不思議な国、エジプト(2)


割り切らねば付き合えぬ人々

ルクソール

 
エジプト3日目は、早朝の飛行機でルクソールへ。
 古代エジプトの都テーベのあった所で、ナイル川によって東西に分けられる。 東岸は生者の世界で神殿が設けられ、西岸は死者の世界で歴代ファラオの墓などがある。
 
 王家の谷で観光客を待つロバ

 西岸にある王家の谷では、まずラムセスⅥ世の墓を見学。壁画の保存状態が極めて良く、特に天空の女神ヌゥトが太陽を呑み込む姿を描いた天井画には圧倒される。
 現地ガイドがつかず、添乗員の山野井さんが説明をしたが、なんとここをセティⅠ世の墓だと言う。そのあとセティⅠ世の墓にも入ったのだが、それをセティⅥ世の墓だと説明していた。
 繰り返すが、私は古代エジプトについて少しは勉強しており、セティⅠ世、ラムセスⅥ世の墓についても、その内部構造が頭に入っている。とくに壁画、天井画については 図鑑を模写していたぐらいであり、間違えようがない。そもそもセティⅥ世などという王は聞いたことがない。
 だから山野井さんの間違いについても、どうしようかと迷ったが、結局黙っていた。
 人は権威に弱いもので、「テレビで見た」「新聞に書いてあった」「本で読んだ」となれば絶対である。実はテレビも新聞も本も間違いだらけなのだが、名もない市井の人間があれは間違っていると言っても、誰も信じない。
 このときも、頼もしく先導する添乗員が説明することと、初めて会った得体の知れない男が言うこととでは、皆、前者を信じるということが目に見えている。
 第一、聞いている殆どの人にとってはどうでもいいことなのだ。観光客の多くはエジプト学の勉強に来ているわけではなく、“大きい! きれい! すごい!”ということで満足なのだし、現場での説明をいつまでも覚えているわけではない。
 それに、山野井さんは旅行のプロではあっても、古代エジプトを研究している学者ではないのだから、正確な解説を求める方が無理なのだ。
 私はその晩、他の人がいない所で、なるべく自尊心を傷つけぬよう、遠慮しながらその間違いを指摘した。気分を損ねることが心配であったが、山野井さんは素直に私の言を受け入れ、翌朝バスに乗るなり皆に自分の間違いを詫びた。なかなかできることではない。
 おかげで参加者たちの私を見る目が変わった。どこの馬の骨か分からない男が見かけによらず勉強しているということで、その後なにかというと私に質問してくるようになった。山野井さんも自分の説明に加え、私に補足説明を求めたりした。
 無論、そんなところでその気になって説明したりすれば、鼻持ちならぬ男だと非難されるのは目に見えているから、私も説明などしなかったが。
 
 さて、そのラムセスⅥ世の墓であるが、入口でカメラを取り上げられる。
 カメラは後ろに置かれた木の棚に無造作に並べられ、預かり札をくれるわけでもなければタグをつけるわけでもない。見学を終えた観光客が「それだ」と指した物をホイとばかりに返してよこす。
 あれではカメラを預けていない人が「それだ」と言えば疑いもせず渡すだろう。私はそこそこ値の張るカメラを持っており、あまり愉快ではなかったが、仕方がない。
 実は私はもう1台小型のカメラを持っていた。それはポケットに隠したまま入場し、こっそり何枚かの写真を撮った。
 計画的犯行で高感度のフィルムを装填してあり、フラッシュなしで撮れたのだが、何枚目かで操作を誤り、フラッシュが焚かれてしまった。ものすごい勢いでガラベーヤの男が飛んできて、たいへんな剣幕で何か怒鳴りながら私のカメラを奪おうとした。
 私はカメラを抱え込んで、撮っていないと繰り返した。男は承知しなかったが、浜松から参加していた園田さんという男性が、この人は撮っていない、誰かほかの人だろうと言ってくれた。男はぶつぶつ言いながら帰って行った。その晩、園田さんに1杯おごったのは言うまでもない。
 この園田さんは 英語の教員なのに、実に流暢な英語を喋った。
 英語の教員なのに、というのは奇妙に聞こえるかも知れないが、日本では、英語の教員は英語が喋れないというのが相場になっている。事実その通りで、私の職場の先輩である英語教員などは、修学旅行で京都や奈良に行くと、やたら外人がいて、生徒に「先生、話してみて」などと言われるものだから、いつも生徒と離れて歩いている始末であった。
 私の勤務先である高校では早くから海外研修に力を入れており、毎年ニュージーランドやオーストラリアで生徒のホームステイを実施している。ある年、別の高校との合同研修になり、その高校からはKという英語の教員が引率にあたった。
 夜、生徒たちをホストファミリーに預けて自由になった私たちは、夕食をとるためにスーパーのフードコートに出かけたのだが、どうやら時間が遅かったらしく、客は誰もいなかった。
「何時までやっているのかな。Kさん、聞いてきてよ」
「私がですか?」
 同行の田村さんという私の同僚が、
「そうだよ。あんた、英語の先生でしょ?」
と言うと、Kさんは渋々カウンターの方に歩いて行った。見ていると、店員の前を行ったり来たりしている。 しばらくしてそのまま帰ってきて、分らないですねぇ、と言う。
 苛立った田村さんが、「俺が訊いてくるよ」と言って店員と何か話していたが、すぐに戻ってきて「あと30分いいそうです」とのこと。ちなみに田村さんは保健体育科の教員で、ふだん英語とは縁のない生活をしている。
 そのK教諭がオーストラリアで口にした英語を私が聞いたのは、フリーマーケットで「ハウマッチ?」と言った、その一言だけであった。
 そんな訳で、英語の教員である園田さんが英語を喋ることにいたく感嘆した私は、旅行中いつもその英語に耳を傾け、そのこなれた言い回しにますます感激し、それらをノートに書き留めた。

 王家の谷といえばツタンカーメンの墓であろうし、私も内部では身震いするほど興奮したものだが、それについて書こうとすれば、何を書いて何を割愛するかという選択ができない。
 無論、2000点に上る副葬品はすべて博物館にあり、墓には何も残っていないのだが、それでも玄室の壁の一削り、壁画の線1本まで、見逃してよいものは一つもない。
 また、墓室内にはツタンカーメンのミイラが安置されている。残念ながらそのミイラは棺に納められているため見られないし、その棺もガラスケースに入れられている。
 それでも、なにゆえこのミイラだけが温度、湿度等完全管理された博物館ではなく、このように暑くて埃っぽい砂漠の真ん中に置かれているのかを考えただけで、書くことは無限に出てくる。
 だからここでは逆に何も書かないことにして、ツタンカーメンにまつわる日本での話を一つだけ書いておくことにする。
 1922年、ハワード・カーターがその王墓を発見したとき、その墓室内にエンドウ豆が副葬されていた。古代エジプトでは王は死後イアルと呼ばれる冥界で農業をする定めになっていたとかで、それに備え、穀物の種子を副葬するのが常であったという。
 その数粒がアメリカに譲られ、慎重な栽培により 3,000年の眠りから覚めて発芽。それをさらに栽培してできた種子数粒が日本の大町武雄氏に贈られた。大町氏がサクラ、イチョウなどの種子を贈った返礼としてのことだという。それが茨城県日立市の助川小学校などで栽培され、やがて大利根博物館で栽培されるようになる。
 私はその大利根博物館に頼んで4粒を譲り受け、受け持っていた「古代エジプト研究」講座の生徒と一緒にプランターに蒔いた。さやが紫色をした珍しいものであり、何年かに亘って注意深く栽培を続けるうちに種子も増え、あるとき思い切って食べてみた。
 味は普通のエンドウ豆となんら変わらなかったが、ツタンカーメンという時空の彼方の王の墓にあった豆の子孫を食べていると思うと、自分が歴史の中に生きているというような不思議な思いがした。
 それなのに、そのエンドウ豆は、ある年、突然すべてが枯れた。そういう危険に備えて何か所かに分散して栽培していたのだが、すべて同時に枯れた。ファラオの呪いか、などと冗談を言ったりしたが、原因は判らない。
 今私の手元には各年に採取した種子が標本として残っているのみだが、何人かの生徒は自宅に持ち帰って栽培していた筈であり、その中には、今も続いているものがあるかも知れない。確かめたいような気もするが、確かめたくないような気もする。

 ハトシェプスト女王葬祭殿も、ルクソール西岸では見落とせない遺跡である。
 ハトシェプストは父トトメスⅠ世の妾腹、つまり異母弟であるトトメスⅡ世と結婚する。
 そのトトメスⅡ世とその側室との間に男子が生まれると、その子と自分の娘を結婚させ、そのことによってその男子がトトメスⅢ世として即位する。
 この辺りは、王の嫡出の長女と結婚した者にのみ王位継承権が付与されるという、古代エジプト王国の制度が絡むのだが、現代人からすると判りにくいので、省略しよう。
 ともあれ、平たく言うと、彼女は父の妾の子と結婚し、夫の妾の子に自分の娘を嫁がせるという、いくら時代が違うとはいえ決して愉快ではない人脈を構築した上で、自分がそのトトメスⅢ世の摂政として共同統治者になり、実質的にはトトメスⅢ世をないがしろにして自分が古代エジプト初の女性ファラオとなってしまう。
 彼女の治世についてはこれも省略するとして、自分の死後は王家の谷に眠りたいという強い願望から、どうやら愛人だったらしいセンムトに設計させて壮大華麗な葬祭殿を建造した。それがこのハトシェプスト女王葬祭殿である。
 観光客が引きも切らず、ここでもバスを降りるやたちまち10人近い男たちに取り囲まれた。粗悪な土産物を売りつけようとする連中で、「ホンモノ、ホンモノ」などと言いながらしつこくついてくる。
 しかし、葬祭殿に近づいた所で一斉にUターン。あとに取り残された私は狐につままれた気分。気がつくと、バスから葬祭殿まではだだっ広い無機質の砂地だが、ある場所にひと抱えほどの石が数メートル置きに列状に置いてある。見ていると、観光客につきまとっている男たちは、その石の所までくると、さっとUターンする。 
 どうやら物売りはその線から中に入ってはいけないというルールがあるらしい。
 そういえば、これまでも、このあとも、しつこい物売りやバクシーシねだりのオッサンたちはいつもある距離はついてくるが、突然諦めて踝を返していた。
 ねだりはしても、奪い取ることはしない。エジプトはこれで案外安全な所なのかも知れない。事実昔は、世界で最も安全な都市は東京とカイロだと言われていたこともある。
 しかし悲しいことに、1997年、このハトシェプスト女王葬祭殿で日本人10人を含む63人が無差別に射殺されるというテロ事件があった。犯人6人は全員その場で射殺されたので、真相は不明だが、犠牲者の遺体にイスラム原理主義者のグループ名を書いた紙が載せられていたということで、近年頻発しているテロ事件に繋がるものと思われる。
 東京で起こった地下鉄サリン事件もそうであるが、安全と信じられていた場所だけに、突然の殺戮行為に警察の対応が遅れた面もあるという。
 私たちは この葬祭殿の前で、現地のカメラマンに記念写真を撮ってもらったが、今そのピンボケの白黒写真を見て、どうしてもその背景とテロとが結びつかない。

 ナイル川の東岸に渡る船を待つ間、小さな土産物屋に入った。
 ありきたりのペンダントなどが並べられているだけで、見るほどのこともないので裏に回ってみる。そこに漆喰壁の、これまた小さな作業場があり、ガラベーヤを着た子供が2人、石灰岩と思われる白い石をヤスリでこすって壺形に整形していた。それに古色塗装をして古代の遺物として売るのだということはすぐ判る。
 
 壺を作る少年

 子供たちは、まずいところを見られたという風もなく、平然として作業を続けている。うっかり写真を撮ったら、当然の如く手を出された。まあそうだろうと思って1ポンドずつ渡したが、礼は言わなかった。
 川岸に出て、改めてナイル川を眺める。
 古代ギリシャの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と言ったそのナイル。
 年ごとの氾濫によってエジプトに肥沃な土壌をもたらしたその川は、今は氾濫もなく、静かに、ゆったりと流れている。
 足をつけてみると生温かく、とくにどうということもない。小学生の頃に世界最長の川として白地図に書き込んだ、そのナイルに今自分が足をつけているのだと、無理に自分を感動させようとしたが、それでも特別の感慨は湧かなかった。

 東岸に渡って、まずルクソール神殿に行く。
 しつこく述べるとおり私は古代エジプトのことは多少勉強しており、各遺跡についても一部分の写真を見ただけでそれが何遺跡のものか判るようになっていたので、バスの窓からルクソール神殿が見えたときにも、初めて見た驚きはなく、ああ着いた、とだけ思った。
 内部の見学でも、お目当ての遺構や彫像がどこにあるのか大方分っているので、勝手に一人で見て歩いた。あとで山野井さんが「ガイドをお願いしようかしら」と嫌味を言っていたが、どうしてその山野井さんも大変な勉強家であった。
 行く先々でガイドの英語を日本語に通訳するのだが、ガイドの説明は私にも判るおざなりなもので、それを訳した山野井さんの日本語は、ガイドの説明を遥かに上回っていた。
 ツアーの添乗という仕事はエジプトに限らない訳で、西欧諸国はもとより、ペルー、アマゾンなどの秘境にも行っている由だから、エジプトについて特に勉強する時間も必要もないと思うのだが、プロ意識のなせる業か。近畿日本ツーリストは大した添乗員を持っているものだ。
 さてそのルクソール神殿だが、例によって正面に1対のラムセスⅡ世座像があり、それはそれで神殿に豪壮な感じを与えている。しかし、本来1対あるべきオベリスクが左側の1本しか残っていないのが、どうにも侘しい。
 言うまでもなく、もう1本はフランスに持ち去られてパリのコンコルド広場に建っているのだが、フランスはいったいどういう神経をしているのだろう。コンコルド広場といえば、世界中から観光客が集まるパリの顔であろう。そんな所で、フランスが他国の歴史遺産を横取りしている事実をさらし続けていることに、気まずさはないのだろうか。
 もっともフランスは、核実験を自国内でやらずに遠く離れたアルジェリアやタヒチ近海でやったりしている国であるから、自分さえ良ければそれを恥じるという感覚はないのかも知れない。

 ルクソール神殿はもともとカルナック神殿の副神殿として建てられたもので、両者はスフィンクスの並ぶ参道で結ばれている。
 歩いて行ける距離だが、ちゃんとバスが待っていて否応なしに乗せられる。そういうところがパックツアーのありがたくないところで、本当はゆっくり歩きたかったのに、いきなりカルナック神殿の前に立つことになる。
 この神殿でアガサ・クリスティー原作の映画『ナイル殺人事件』のロケが行われたことで、その列柱室の威容はすっかりお馴染みのものになっている。
 映画で石の梁が落ちてきた場所に立って上を見ると、高さ20メートルを超える石柱の上に梁が載っているだけで、なるほどいつ落ちてきても不思議はないと思える。
 古賀さんと尾嶋さんと私とで 手をつないで石柱の周りに立ってみた。無論囲めると思ってのことではないが、3人ではお互いの顔がちゃんと見える。つまり円にならないのだ。
 見かねてツアーの仲間2人が加わったが、それでも柱を半分も囲むことはできなかった。
 トトメスⅢ世の祝祭殿を抜けて右へ進むと、大きな池があり、そのそばにスカラベ(糞ころがし)の彫り物がある。本物のスカラベは2センチくらいのものだが、これは1メートル近くあり、その周りを7回廻ると願いが叶うとガイドが言っていた。
 馬鹿々々しいのと暑いのとで廻りはしなかったが、結構真顔で廻っている人が多く、それだけのエネルギーがあれば、きっと相当な願いも叶うだろうと思った。
 
 羊頭のスフィンクス


 夜、そのカルナック神殿で「音と光のショー」というのがあり、希望者はツアーのバスで神殿まで送ってくれるという。カルナック神殿をライトアップしながら歴史の説明をするらしいので、行ってみることにした。
 およそ、これほど退屈なショーも珍しい。
 昼間見た池のほとりに花火大会あたりで使われそうな仮設の観覧席があり、神殿のあちこちを照らしながら何やら説明のような朗読劇のような声が大音響で流れる。それがアラビア語であり、チンプンカンプンもいいところだ。
 しばらくは我慢したが、ついに耐えかね、帰ることにした。
 神殿を出ると沢山の馬車があり、「ホテル、ホテル」と客を引いている。
 ウインターパレス・ホテルまでいくらかと訊くと、1ポンドだと言う。それは安いと思ったが、念のため1ポンド紙幣を見せて、これか、と確認。なにしろ私は言葉の不確かな国では、あとで聞き違いだと言われて水掛け論になった経験が何度もあるので、事前に現金を見せて確認することにしている。
 あんちゃん風の御者が紙幣を見てそうだと頷くので、乗り込む。御者は相乗りの客を呼び込み、4人ほど乗ったところで動き出した。なんだ相乗りか、それならとくに安いということもない。馬が行く先を心得ていると見えて、御者は何もしない。御者台に横向きに坐って、ぼんやりしている。これなら1ポンドで十分だ。
 それなのに、案の定、降りるときになって10ポンドだと言い出した。他の客は事前に値段交渉をしていなかったようで、何の抵抗もなくさっさと払い、降りてしまった。
 私もやっぱりかと思ったが、すんなり払う気にはなれず、一応文句は言った。1ポンド紙幣を見せて、これでいいと言ったではないか、と強く言った。御者は全く動ぜず、10ポンドと言い張る。
 こうなると、だらしないガラベーヤが御者の風体を一層悪く見せ、私はこのまま言い争えば暴力を振るわれるのではないかという不安に襲われた。
「5ポンド」
 私は中をとった数字を言った。情けないが、安全には代えられない。
「テン」
 御者はまったく折れる様子がない。私は10ポンド払って馬車を降りた。悔しいやら腹立たしいやらで、収まりがつかないまま、長い夜を送ることになった。

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