広島~加古川歩き旅(2)         1965.8.1~8.13 (12泊13日)


歩くだけの旅に意味はあるのか


 徒歩4日目。夜が明けきらぬうちに起きてテントをたたみ、そそくさと出発。
 30分ほどで尾道駅に着く。便所で用を足し、洗顔を済ませ、地図を広げる。一昨日の西条駅からは約50キロ。してみると、昨日は思ったよりも歩いていたらしい。ちょうどいいペースだ。初日こそ疲れたが、そのあとは疲れを感じていない。
 今日も同じペースでと考えれば、先を急ぐこともない。
 それに、尾道といえば志賀直哉の『暗夜行路』の舞台である。高校時代に読み、全体としては判りにくい小説であったが、時任謙作という主人公の名がなぜか記憶に残っていた。鳥取の大山を「だいせん」と読むこともその小説で知った。
 駅の案内板に、志賀直哉の旧居があると書いてある。ここを通ったのも何かの縁であろうからちょっと寄ってみようかという気になり、手荷物預かり所にリュックを預けて歩き出す。
 まずは駅前でパンとコーラを買い、すぐ前にある港へ。対岸の向島を眺めながらパンをかじる。
 旧居は独立した建物ではなく、3軒長屋であった。志賀直哉が住んでいたのはその一番端で、まだ早朝であったためか、開いていない。外から覗くと6畳と3畳の質素な部屋が見えたが、それ以外には何もなかったように思う。それが却って「孤高の文豪」というようなイメージを彷彿とさせ、もう一度『暗夜行路』を読んでみようかなという気分にもなった。
 今から数年前にまた尾道に行く機会があり、千光寺という所に行ったが、そのあとになって、千光寺と志賀直哉旧宅は徒歩数分の距離であると知った。
 旧宅に行ったときには千光寺という寺の存在さえ知らなかった。尾道に行ったことがある、というのは、尾道を知っているということを意味しない。1度や2度行ったくらいでそこを知っているような口をきくのは慎むべきだろう。
 この日は一日中、山陽本線に沿って歩き続けた。国道2号線がそうなっていた。
 途中にはこれといって見るような所もなく、ただ単調な国道を歩くだけ。食堂でラーメンを食べたほかには何の記録もないし、誰かと話をしたような記憶もない。
 そうしてただ歩いているだけの旅にどんな意味があるのだろう、という疑問は最初からあった。
 2年のときに日本列島を徒歩で横断しようと歩いていたとき、名所旧跡を訪ねるでもなく、土地の名物を食べるでもなく、ただ横断するだけで何の価値があるのかと思い続けた。結局その旅は半分ぐらい歩いたところで挫折したのだが、今回も同じ思いはずっと付きまとっていた。
 「岡山県」という標識を過ぎてすぐ、その山陽本線が左に離れてゆき、そのあと海のような川のような所に出た。小さな砂浜がある。おそらくすぐ近くまで海が迫っているのだろうが、海そのものは見えなかった。
 ともあれ、その砂浜で寝ることにして、テントを張る。それが夜中に突然つぶれた。風で煽られ、ペグが抜けたらしい。起きて張り直すのも億劫で、そのままつぶれたテントの中で寝ていた。

 8月7日。歩き始めて5日目になる。足は不思議と疲れていなかったが、右足の裏にマメができていた。ガーゼを当て、包帯を巻く。歩くとちょっと痛かったが、すぐに慣れた。
 朝からやっている食堂があったので、定食を食べながら地図を確認。昨日は34、5キロ歩いたらしい。
 この日もただ歩くだけの一日だった。
 金光町という所を通り、金光教の本拠地だと知った。小学校のときに木更津市内に金光教の教会があり、そこの子供が同級生だったので、ああ、あの金光教の町かと思ったが、それ以上の興味は湧かず、無論見学もしなかった。
 前日同様、食事の記録も記憶もない。歩き始めた時間は5時50分と書いてあり、ずいぶん早く出発したなとは思うが、朝食はどうしたのか。昼食の記憶もない。
 午後2時ちょうどから高梁川という大きな川の河原に降りて休憩したことはメモにもあるし、記憶にもある。
 どうもよく覚えていることと、まったく覚えていないことの差が大きい。
 私は最近になって自分の記憶についてある仮説を抱くようになった。
 遥か昔のこと、たとえば今回の旅のようなことを思い返す場合、よく覚えていることと、まったく覚えていないことがあるということについてである。
 無論、とても楽しかったとか、変った出来事だったとか、はたまた強烈な印象を抱いたこととかはよく覚えているだろうし、単調な、いつもと同じような時間についてはよく覚えていないということはあると思う。
 それにしても、今回の旅でも、交わした会話までかなりはっきり覚えていることと、旅の最中にメモに残しておきながら、そのメモを見ても、そんなことがあったかなあと思うこととがある。
 これからが私の仮説だが、人に話したり、似たような体験を繰り返したりした場合、それがだんだん記憶の中で美化され、脚色され、ドラマチックで自分に都合のよい物語に成長してしまうということがあるのではないか。
 そう思って聞けば、立志伝中の人が自分の半生を語るその中には、聞くも涙、語るも涙のエピソードが散りばめられていることが多い。
 聞いている人たちにはその美談や悲話の不自然さがよく分かるのだが、話している方は聞き手の耳が冷めていることにまったく気がつかない。なぜなら、自分がそれを事実だと思い込んでいるからで、滑稽といえば滑稽である。
 だから、私がこの旅行記に書いていることの中にも、年月を経るうちに脚色されたり、思い違いがそのまま事実として記憶されたりしていることがあるかも知れない。

 夕方になり、倉敷に着いた。
 倉敷という町について、何の知識もなかった。クラレ(倉敷レイヨン)という会社がクラリーノという人工皮革を売り出し、人気のテレビコマーシャルもあったので、なんとなく倉敷という地名を知っていたぐらいである。
 それでも昔の町並みがあるというので、行ってみた。残念ながら、ただ川の両側に何軒かなまこ壁の家が建っていたというぐらいしか記憶にない。
 後年、修学旅行の引率で何回か行くことになったが、かつての記憶と全然重ならない。私の旅行からずいぶん経って、重要伝統的建造物群保存地区ということになり、「倉敷川畔伝統的建造物群保存地区」と名付けられ、アイビースクエアなども整備されたようだから、実際に変っていたのかも知れない。
 大原美術館という名前だけは知っていたが、既に閉まっていた。もっとも開いていたとしても入ったかどうかは判らない。とくに興味もなかった。今ではわざわざでも行きたい場所なのに、もったいないことだったと思う。
 引率した修学旅行では生徒たちが美術館に見向きもせず土産物屋にばかり走ってしまうのを見て、かつての自分を思い出し、苦笑せざるを得なかった。猫に小判とはこのことだろう。
 この日は倉敷市役所近くの簡易旅館に泊った。素泊まりで1,400円。旅館に泊るというのは安直すぎて後ろめたいような気がしないでもない。大きな町からなかなか抜け出せず、寝場所が見つからなかったこともあるが、3日間風呂に入っていないので、体中がべたべたして気持悪かったということもあり、自分を甘やかしてしまったのだと思う。
 近くの食堂で、鯖の煮込みと何かの皿がついた定食で、久しぶりにビールを飲んだ。

 8月8日、歩き始めて6日目、24,5キロ歩いたころだと思うが、前方に今でいうワゴン車のようなものが停まっており、その前に数人の男が立っていた。大きなビデオカメラを持っている。マイクを持っている人もいる。
 1人が私を呼びとめ、広島から東京まで歩いているのはあなたですか、と訊いてきた。
 ここまで来る途中、訊かれるままに東京まで歩くことは答えていた。どこで誰に言ったかは覚えていないが、秘密ではないし、むしろ自慢げに言っていたと思う。
 だから、誰かが知り合いのテレビ局員に話したのかも知れない。
 私がそうだと答えると、その人は、テレビで流したいので撮影してもいいかと言う。いいかと訊く割には強引で、もう撮影は決まっているようであった。私としてもまんざら悪い話ではない。
 歩いてくれというから歩いた。すると、もう一度と言われ、十数メートル戻って同じ所を歩いた。数回同じことを繰り返し、もうちょっと疲れた表情で、とか足を少し引きずってとか言われ、その通りにした。
 そのあと、旅の目的は? とか、辛かったことは? とかありきたりの質問を受け、それで終わり。その晩のローカル番組で流すらしかったが、やり直しの部分を除けば、私の映っていた時間はわずか数十秒ではなかったかと思う。
 撮影斑がいなくなったあと、なんだか無性に腹立たしくなってきた。
 同じ所を何度も往復し、やれ疲れた表情だとか、やれ足を引きずれだとか、要は向こうの都合の良い画面を作らされただけで、こちらの真実を写した訳ではない。それにも腹が立ったが、それ以上に腹が立ったのは、そんな相手の言いなりになって、唯々諾々と行ったり来たりを繰り返した自分に対してだった。

 辺りはすっかり暗くなり、今歩いている国道だけは車の往来もあってライトに照らされてはいるものの、道の脇がどうなっているのか、さっぱり見えない。原っぱなのか、畑なのか。
 なんとかテントを張る場所を見つけようと目を凝らしながら歩いていると、後ろから来た原付バイクの青年に声をかけられた。
 事情を訊かれ、訳を話すと、それならボクの所に泊めてやるという。地獄に仏とはこのことであろう。
 バイクの荷台にリュックを載せ、それを押さえながら歩く。青年はゆっくり走ってくれたのだろうが、それでも結構速く、私は小走りにならざるを得なかった。しかもどこまで行くのか、ずいぶん走っているのにいつかな着く様子がない。道はとうに国道を離れ、ますます暗くなる。
 ゆっくり走ってくれとも言えず、まだですかとも言えず、たぶん3、40分も走ったころ、やっと目的地に着いた。そこはある石油化学会社の社員寮で、青年はその会社の社員だった。
 20人くらいは一緒に入れるような風呂場があり、とてつもない熱さではあったが、とにかくさっぱりした。部屋には畳半分ほどの炊事場があり、青年が自分の分と一緒に夕飯を作ってくれた。ビールもある。
 そのときになって青年の名が赤峯というのだということを知った。赤峯とは珍しい名だが、大分県出身だそうで、大分ではとくに珍しい姓ではないということだった。
 赤峯さんは独身。高校時代にワンダーフォーゲル部に入っていたということで、今でも登山靴を持っていると言っていた。私も高校時代にワンゲルに入っていたので、話が弾む。
 東京まで歩き切ることを期待していると言われた。このことは今でも私の心の重荷になっている。

 7日目、赤峯さんは仕事に行くのでゆっくり寝ていていいと言われたが、そうもいかないので、一緒に寮を出る。国道まで案内してくれると言うが、また小走りで30分も歩くのはごめんなので、寮の前で別れる。大体の方角を目指して歩いたが、国道に出るまでに小一時間かかってしまう。
 ふくらはぎが痛い。昨日バイクの後ろを走り続けたことが原因ではないと思いたいが、他に思い当たることがない。右肩が張って、リュックもいつになく重い。右肩の痛みを避けようと無意識のうちにリュックを左に寄せるせいか、腰まで痛くなってきたようだ。
 岡山市は東隣の長船町(現瀬戸内市)と吉井川で隔てられている。その吉井川の河原で休憩。まだ10時前だったが、全身汗まみれで気持悪い。海水パンツを持っていなかったので大いにためらったが、とうとう普通のパンツで水に入り、岩を枕に露天風呂よろしく仰向けになった。
 国道から丸見えであり、どうにも落ち着かないが、さりとて水から上がろうという気にもならず、しばらくそうしていると、今度は逆に体が冷えてきた。水から上がるとまた暑く、体はすぐに乾いたが、パンツは濡れたまま体に張り付いている。物蔭とてなく、そこで履き替えるわけにもゆかず、そのままズボンを履いてしまう。あまり気持の良いものではないが、まあ歩けないということもない。
 伊部駅を過ぎた辺りで、国道250号線にぶつかる。地図を見ると、2号線はそのまま内陸に入ってゆくのに対し、250号線は海に沿っている。距離的にも短いように見える。250号線を行くことにした。
 すぐに、瀬戸内海が深く切れ込んだ片上湾に出る。
 少しして前方に郵便局を見つけたとき、ふと怠け心が湧いてきた。荷物を軽くするためにテントを自宅に送ってしまおうという思いである。
 これまでテントでは3泊しているが、5泊は屋根の下で寝ている。そのつもりになればテントがなくてもなんとかなるだろう。肩に食い込む荷物の重さと屋根のある場所を探す苦労とを天秤にかけ、いとも簡単に結論が出た。残された距離を考えれば、そうそう都合よく無人の神社などが見つかる筈もないのだが、いったん楽をしようと思った頭では、そういう理性が働かない。
 結局テントを自宅に送り、いくらか荷物は軽くなった。
 自宅を出発する前に量った荷物の重さは14キロちょっとだったが、途中で汗になった衣類を何枚か捨てたし、テントがなくなった今は10キロを少し切ったと思う。しかし、軽くなったと感じたのは最初だけで、肩の痛さは相変わらずであった。
 あとになって考えれば、あのとき既に挫折の兆しが芽生えていたのかも知れない。

 日生町の辺りだと思うが、しばらく川に沿って歩く。正確な記憶ではないが、川幅は20メートルぐらいだったろうか。岸には葦のような植物が茂っており、水面はあまり見えない。
 国道から右にそれる道があり、コンクリートの橋がかかっている。その下が砂地になっており、少し下って水面。
 その砂地で寝ることにする。なにしろテントを送ってしまったので、夜露を避けられる場所でしか寝られない。まだ明るいが、暗くなってからでは昨日のように苦労するし、屋根付きの場所が見つかる保証もない。
 橋の下で寝るのは初めてではないが、条件としてはあまり良いものではない。
 まず寒い。夏でも夜中に寒さで目が覚める。次に増水の危険がある。これを避けるにはちょっとした注意が必要だ。まず、2、3日前まで遡って雨が降っていないこと。上流で雨が降ると、川の長さや幅にもよるが、すぐに下流まで増水する場合と、2、3日してから増水する場合があるからだ。
 寝る場所は可能な限り水際から離れた所がよい。つまり橋のたもとだ。それでも念のため砂を少し掘ってみる。砂の下が湿っていればときどきそこまで水がくるということになる。
 蚊は神社ほどではないが、まったくいないということではないので、やはり蚊取線香は必要だろう。
 このときも慎重にそれらの条件をチェックして寝たが、やはり寒さは防げず、夜中に何度か目が覚めた。

 早朝、川で顔を洗い、歯みがきも川の水で済ませる。
 マット代わりのビニールをたたみながらセルフタイマーで写真を撮った。このときの写真は頬がげっそりこけている。疲れは感じていないのだが、食事はかなりいい加減で、朝と昼はパンで済ませることが多い。夕飯は食べないこともある。これでは痩せるのが当り前か。
 出発するとすぐ、飲み物の自動販売機があった。
 当時の自動販売機は、ホテルの冷蔵庫にときどきあるように、いくつかの穴から瓶が首を出している。コインを入れて希望の瓶を引き抜くと、あとはロックがかかるというものだった。
 私はコカコーラを買うべく、50円玉を入れた。
 50円玉。これが今の50円玉ではなく、直径が2.5センチもあり、穴あきと穴なしがあったが、どちらもずしりと重く、存在感があった。それを投入して瓶を引く。そのとき、誰もが同じことを考えていたようだが、うまくやれば2本抜けそうな感じがする。
 このときも私は辺りに人がいないのを幸い、なんとか2本抜こうと両手の力加減をあれこれ工夫してみた。しかし、そうこうするうちに1本が抜けてしまい、そうなるともう、穴には次の瓶の首が入ってしまって、抜けようがなくなる。
 ちなみに、成功して2本抜けたという話は聞いたことがない。

 岡山・兵庫の県境を越えて2時間ほどで、播州赤穂駅に着く。
 ちょっと早かったが昼にしようと駅前の食堂に入る。私の格好を見た店主が話しかけてきて、旅をしているのなら、大石神社に詣でて行けと勧めてくれた。言わずと知れた浅野家筆頭家老大石内蔵助良雄の屋敷跡に建てられた神社である。
 子供のころに講談本を読みあさっていた私としては大いに興味がある。早速行ってみる。
 ところが実を言うと、その神社の様子があまり記憶にない。ただ境内に内蔵助邸の長屋門が建っていて、その大きさに、さすが5万石の大名浅野家の家老ともなると大したものだ、と妙に感心したことだけは覚えている。

 夕方、集落の切れた殺風景な地域を歩いていた。相生の近くではないかと思うが、地図を見ても現在地がはっきりしない。距離的には20キロ強を歩いたと思う。
 まだ明るかったが、どうも疲れが激しかった。
 初日は別として、今回の旅では殆ど疲れというものを感じていなかった。サンダル履きで若干の不安もあった足は、案に相違してすこぶる快調で、マメもすぐに潰れて痛みもなかった。この調子なら東京までは十分行けるという感じだった。
 それが昨日からどうも違った。旅に出て以来初めてリュックの重さがこたえている。肩がやたら痛い。
 そんなとき、国道からかなり離れた所に、そこだけ島のように木が茂った場所が見えた。
周りは畑だったか草地だったか定かではないが、とにかく広い平地の中で、そこだけ木が生えている。木立の中には公民館か集会場のような小さな建物が見える。
 もしかしたら寝られるかも知れない。行ってみると、平屋のトタン張りの建物が2棟あり、南京錠がかかっていた。どう見ても住宅ではない。やはり集会場か何かであろう。しかし、ひさしも縁側もなく、これでは寝られない。
 見渡すと、大きな木が何本もあり、枝を広げている。その下なら夜露はしのげそうだ。雨の降りそうな気配はないし、よし今晩はここで寝ようと決め、毛布を広げる。
 パンとコーラで夕食を済ませ、蚊取線香をたいて横になる。まだ薄明るかったが、すぐに眠ってしまった。

 朝、まぶしさと暑さで目が覚める。既にかなり陽が高くなっていた。
 そのときになって初めて、建物の後ろに煙突が立っていることに気がついた。コンクリート製で高さは7,8メートルあったと思う。そして木立の向こうには墓地が。
 火葬場だった。
 昨日は明るいうちにここに来ている。寝るときもまだ明るかった。煙突も墓地も見えない状況ではなかった筈だ。改めて見ると建物の入口には火葬場と書かれた木札もついている。それなのにどういうことか、まったく気づいていなかった。
 しかし、ものは考えようで、もしそこが火葬場だと気づいていたら、おそらく寝る気にはならなかっただろう。疲れた体で寝場所探しに苦労していたに違いない。

 疲れは残っており、体がだるい。それ以上に気分が沈んでいた。とくに何があったというわけではないが、どうも楽しくない。
 自転車旅行の人からはこの日も何度か声をかけられ、私も「コンチワー」などと応じていたが、気持が鼓舞されるということもない。
 広い砂浜に出た。大浦海水浴場というらしい。ビーチパラソルがあちこちに立てられ、海の家もある。
 中に入って、かき氷を食べたが、水着の家族連れの中にリュックを背負った汗まみれの男はどう考えても場違いで、居心地が悪い。早々に食べ終え、海水浴場から離れた砂浜で腰を下ろす。そのままかなり長いこと坐っていた。
 そのあと、もう一度海の家に戻り、焼きとうもろこしを買って、またさっきの砂浜に行き、海を眺めながら食べる。これが昼飯だった。
 3時過ぎ、揖保川の支流、中川を渡ったところで龍門寺という禅寺を見つける。
 これは大層なお寺だ。臨済宗の根本道場として創建され、300年以上その姿を保っているという。緑濃く広い境内には観音堂、地蔵堂その他多くの堂宇からなる大伽藍が構築され、能舞台を思わせる庭園もすばらしい。
 このときまでその存在すら知らなかったお寺だが、旅の収穫として最大級のものであった。

 姫路市に入ってしばらく歩いた所に「鈴乃屋」という簡易旅館の看板を見つけ、泊ることにする。姫路は大都会で、無人の神社のような“宿”が見つかるような気がしなかったし、東屋のある公園が見つかるような気もしなかったからである。
 というより、そういう場所を探そうという気が殆ど起こらなかった。
 鈴乃屋は国道からは離れていたが難なく見つかり、空室もあった。素泊まりのつもりだったが、うどんを出してくれたので、ご馳走になる。代金はいらないということだったが、それでは申し訳ないので、ビールを頼んで、その分だけは払う。
 今日はたぶん、30キロ近く歩いている。気分が沈んでいた割には歩いたものだ。

 8月12日、歩き始めて10日目。8時過ぎまで寝ていて、朝食は頼んでいなかったが、ご飯と味噌汁、漬物の簡単な食事を出してくれた。これも代金はいらないということだった。
 9時を過ぎて歩き出す。疲れはいくらか取れて楽になっていた。気分も悪くはない。
 この日も250号線を歩いていたが、2時間ぐらい歩いてもまだ左の方角に姫路城が見えていた。
 そのままさらに1時間ほど歩いたところに海水浴場があり、「氷」の旗が。たまらずかき氷を食べる。泳ぎたかったが、海水パンツがないので我慢して歩いていると、小さな洋品店があり、店頭に海水パンツがぶら下がっていた。これから何度も海水浴場を通ることだろうし、川での水浴びもするだろう。
 そう思って買うと、すぐにまた海水浴場があった。海の家に荷物を預け、なにはともあれひと泳ぎ。水から上がって海の家で焼きそばを食べる。ふと見ると、そこでも海水パンツを売っている。昼寝をして、また泳ぐ。
 かれこれ2、3時間そうしていたと思うが、意を決して歩き出すと、1時間ほどで国道2号線とぶつかった。そのまま東へ進めば大阪に着く筈だ。
 海水浴で時間を使った割りには距離を稼ぎ、26、7キロ進んだと思う。薄暮となり、そろそろ屋根のある寝場所を探さなければならない。
 
 校名は書かないが、国道のすぐ脇に小学校があった。
 今日はここに泊めてもらおうと思い、職員室へ。先生が2人いた。
 教室に泊めてもらいたい旨告げると、言下に断られた。これまで何年か、学校にはずいぶんと泊めてもらっている。断られたことはなく、教室どころか宿直室に泊めてくれ、夕飯、朝飯まで食べさせてくれたところもいくつかある。
 断られるということをまったく想定していなかった私は、気まずさに耐えられず、「校庭にテントを張らせてもらうのでもいいんですけど」と言った。
 テントは既に家に送ってしまっている。だから校庭に寝る気はない。ただ、その場を離れる口実が欲しかっただけのことだ。それなら断られたときに「分かりました」と言って出ればいいものを、なぜあんなことを言ったのか、自分でも判らない。全面的に敗北したのではなく、自分の意思で泊らなかったのだという形を作りたかったのかも知れない。
 すると、その先生は強い口調で、学校には学校の管理責任というものがある、我々は君という人間の素性を知らないのだから、安易に泊めてもし何かあったら責任をとれない、君も社会に出れば分かるだろう、というようなことを言った。
 最初に断られたときに、さっさと引けばよかった。これまでにも駅や一般の民家で断られたことは数えきれないくらいある。
 それを、ありもしないテントを張らせてくれなどと言ったおかげで、無責任な“旅ごっこ”をなじられたような結果になってしまった。
 私は意気消沈し、学校をあとにした。
 これ以上はないほど落ち込んだ。一時的な疲れもとれ、リュックの重さも気にならなくなっていたのに、なんだか自分が全面的に否定されたような感じで、惨めな上にも惨めな気分であった。
 そのまま2、30分歩いただろうか。加古川駅と書かれた案内標識が見え、左に曲がるとカーブの先に駅があった。
 ためらいもせず、東京までの切符を買い、駅前の本屋に行って北杜夫さんの『牧神の午後』を買ってホームに出た。
 東京まで鈍行を乗り継いで帰ったのは確かで、途中、ホームのベンチで寝たことも覚えているが、それが京都だったか、名古屋だったか、はたまた違う駅だったのか、覚えていない。
 こうして、学生時代最後の旅もあえなく頓挫し、私の人生にまたしても負の履歴が加わった。
 後日、家で地図を詳細に調べたところ、この旅で歩いた距離は 270キロから 280キロであることが判った。最初の計画のおよそ3分の1である。


広島~加古川歩き旅(1) グアムがジャングルであった頃(1)
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