東北一人旅(2) 石川啄木の生地を訪ねて   1962.7.31~8.13 (13泊14日)   


 5日目、早朝、三沢に着いた・・・と思う。
 実は、この5日目のことが殆ど思い出せないのである。
 私はこの旅で、結構まめに記録をとっていた。地名や時間は勿論のこと、見たり聞いたりしたことの感想なども書き留めている。出会った人との会話も直接話法で書いてあり、相手の名前も残っている。
 それが、この5・6日目、すなわち8月の4・5日については何の記録も残っていない。思うに、ヒッチハイクを早々と諦めて汽車に乗ってしまったことで、メモをとる気力まで失ってしまったのだろう。
 三沢まで切符は買ったのだし、夜行列車に乗ったのも確かであるから、早朝に三沢に着いたことは多分、間違いない。
 そしてその日は、三沢市内の谷地頭という所にある農場に泊った。これも確かで、そこには2泊した。
 ただ、三沢駅から20キロ近くはあるその牧場まで、どうやって行ったのかはまったく覚えていない。おそらく歩いて行ったのだと思う。途中、小川原湖で泳いだことは記録にあるし、湖畔で撮った写真もある。
 また、この牧場では馬に乗ったことを覚えている。と言ったって、ただ裸馬に跨っただけのことであるが。
 納屋の陰で馬が1頭だけ、草を食んでいた。辺りに人もいない。乗ってやろうかという気になった。
 裸馬というのは初めて乗ったが、鞍がないので尻が落ち着かないし、鐙がないので足に力が入らず、体が安定しない。無論手綱もなく、馬を制御する術がない。
 馬は私が乗ったことなどてんで意に介さぬようで、まったく動かない。ときどき足元の草を食べたりするが、そのときは目の前にあった馬の首から先がいきなりなくなるので、乗っている方はかなり怖い。
 しばらくそうして跨っていたが、やはり、動かない馬は面白くない。そっと腹を蹴ってみた。まったく動かない。
 普通、鞍つきの馬に乗ったときは、ほんの心持ち蹴るだけで馬は歩きだす。まあ、人を乗せるために調教されているのだから当然とも言えるが、それにしても、ここの馬は俺様が背中に乗っていることをどう思っているのか。
 少し強く蹴ってみた。さらに強く蹴ってみた。
 突然、馬が駈け出した。馬というのは動き出したときが一番揺れる。鞍つきであれば、鐙にかけた両足で馬の胴を締めているから体も安定しているし、揺れが大きければ鞍に摑まることもできる。
 それが裸馬では、体を支えるものが何もない。私はあっという間もなく振り落とされた。走った距離は数メートルだろうか。不思議と、痛くも何ともなく、ただ人に見られはしなかったかという思いだけで、私は周囲を見回した。

 この牧場で覚えているのは、それだけである。先述の通り、手帳にも何も書いていない。
 2泊してそこを辞し、青森方面に行く車をアテにしながら歩き始めた。郡山で簡単に汽車に乗ってしまったことに忸怩たる思いもあり、ここからは頑張ってヒッチハイクを再開しようと思っていた。手帳のメモも、にわかに細かくなっている。
 1台の車も捉まらぬまま、昼近くまで歩いた。
 やっと止まってくれた小型のトラック。運転していたのは白髪まじりの男性で、青森方面に行きたいと告げると、そんな方までは行かない、この先の家に帰るところだと言う。
 車を選べる状況ではないので乗せてもらうと、本当にすぐ着いてしまった。男性は私がまだ昼飯を食べていないことを知ると、ウチで食べていけと言ってくれた。内心期待していたことではあるが、私は大袈裟に驚きを表現し、好意に甘えた。
 男性はMさんといった。息子2人と共同で、数十頭の牛を飼っているらしかった。長男のお嫁さんも農作業を手伝っているとのこと。
 食べながらあれこれの話をしているうちに、宿はどうしているかということを訊かれた。
 泊めてくれる家があれば泊めてもらい、なければ野宿をすると言うと、それじゃあウチに泊っていくか、その代わり仕事を手伝ってもらうぞ、と言われた。
 今日はまだ10キロかそこいらしか移動していない。なんぼなんでも、と思ったが、仕事を手伝うのが嫌で断るように思われるのではないか、などと考えているうちに、「お願いします」と言ってしまった。
 仕事は牛舎の掃除であった。掃除と言っても、私のやったことは、Mさんたちが掻き集めた牛の糞を、一輪車で数十メートル離れた堆積場まで運ぶという作業だけだった。
 やってみると思いのほか重労働で、何往復もしないうちに全身汗びっしょりになってしまった。私の仕事量は期待を大きく裏切ったらしく、途中からMさんの次男がもう1台の一輪車で運び始めたが、私が2往復する間に3往復はしていたと思う。
 夕飯は家族と一緒であった。そのときになって初めてMさんのお母さんが同居していることを知った。元気な人で、私にも気さくに話しかけてくれたが、方言のせいで、内容は半分も判らなかった。お母さんがMさんやお嫁さんと話すときは、さらに方言がきつくなり、横で聞いていても、まったく判らなかった。
 誰もが私と話すときは比較的判り易い言葉を使ってくれたが、それによると、ときどき私のような無銭旅行者が来て泊っていくということであった。Mさんがいとも気安く私を泊めてくれた理由が分った。
 それでいながらMさんは、私がそこに泊ったことを人に言うなよ、と笑いながら言っていた。恩義を受けた人でありながら、お名前をMさんとしか記せないのは、そんな理由による。
 何を食べたかは覚えていないが、ビールと何かの酒が出た。私は未成年であったが、Mさんも家族も、誰一人としてそんなことに頓着する様子はなく、実は私も既に酒には親しんでいたので、ビールをしこたま飲んだ。これもMさんの実名を書けない理由であるが、社会全体が大雑把な時代のことであり、もう時効ではないかという気がしないでもない。
 食後、一人で外に出て、草むらに寝転んだ。空全体が明るく感じられるほどの星空で、中学生のときに天体観測に夢中になった私ではあるが、これほどの星というのは見たことがなかった。星との距離感がなく、文字通り、手を伸ばせば届きそうな錯覚を覚えた。流れ星も次々と現れ、天の川に突き刺さるようなものもあった。

 翌朝、別れを告げると、奥さんがいつの間に作ってくれたのか、弁当を持たせてくれ、さらに千円をくれた。仕事を手伝ったアルバイト料だという。手伝ったどころか、足手まどいになっただけなのに。
 このMさん家族にはその後もしばらくは手紙を出していた。それがいつしか年賀状だけになり、それすら出さなくなってからもう20年にもなるだろうか。おそらくもうMさんも亡くなっているであろう。自分の不義理を申し訳なく思う。
 しばらく歩いてから、ヒッチハイクを再開した。
 今度は「青森」と書いた紙を用意してある。両手で胸の前に紙を広げ、車が通るたびに、それを心持ち前に突き出す。
 しかし、まったく反応がなかった。
 私の経験則によれば、ヒッチハイクで止まってくれる確率は、乗用車よりもトラックの方が格段に高い。だがこのときは、郡山の集荷場で叱られたことが頭にあり、ドラックが来ると折角の紙を下向きにしてしまう自分がいた。
 1時間以上もそうしていただろうか。とうとう紙をしまった。もう、どこでもいいから乗せてくれる車があれば乗ろうという気分で、例の両手を頭上で振る作戦に変えた。そしてしばらくすると、乗用車が止まってくれた。
 どこまで? と訊かれ、「青森に行きたいんですけど」と言うと、青森には行かないと言って走り去ってしまった。
 次に止まってくれたのも乗用車で、私は行く先を訊かれる前に、その車がどこへ行くかを訊いた。「十和田」という返事だった。十和田と言えば十和田湖。おあつらえ向きではないか。
「ボクも十和田に行きたいんです。乗せてくれませんか」
 運転していたのは中年のおばさんで、助手席にはその人の旦那さんらしい無口な人が乗っていた。私は後部座席に乗せてもらい、首尾を喜んだ。
 ところが、走り出してからの会話で、十和田というのは青森とは全然方角が違うということが分った。しかも、車が行く十和田市というのは、十和田湖とはかなり離れているとのこと。漠然と、十和田湖と青森をすぐそばだと思っていたが、これだと青森へ行くにはかなり遠回りになるらしい。
 しかしまあ、乗ってしまったことだし、十和田湖には初めから行くつもりであったから、それはそれでいいとして、十和田市内まで乗せてもらった。
 街中では走っている車がどの方面を目指しているのか見当もつかないので、国道 102号線を2時間近く歩いて、街を外れた所で道端に立った。しばらくして車が止まったが、今度もまた乗用車だった。今日止まってくれたのはすべて乗用車だ。
 車内には、観光で来ているという若い夫婦とおとなしい小学生の男の子がいて、私が助手席に、奥さんと子供が後ろに乗った。確か岩手県のどことかから来たと言っていたが、忘れてしまった。
 なんとなく、家族の行楽の邪魔をしているようで居心地が悪かったし、奥入瀬渓谷は歩いて辿りたいと思ったので、渓谷の取り付きである石ケ戸で降ろしてもらった。
 奥入瀬渓谷は聞きしに勝る景勝で、岩に腰掛けて、M牧場の奥さんが作ってくれた弁当を食べた。ただ罰当たりなことに、その弁当の内容はまったく覚えていない。所々にある滝で写真を撮ったりしながら、3時間ほど歩いて、十和田湖畔に出た。
 1軒だけ土産物屋があり、2階が宿になっているという。素泊まりで 600円、食事つきで1,800円。辺りに食べ物を売っている店もないので、食事つきで泊めてもらうことにする。
 まだ明るかったので湖畔を散歩したあと、部屋で休んでいると、おかみさんが上がってきて、もう1人泊りたいという人が来たので、相部屋にしてくれないかと言う。別に不都合もないので承知すると、学生だという男性が入ってきた。
 名前は田口さんといった。学校も聞いたと思うのだが、覚えていない。磊落な人で、酒もかなり飲み、楽しい夕食になった。鉄道とバスを使って旅行をしているそうで、ここに来る前に南部の曲り家を見てきた、あれは絶対に見る価値があると力説した。明日は奥入瀬を私とは逆に石ケ戸まで歩くという。


 翌朝、8月7日。宿の自転車を借りて、もう一度石ケ戸まで行く。渓流沿いに未舗装の国道 102号線が走っているが、復路で田口さんと会ったほかには、人にも車にも出合った記憶がない。

 それが先年、45年ぶりに行ってみると、道路が舗装されていたのは当然だが、観光バスが頻繁に行き来し、団体客がぞろぞろと国道を歩いている。行楽の車が道から溢れて路肩に停まっているため、あちこちで渋滞を引き起こしており、昔日の風情はなかった。
 十和田湖から青森に向かって北上したいという思いもあったが、今回の旅で最大の目的であった石川啄木の故郷訪問が残っている。なにせ郡山から汽車に乗ってしまったので、盛岡は夜中に素通りしている。
 水戸で松本君と啄木について熱く語り合った手前もあり、次回に回すというわけにはいかない。青森を断念し、岩手を目指すことにした。それにはまた国道4号線に戻り、南へ向かわなければならない。
 それでなくても車が少なく、4号線方面に行く車が見つかるアテはまったくない。おかみさんに言われて、八戸行きのバスに乗ることにした。

 宿代の支払いについて記録がないところをみると、相部屋になったからといって 割引にはならなかったようだ。今では見ず知らずの人同士が相部屋になるということは考えられないが、時代がおおらかだったのだろう。
 バスには車掌が乗っていた。その頃では当り前のことで、たいてはバスガールと呼ばれる若い女性であり、車内で切符を売っていた。首から大きながまぐちを下げており、その中にお金が入っている。左手に冊子状に綴られた切符を持っており、右手にハサミを持って、切符の必要な場所にパンチを入れる。
 このときの車掌も若い女性であったが、観光バスでもないのに、道沿いの曲り家について説明を始めた。曲り家というと岩手県に多いように思うが、青森県にも散在するらしい。

 4号線に近いバス停で降ろしてもらい、南行きの車を待つ。
 幹線道路だけあってトラックが多く、止まってくれたのも長距離の大型トラックだった。 郡山の件以来、初めてのトラックで緊張したが、30代くらいの運転手は何の屈託もない様子で、私が渋民村に行きたいと言うと、「啄木か?」と言う。意外と言っては失礼だが、啄木について結構いろいろ知っている。
 今は渋民村というのはなくて玉山村になっている、それを「渋民」と言うのは啄木ファンである証拠だ、というようなことを言っていた。トラックは玉山村を通るので、そこで降ろしてやるとのこと。
 そのころ、北上夜曲という歌がたいへんに流行っており、それは啄木とは何の関係もないのだが、北上川というだけで、なにがなし旅情を誘う、時代の雰囲気があった。
 だから、啄木の

   やはらかに 柳あをめる 北上の
     岸辺目に見ゆ 泣けとごとくに

という歌は、当時の文学青年にとっては訳も判らず神聖なものであった。
 運転手もそのことを知っており、その歌の刻まれた歌碑まで数百メートルという所で降ろしてくれた。
 小高い丘に登り、その場所に行ってみると、高さ4、5メートルの自然石にまさしくその歌が刻まれた、美しい歌碑が建っていた。やはり人気の碑らしく、どこかのグループが拓本を取っている。あとで分かったことだが、この碑は啄木の歌碑としては全国で一番初めに建てられたものだそうだ。
 私も感慨ひとしおであったが、この時になって急激に腹が減ってきた。思えば十和田湖の宿を出て以来、何も食べていない。陽は既に傾きかけている。
 その足で宝徳寺を訪ねた。
 宝徳寺。僧侶だった啄木の父がこの寺に転任したため、啄木はここで幼少時を過ごしている。
 私は来意と、今晩宿坊に泊めてもらいたい旨を告げた。宿坊というものはないが、本堂でよかったら泊っていってもいい、但し食事は提供できない、という返事だった。いいも悪いもない。ほかに宿などないし、何よりも、啄木が育ったその寺に泊めてもらえるということは、松本君への自慢話にもなる。
 その夜は、本堂で啄木の歌集を読みながら寝た。今思うとキザなことだが、当時はそういうわざとらしいやり方に何の抵抗もなかった。若かったということであろう。

 朝、住職の奥さんらしい人に礼を言って、宿泊代はいくらになるのかと訊いた。決まった宿泊代というものはないので、気持だけ置いていってくれればいいということであった。
 50円置いたと手帳にあるが、どうしてそんな小額を置いたのか、我ながら呆れる。十和田の宿では素泊まりが 600円だったというのに。
 寺からすぐの所に旧渋民尋常小学校がある。訪ねたときには統合によって好摩小学校分校となっていたが、その翌年、廃校になったという話をあとで聞いた。
 
 渋民尋常小学校

 渋民尋常小学校は啄木が学んだ学校であり、のちにその啄木が代用教員として働いたこともある、啄木ファンとしては見逃せない所である。
 当時、啄木の成績表が保管してあったそうで、私の手帳にもそれを見せてもらったと書かれているが、実は記憶にない。ただ、当時としても珍しくなった木造校舎がそのまま残っているのに感激したことと、教室内の机や椅子があまりにも小さいので驚いたことが記憶にある。
 この校舎、今では移築保存され、入場料を取って公開しているということであるから、隔世の感を禁じえない。
 そのあと一軒の食堂を見つけて遅い朝食をとった。前日の朝以来、まる一日ぶりの食事である。何を食べたのかは記録にないが、焼き魚と何かであったような気がする。
 小一時間をかけて好摩駅近くの丘に登る。目当ての歌碑はすぐ見つかった。『一握の砂』にある
 
   霧深き 好摩の原の 停車場の
     朝の虫こそ すずろなりけれ

という歌が刻まれている。どっしりとした石碑も見ごたえがあるが、好摩の原の向こうに姫神山が聳えるその景観には、どんな野暮な人間でも詩情を感じるのではないかと思われた。 この姫神山は啄木の

   ふるさとの 山に向かひて 言うことなし
     ふるさとの山は ありがたきかな

という歌に詠まれた山だという。

 今思えば上滑りの見学だったことは否めないが、青臭い文学青年であった私としては、啄木ゆかりの地を自分の足で訪ね歩いたことは大変な体験であり、その後しばらくは、いっぱしの啄木研究者のような顔をしていた。
 忘れ難い、甘い思い出である。



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