不思議な国、エジプト(3)


とにかく暑い、ただただ暑い

アスワン

 アスワンではファルーカと呼ばれる帆掛け舟で川遊びをした。5、6人乗るといっぱいになってしまう小さな船だが、安定しており、川風を受けて気持良く進む。
 それが途中から風がぴたりと止んで、進まなくなってしまった。どう見ても十代の船頭が帆を降ろし、丸太のようなオールで漕ぎ出したが、船幅が広く、左右のオールを同時に漕ぐのはいかにも難儀らしい。背中を船首にぶつけるほど反り返っては、海老のように前屈してオールを戻す。
 私は見かねて、手伝おうかと申し出た。船頭は満面の笑顔で謝意を表し、左に寄った。私が右に並んで坐り、2人で漕ぐ。
 我ながら上手く漕ぐことができ、舟はかなり進んだ。
「バクシーシ」
 私は、そう言って船頭に手を出した。無論冗談だが、船頭は一瞬顔をこわばらせ、すぐに大声で笑った。そして漕ぐのをやめ、水に飛び込む真似をした。自分で漕いで帰れ、というジェスチャーだろう。
 私は日本式に頭を下げて謝り、どうか見捨てないでください、と言ったが、ここのところは英語でどういうか分からず、日本語で言った。同じ舟の人たちが笑ったので船頭も笑い、なんだか判らぬままに舟は進んだ。
 しばらくするとまた風が出てきた。船頭が今度は自分から私に手伝えと言って、帆を上げた。舟はナイル川の中州、エレファンティネ島に着いた。
 島にはアガ・カーン廟というのがある。何だか分からないが、イスラム教シーア派の指導者の墓とか言っていた。岸からそこまでは結構な坂道を登らねばならず、私はロバを頼むことにした。
 ロバは1ポンドということであった。これまで、ピラミッド前の駱駝、カルナック神殿の馬車、路上の土産物売り、みんな1ポンドであり、払う段になると10ポンドと言われてきたから、私はどうせまた10ポンドだろうと腹を括ってロバに乗った。
 このロバは、私が手綱を右に引こうが左に引こうが、まるでお構いなく勝手に進む。写真を撮ったり砂を採ったりするために止めようとするのだが、てんで言うことを聞かない。
 ちょっと怖い崖道もずんずん進み、やがてアガ・カーン廟に着いた。立派な建物であり、中に入ると涼しいので良かったが、アガ・カーンを知らぬ私にとっては、ただそれだけのことであり、再びロバに乗って坂を下った。
 ロバというのは、小さいので怖くはないが、下り坂で落ちないようにするには足を突っ張ったり、背を反らしたりしなければならず、あまり楽な乗り物ではない。
 岸まで戻り、ロバの持ち主に金を払った。1ポンド渡して、これは料金だと言い、もう1ポンド渡して、これはバクシーシだと言うと、礼こそ言わなかったが、文句も言わずに受け取った。10ポンドを覚悟していた私は拍子抜けしたが、そのまま舟に乗り、ずいぶんあとまで、もう少し払えばよかったかなと悩み続けた。

 とにかく暑いので、いったんホテルに戻り、クーラーの効いた部屋で休憩したあと、キッチナー島の植物園に行く。どんな木が生えていたのか、どんな花が咲いていたのか、まったく覚えていない。
 ただ、舟が島に着いたとき、船着き場にいた男たちが口々に声をかけてきたのは、はっきり覚えている。なぜならば、それが日本語だったからである。
「サラバジャ」というのがこんにちはの意味であり、「オカミサン」というのが女性の観光客への呼びかけであった。「オチンチン」とも言われたが、誰が教えたものであろう。

 宿はオールド・カタラクト・ホテルという、これまた『ナイル殺人事件』に出てくる由緒あるホテルで、日本人の利用も多いらしく、夕食のときにウエイターから「オイシイ?」と声をかけられた。

 翌朝、部屋を出る前に私はワイシャツを1枚捨てた。海外旅行に限らず、荷物ぎらいの私は、旅の途中で汚れた衣類は捨ててくる。勿論、捨てても惜しくはない古いものを着て行くわけで、エジプトにも、着古してもう捨てようかと思っていたものを持って行った。
 エジプトの暑さは半端ではなく、連日汗まみれになるので、シャツは毎日捨てていた。このときも部屋のゴミ箱に丸めて投げ込んで出たのだが、バスに乗ったときにボーイがそのシャツを持って駆けてきた。大声で持ち主を探している。

 気まずい思いで私のだと言うと、部屋に忘れてあったと言う。いや、忘れたのではなく捨てたのだ、と言ってもどうも通じない。バスも出ることだし、私は説明を諦め、あなたにあげると言った。ボーイは目を輝かせ、本当に貰っていいのかと念を押した。
 本当だ、世話になったお礼だと言い、バスは出たが、ボーイはずっと手を振っていた。
 私は、自分の英語が通じなかったのではなく、シャツを捨てるという行為が通じなかったのだと気づいた。現にほかの部分は会話が成り立っていたのだ。

 あのボーイにとっては、ゴミ箱の中にあったとはいえ、破れてもいないシャツが捨てられた物だとはとうてい思えず、忘れ物だと思ってバスまで駆けてきてくれたのだろう。
 私は、彼の嬉しそうな顔と、ずっと手を振っていた姿が今でも忘れられない。戦後、進駐軍のアメリカ兵がジープからガムやチョコレートを投げ、日本の子供たちがそれを奪い合っていたという話と何ら違わない。
 私は、自分のしたことが、真面目に働いているエジプトの青年に対する大変な侮辱であったことを思い、今もって慙愧の念を拭い去ることができない。


 アブ・シンベルへの飛行機は、カイロから飛び立ってアスワンに寄り、アブ・シンベル空港で4時間ほど待機して、またアスワン経由カイロに戻るらしい。1日1往復で、客はその4時間の間に観光をして、アスワンやカイロに戻るのだという。
 座席は指定がなく、乗客は我先に窓側の席を目指す。
 私たちもアスワンから乗り、赤茶けた砂漠の上を飛んで、アブ・シンベル空港に着いた。着いた飛行機がそのまま待機しているということは、着いてから知った。それならばと、私はカメラを座席に置いて出た。

 とにかくカイロに着いてからというもの、その暑さは尋常ではなく、ルクソール、アスワンでは連日40度を超えていた。湿度が低いので、日陰に入ると涼しいのだが、その日陰というものが殆どないのだから、全身がだるく、食欲もなく、下痢もしていた。
 
 帽子売り

 テキも心得たもので、ホテルの前などには必ず帽子売りがいて、「シャッポ、シャッポ」と寄ってくる。私もこれだけは助かったと思って、迷わず買った。
 そんな状態であるから、重いカメラを下げて4時間も過ごす自信がなかったのである。  
 エジプトに着いて以来、エジプト人のいい加減さ、だらしなさ、図々しさ、ずるさといったことを嫌と言うほど見ていた私は、機内に貴重品を置いてゆくことに不安がなかったわけではない。それでもカメラの重さを考えると、半ばやけっぱちにもなり、ミスル航空なんて、どうせ機内清掃などしないだろうという思いもあって、楽な方を選んだ。

 空港からは、飛行機の時間に合わせてアブ・シンベル神殿行きのバスが出ている。おそらく飛行機の乗客全員がそのバスに乗り、またそのバスで空港に戻るのだと思う。なにしろ、それ以外に何もないのだから。
 アブ・シンベル神殿。岩山を掘り抜いて作られた岩窟神殿で、アスワン・ハイ・ダムの建設により水没するところであったが、1964年からあしかけ5年をかけて高さ約60メートル、距離約 210メートルの大移動が行われ、水没から免れた。
 そのとき私は学生であったが、その工事については固唾を呑む思いで注目し、工事主体であるユネスコにささやかな寄付もした。
 しかし、そのアブ・シンベル神殿が飛行機の窓から見えたとき、私は正直なところ、がっかりした。
 岩山ごと引っ越すのが無理であることは勿論分かっているが、上空から見るそれは、平坦な台地にぽっこりと土饅頭が置いてあるようなもので、今で言うならナントカドームという全天候型野球場でも見下ろすような按配である。(最近の写真を見ると、その饅頭はかなり削られて、後方から頂上まで大きな坂になっている)

 とはいえ、間近で見上げてみれば、やはり大きい。正面にまたしてもラムセスⅡ世の座像が、それも4体も並んでいるが、その高さが20メートルというから半端ではない。
 内部は最奥まで47メートルの通路のようになっており、両面にラムセスⅡ世の生涯
がレリーフになっている。2月22日と10月22日に朝日が最奥のⅡ世像を照らすそうで、2月22日は彼の誕生日、10月22日は即位日だと言われている。
 しかし、この話は眉に唾をつけて聞かなければならない。そもそも現在の位置に移されるまでは21日に朝日が差し込んでいたのだそうで、それなら誕生日もへちまもない。
 それに古代エジプトで使っていた暦は一応太陽暦ではあったものの、うるう年がなかった。だから、現代に至るまでに2月22日の太陽の位置は相当ずれている筈であり、3千年以上も同じ日に同じ角度に太陽がある筈がないのである。
 それよりは春分の日と秋分の日に朝日が差し込むという話の方が信憑性があるが、これも私自身が確かめたわけではない。
 また、神殿は大神殿と小神殿に分れており、小神殿はラムセスⅡ世が王妃ネフェルタリのために建造したものだと言われている。そのため王はまれに見る愛妻家だということになっているが、それもどんなものであろう。
 公にされている側室だけで8人いたということであるが、8人や9人の相手に200人近い子供を産ませるのは無理であるから、実際には何人の相手がいたか判らない。そんな中でいつもネフェルタリのことばかり考えていたとは思い難い。
 まあ、そんなことはどうでもいいが、とにかく暑い。アスワン・ハイ・ダムによってできたナセル湖に足を浸け、頭に湖水をかぶる。たぶん気化熱が奪われるせいであろうが、すこぶるつきの涼しさで、やめられない。
 このナセル湖、ナイル川を堰き止めて作られた人造湖であり、面積が4千平方キロ、貯水量が 1,700億立方メートルということだ。そう言われてもピンとこないが、琵琶湖の6倍と聞けば、その大きさに驚く。
 しかし、なにしろ砂漠のど真ん中にあるため、折角貯めた水も年間 100億立方メートルが蒸発してしまうらしい。そのため上空に雲ができ、雨が降るようになった。
 今回の旅行で上空から民家を見下ろすことが何度かあったが、屋根がなく、住宅展示場の模型のように間取りが丸見えの家がかなりあった。ベッドやかまどが見えたりする。以前はそういう家が多く、日よけにヨシズのようなものを掛けていた由だが、今は少なくなった。それはナセル湖によって雨が降るようになったせいだ、という話を聞いた。
 また、ダムの完成によって洪水がなくなったので、土壌表面の塩分が洗い流されなくなり、スフィンクスや遺跡に甚大な悪影響を与えているとも聞いた。上流の腐植土が下流に運ばれなくなったため、下流域では毎年1億ドルの化学肥料が必要になったとも言われ、それやこれやで、ダムによる損害額はダムによる利益を超えてしまうとのこと。
 治水、感慨、発電、観光等、夢のプロジェクトとして行われたアスワン・ハイ・ダム建設であるが、何が良くて何が悪いかは、難しいところである。

 アブ・シンベル空港に戻ると、飛行機はちゃんとあった。というより、部品が故障したとかで、取り寄せのため、あと何時間かは飛ばないということであった。
 空港といったって田舎の幼稚園かと思うような建物が1棟あるだけで、飛行機までは30メートルほど歩くだけ。一応柵はあるが、出入りは自由なので、外に出た。
 何もない。日陰もない。やむなくまたその建物に戻り、数時間を耐える。
 やっとのことで飛行機に乗り込むと、カメラはそのままシートの上にあった。思ったとおり機内清掃はされておらず、床に新聞などが散らかっていた。
 そのままカイロまで飛び、初日のホテルに入ると、折りしも結婚式の最中であった。
 イスラム教徒の結婚式ではあるが、花嫁は顔も体も隠しはせず、日本では考えられないほど胸を露出して踊っていた。地味な花婿を見て、この男はこれから苦労するなと思わずにいられなかった。

 かくして念願のエジプト旅行は終り、そのあと私は膨大な紙数の旅行記を書いた。
 その大半は古代エジプト文明とその遺跡、遺物についての解説であるが、解説といったところで自分で研究したものではなく、すべて書物やテレビなどで学んだ、いわば受け売りである。それも今読み返してみると間違いが多い。
 あれから28年、エジプト学は飛躍的に進み、当時定説だったことがその後覆されたということも多いので、仕方がない面もあるが、内心忸怩たる思いも強い。この先私に残された時間で私の中のエジプト学を構築し直すことは無理であろう。
 だから今回、ホームページ用に書き直すに当たって、その大半をカットした。
 私の中の古代エジプトは今、少年時代のイメージに戻りつつある。『少年王者』の怪人アメンホテップとツタンカーメンの兄アメンホテプⅣ世が混同したとしても、それはそれで構わないとさえ、思っている。

不思議な国エジプト(2) 肩身の狭い韓国旅行(1)
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