが止まった。どこまで行くのかと訊かれたが、タクシーなどとんでもない。
 お金がないから乗れませんと答える。
 すると、戻り車だから金は要らない、但し助手席に乗ってくれ、とのこと。半信半疑で乗り込むと、また、どこまでかと訊かれる。小岩井牧場に行くところだと言うと、それは無理だが盛岡まで送ってやるということで、やっぱりお金は要らないと言う。
 後部座席に乗せると客ということになって、その場合は料金を取らざるを得ないが、助手席なら身内を仕事外で乗せているという方便がきくらしい。
 それにしても、なぜ乗せてくれたのだろう。私が手を挙げたわけではないし、車は後ろから来たのだから、目が合ったわけでもない。車中での会話でも、とくに私の旅に興味を持ったという感じもなかった。
 戻り車で盛岡駅まで帰るところらしかったが、駅よりは手前で降ろされた。やはり助手席から大きなリュックを抱えた私が降りるところをタクシー仲間たちに見られるのはまずいということなのかも知れない。
 そうまでして見知らぬ者を乗せてくれた理由が判らぬまま、私は盛岡市内を歩いて西に向かった。
 国道46号線に出て手を挙げると、すぐに小型のトラックが止まってくれた。リュックを荷台に乗せて助手席に乗り込む。15分かそこいらで小岩井牧場への分岐点に着いてしまったが、その間に年配の運転手は私にアンパン2個をくれた。
 この旅でお世話になった人については、たいてい名前と住所を聞いて、あとで礼状を出していたのだが、このときのおじさんについては、その記録がない。申し訳ないことをしてしまった。
 小岩井牧場は、とくに入口というようなものがあるわけでもなく、いつの間にか牧草地に入り込んでしまった。周りに牛や馬がいたが、それも思ったほどの数ではなく、ただやたらと広かったことだけが印象として残っている。
 最近の小岩井牧場は、一大観光施設として賑わっているようだが、その頃はまだ観光という意味では注目されていなかったのかも知れない。
 だから人の姿もほとんどなく、のどかという言葉をそのまま絵にしたような雰囲気であった。私も牧草地にあぐらをかいて、ゆっくりと、さっき貰ったアンパンを食べた。それがこの日の昼食だった。
 そのあと牧草に寝転がって昼寝。どのくらい寝ていたのか、はっきりとは覚えていないが、寒さで目が覚める。夏なのに、やっぱり東北だな、と思ったことを覚えている。
 
 46号線に戻って1時間ほど歩くと、左に雫石小学校というのがあった。木造の小さな校舎で、さして広くもない校庭に小さな砂場と低鉄棒がある、典型的な田舎の学校である。
 まだ辺りは明るかったが、この先どれだけ民家があるかも分からないので、今晩はここに泊めてもらおうと思い、玄関で、ごめんくださーいと大声を出す。
 出てきたのは、40代くらいかと思われる男の先生で、泊めてもらいたい旨を告げると、あっさり承知してくれた。
 教室で寝ると言ったのだが、宿直室に泊めてくれ、その上、夕飯まで食べさせてくれた。宿直室には米が常備してあり、宿直の先生は自由にそれを炊いて食べるようになっているらしかった。味噌汁も作ってくれ、どんなものだったか忘れたが、おかずもあった。
 この先生にはしばらく手紙を出していたが、もしかしたら学校に旅行者を泊めるということは服務規定に反することだったかも知れないので、ここにお名前を書くのはやめておく。
 先生は、詩吟をやっているからと、食後に一詩、吟じてくれた。詩吟は腹筋を使う、本当に力が入ったときにはパンツのゴムが切れる、ということであった。
 私が教員を目指していると言うと、教員としての心構えを熱く語ってくれた。その中で、生徒を怒るときは本気で怒らないと生徒に見抜かれてしまう、という話はその後ずっと、私の指針となっていた。
 これからどこへ行くのかと訊かれ、とりあえず日本海側に出たいと言うと、それなら線路の上を歩いてゆけばいいと言う。
 盛岡から秋田県の生保内までは大正時代以降、鉄道が部分開通や工事の中断、廃線を繰り返し、完全に繋がったことがない。第二次世界大戦末期には不要不急線としてレールが外され、他の路線に持っていかれたり、軍に供出されたりして、今は道床の砂利だけになっている。それを歩いて生保内まで行けるから、そこから汽車に乗って角館方面に行けばよい、ということであった。
 先生の話は何から何まで新鮮で、面白く、ためになった。雫石という地名すら知らなかった私であるが、この夜の先生との出会いは大きな財産となってその後の私を支えてくれた。
 数年後、私はこの雫石を舞台にした『雪犬ホー』という駄文を書いた。雫石小学校に通う少年と捨て犬の話で、勿論すべて作りごとであるが、それだけ雫石には思い出が深いということである。 
 その雫石上空で、全日空の旅客機と航空自衛隊の戦闘機が接触し、旅客機の乗員、乗客全員 162名が犠牲となったのは1971年のこと。事故の悲惨さと、自衛隊機の責任のみを一方的に断ずる報道とで日本中に衝撃と論争の渦を巻き起こしたこの事故は、「雫石」という、私にとって思い出深い地名と重なって、今も忘れることができない。

 翌日、朝御飯をご馳走になって、先生の作ってくれた握り飯の弁当を持って、言われたとおり線路の跡を辿る。なるほど砂利だけで、線路がない。
 太平洋戦争末期、武器弾薬の材料に事欠いた軍が国内のあらゆる鉄や銅を掻き集めた話は私も聞いてはいた。私の家でも箪笥の取っ手が外されて、代わりに紐が括りつけられていたのを目にしている。それにしても寺々の吊り鐘や、こういう線路までも使わなければならなかった脆弱な資源事情にありながら、それでも戦争を続けていたのかと、ため息が出る思いだ。
 戦争を直接知ってはいない私ではあったが、前夜の先生の話が改めて胸に迫る。
 その奇妙な道を2時間ほど歩いた辺りで、どういうわけか道を間違えた。どう考えても間違えようがないその道から、いつのまにやら外れ、さらに数時間歩いたあげく、山の中をさまようことになった。
 どうやら秋田駒ケ岳に続く小さな山の稜線を歩いているらしかったが、地図もなく、遠くに田沢湖らしい湖が見えたので、ともあれその方向に、クマザサを掻き分けながら進んだ。
 日の暮れるころ、やっと町に出たが、そこが生保内だった。くたくたに疲れていたこともあるが、それ以上に気分が落ち込んでおり、泊めてくれる家を探す気力も湧かぬまま、バス停のような掘立小屋の中で寝た。夕飯は食べなかった。
 
 翌日は、この旅で初めての雨だった。雨具を持っていなかったわけではないが、それを着て歩き出すという気にならず、ぐずぐずと時間を過ごしたあと、結局汽車に乗った。ヒッチハイクを再開してから6日目で、またしても挫折である。
 切符は柏崎まで買った。そこには大学の同級生の家がある。柏崎というだけで、住所も電話番号も知らないし、夏休みだからといって家にいるかどうかも分からない。それなのに訪ねてみようと思ったのはなぜか、自分でもよく判らない。
 柏崎駅前で、道を訊いた。
「明治大学に行っている植木功夫君という人の家を知りませんか」という聞き方しかできない。我ながら無茶な話であるが、誰がどう教えてくれたものか、少しずつ植木君の住む地域に近づいていった。
 途中の家で、この辺で植木さんという家を知りませんか、と訊いたところ、ウチは植木だが、この辺はみんな植木だ、という答えが返ってきた。それでもとうとう、友人の家が見つかり、しかも友人は帰省して在宅であった。
 急に訪ねたにも拘わらず大変なご馳走になり、4日ぶりで風呂にも入れた。布団を敷いてくれたので、寝袋も使わずぐっすり眠って、翌朝目を覚ますと、驚いたことに私の衣類がシャツからパンツに至るまで全部洗濯され、外に干されていた。
 今では信じられないが、真夏の旅行でもう10日以上歩き回っているというのに、ほとんど着替えということをしていなかった。多分、私があまりにも臭いので、植木君のお母さんが私のリュックを開けて、汗になったまま詰め込まれていた衣類を洗ってくれたのだろう。
 その日は植木君のシャツやズボンを借りて過ごしたが、背の低い私は、背の高い植木君のズボンをかなり捲り上げなければならず、シャツも袖を折って、どうにも着心地は良くなかった。
 もっとも、出かけることもなかったし、昼間からビールを飲んだり寝たりしていたので、それで困るということもなく、結局、その日も泊めてもらった。
 そして、翌8月13日、新潟経由の汽車で小岩に帰った。
 柏崎で十分鋭気を養った筈なのに、そこからまたヒッチハイクを続けることなく汽車に乗ってしまったのは何故なのか、どうにも思い出せない。
 多分、その当時はそれを正当化する言い訳を、自分にも言い聞かせ、人にも言っていたのだと思うが、実際には負け犬の惨めさから、忘れよう忘れようという心理も働いていたのではないかと思う。
 
 かくかくしかじかでこの「東北一周ヒッチハイク」は極めて中途半端な結果に終わったのだが、自宅に帰った私は、そこで大きなニュースを知った。
 堀江謙一という23歳の青年が、ヨットで太平洋を横断し、サンフランシスコに到達したというのである。ヨットは長さ2.8メートルという、公園の手漕ぎボートくらいの小さなもので、たった一人で93日を耐え抜いた末の快挙だという。
 たかが東北を回るのに、わずか4日で挫折し、再開してはまた挫折して、結局13日目に一番楽な汽車という手段で家に帰ってしまった私にとって、そのニュースはタイミングといい、壮大さといい、あまりにも痛烈であった。
 時の流れに助けられ、自責の念も薄らいではいるが、さりとて自慢にもならぬ、旅の思い出である。
 


東北一人旅(2) 広島~加古川歩き旅(1)
    5月末、更新予定 
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