欧州子連れ旅(1)

 

旅の中身はトイレ探し

 1977年8月4日、せがれはハイデルベルクのホテルで誕生日の朝を迎え、2歳になった。
 この夏、つまらぬ事から妻子を連れて欧州を歩き回るハメになり、途中、ハイデルベルクに1泊したのである。
 実は、結婚した時、私は妻と南の島に行った。結構楽しかったものだから私は血迷い、軽率にも、今後5年に1度づつ海外旅行に連れて行く、などと口走ってしまった。
 夜の浜辺で南十字星など眺めながらデマカセを言っただけで、無論、本気ではない。男とは、そういうものである。
 当時は海外旅行が今ほど一般的ではなく、「一生に1度でいいから外国に行ってみたいものだ」というような願望を多くの人が持っていた。5年に1度などということを人に言えば、大ぼら吹きと嘲笑されるのがオチであった。
 なのに、あろうことか妻はそれを覚えていて、突然、今年が5年目だと言い出したのである。
 聞えよがしに子供に向かって、
「今年はね、お父さんが外国に連れて行ってくれるんだって。お父さんが約束を破る筈はないわよね」
などと言っている。
 まるで強迫であり、うっかり断ろうものなら、何を言われるか分ったものではない。
 ひょっとしたら、妻も案外私の言葉など始めから信用してはおらず、逆に私をからかったのか、あるいは、私の調子の良さをたしなめるつもりで厭味を言っただけなのかも知れない。
 どちらにせよ、私としては今さらあれはものの弾みだなどとは言えぬ。言っては男の一分が立たぬ。
 かくして、南海の波の音とともに消え失せる筈であった絵空事が5年を経て具体化し、ご苦労にも欧州くんだりまで行くことになってしまったのだが、さていざ出発という段になって、難題に直面した。
 2歳に満たない子供を連れての旅行については、身近に経験者がいない。
 アレコレ考えながら準備をしたが、最大の問題はオシッコである。公衆便所はほとんどないと聞いて、紙オムツを山ほど買い込んだ。試しに穿かせてみると、息子は嫌がってどうしても受け付けない。折角買ったそれを全部捨て、今度は何回漏らしてもいいように、パンツをトランクいっぱい用意した。
 こうして、行商人もかくやという大荷物を抱えて、ヨタヨタと飛行機に乗り込んだ私達はしかし、意外にも行く先々で、思いもかけぬ人々の善意に助けられ、子連れゆえに、却って楽しい旅ができることを知らされた。
 どこの国でも、人々は立ち止って声をかけてくれ、せがれもまた臆せずそれに応えていた。
 トイレについてだけは、どこの国でも不親切であり、その苦労を書いていたらきりがないが、それ以外では、子連れなるがゆえに大抵のことは許され、子連れなるがゆえに望外の親切を受けた。
 まあ、子供が葵の御紋代わりであり、幼児を連れてのドタバタも、案ずるより産むは易しといったところであろうか。

☆☆

 ローマ。
 予算の関係で3日間しか滞在できなかったが、その素晴らしさについては讃辞に窮する。
 ところが、この町はまた乞食の町でもある。ある男は石畳に坐り込んで泣き崩れんばかりの演技で金をせびっているし、別の女は赤ん坊を抱いてトボトボ歩き、観光客が来ると黙って手を出している。どちらも結構商売になっているらしい。
 サンピエトロ寺院では、広場の列柱にもたれて坐っている男の前に皿が置いてあった。小銭が何枚か入っていたところを見ると、通行人が憐れんで入れたのであろうが、見た目にはどこと言って不自由もなく、働けばいくらでも稼げそうな男であった。
 またトレビの泉では、うす汚い裸足の女の子が近寄ってきた。か細い声で「マネー」と言って手を出す。気の毒に思って金をやると、礼も言わず、ニコリともせず受け取って、そのまま別の観光客に近づいて行く。
 と、やや年かさの男の子が現れて、その女の子を蹴飛ばした。女の子が無表情に置き上がって立ち去ると、今度は自分が金をねだっている。どうにもやりきれない光景である。
 一方、せがれは、そんな親のユーウツにはお構いなく元気いっぱいで、コロッセオでも崩れかかった積み石の上を駆け回っては、足を踏み外したりしている。
 おまけに突然
「オシッコ!」
と叫んだものだから、ひと騒ぎ。やっと見つけた便所の入口には頑丈な扉がついており、あまつさえ鍵までかかっている。
 やむなく戸口の婆さんにチップをやって鍵を開けてもらった私は、妻に向かってこう言った。
「勿体ないから、明日の分までさせて来い!」
 子供が出てくるまでの間、私はあわよくばチップを返してもらおうという魂胆から、「グラッチェ」
「ボンジョルノ」
「スパゲティ」
などと、知っている限りのイタリア語を並べて、婆さんの機嫌をとろうとした。
 婆さんは不思議そうな顔で私を見ていたが、そのうちプイと後ろを向いてしまった。
 無論、チップはそのままである。

☆☆☆

「ナポリを見て死ね」という言葉がある。その絶景を見ずして死んでは勿体ない、ということであろう。
 それならば、と思って行ってみた。
 それほどの所ではない。あの程度の景色を見て、思い残すことがなくなってしまうというのは、それだけ南イタリアが景色に恵まれていないということなのだろう。
 ただ、さすがに本場だけあって、マカロニ料理の美味さは格別である。
 日本で言うところのスパゲティ・ナポリタンのような味付けをした太いマカロニが、大皿に山と盛られてくる。せがれも大いに気に入ったとみえ、椅子の上に立ち上がって、口の周りを真っ赤にしながら夢中で食べていた。
 が、そのうち何をどうしたものやら、椅子ごと仰向けにひっくり返ってしまった。火のついたように泣き出した子供に中年のウエイターが駆け寄り、後頭部を濡れタオルで冷やし、オレンジを見せながら、何やらイタリア語であやしている。
 こういう時、近くのテーブルで食事をしている人達は、決して日本人のように見て見ぬふりをしたりはせず、一斉にこちらを見て、口々に大丈夫かと訊く。それが英語であるところをみると、彼らも観光客なのであろう。
 彼らにとっては、旅先のレストランで自分達には全く関係のない東洋人の子供がひっくり返ったというだけのことなのに、こうして親身になってくれるというのは驚きである。

 泣き止んだ息子を連れて、ポンペイの遺跡を見学に行く。子供のころ本で読んで以来、この目で見たいと念じ続けてきた所である。
 まず小博物館に寄る。出土品の大部分はナポリの国立考古学博物館に収められている由だが、ここにもかなりの物が展示されている。
 日用品、医療器具等の立派さは驚くばかりだが、とりわけ感動的なのは、ガラスケースに収められた石膏像である。
 火山灰に埋もれた人間や動物の死体は年月を経て腐り、消滅する。そのあとが空洞になるので、そこに石膏を流し込むと、死体の形がそのまま復元できる。
 逃げ遅れて倒れた人間や犬の形がそのまま保存されている様はいかにも生々しい。母親が子供をかばうように倒れている姿がそのまま再現されているのを見ると、言葉もない。
 その他、車道と歩道を分けた石畳の街路、車が乗り上げないように工夫された飛び石の横断歩道、さらには焼いたパンが載ったままのテーブルなど、遺跡というにはあまりにもリアルで、今もそこで様々な生活が営まれているような感じがする。とりわけ娼婦の館などは、今にも窓から妖艶な女が手招きでもしそうな錯覚を起こさせ、私は慌てて目をそらした。

☆☆☆☆

 芸術的素養のないということは、悲しいものである。
 ルネッサンス美術の宝庫といわれるフィレンツェでのこと。
 有名なダヴィデ像の前に立った。かつて日本のある女優がその像を見て、あまりの感動に動けなくなったと言っていたが、あいにく私はそのとき尿意をもよおしており、動けぬどころか少しもじっとしておれず、そそくさと引き返してしまった。

 また、ミラノの大聖堂で、気違いじみたゴシックの装飾建築に、外がこれだけゴテゴテしているのだから、内部はさぞかし迷路のごとく複雑であろうと想像したところ、案に相違してガランドウなので拍子抜けしてしまった。
 そういう私の息子に、芸術的興味など湧こう筈はない。
 スカラ座に連れて行っても、『最後の晩餐』のあるサンタ・マリア・デッレ・グラッツィエ教会に連れて行っても、全く関心を示さない。
「ダ・ヴィンチだぞ。レオナルド・ダ・ヴィンチだ。よく見ろ。ほら!」
「オシッコ!」
 幸いトイレはすぐ見つかった。日本人観光客が大勢いて、コインを入れないとドアが開かないと言い合っている。
 私はポケットを探り、いくつかのコインを取り出した。どれを入れればいいのかと思って投入口に顔を近づけたとき、50歳ぐらいの男性が「5円玉で大丈夫でしょう」と言い出した。どうやったらそういう考えが出てくるのか不思議だが、こちらとしては急いでいるので、そんな実験に付き合ってはいられない。
「ダメでしょう」と言って、また料金を確かめようとした。するとその人は「大丈夫ですよ」と言って5円玉を入れてしまった。
 ドアが開かないのは無論のことだが、その5円玉が詰まってしまい、そのあと正規のコインが入らなくなってしまった。これで男性用のトイレは使えないことになり、女性用を見るとオバサンたちが列をなしていて、とても待っていられる状態ではない。
 私は公衆便所を求めて外に飛び出した。
 やっとのことで用を済ませたあと、せがれは何事もなかったように、ショーウインドウを覗き込んでいる。興味の先は扇風機で、ガラスに鼻をペッタリと押し付けて、いつまでもいつまでも眺めている。
 と、1台の真っ赤なアルファ・ロメオが走って来て、近くに止まった。
 子供が目の色を変えて、
「スーパーカー」
と叫んだ。私が運転席の若者に、すばらしい車だ、乗せてくれないか、と話しかけたところ、怒ったような顔で、英語は判らないと言う。
 諦めて引き返そうとすると、子供が
「スーパーカー、スーパーカー」
と言いながら車を触り始め、それを見た若者が車から降りてきた。
 私は叱られるのかと思ってドキッとしたが、若者は黙ってせがれを抱き上げ、車に乗せてくれた。
 子供は大喜びで、汚れた靴のままシートの上を歩き回り、
「サンチュン!」などと言っている。これはサンキューの間違いなのだが、若者が頷いているところを見ると、どうやら私などより話が通じているらしい。

☆☆☆☆☆

 ミラノからスイスのルツェルンまでは、バスで行った。
 国境は、道路に黄色い線が引いてあるだけ。一応検問所はあり、バスの運転手が窓越しに何やら見せてはいるが、乗客一人ひとりの審査はない。
 その間に、赤十字の腕章をつけた若い女性が乗り込んできて、ミルク缶を模した小さな募金用の缶を持って乗客の間を回る。
 まだスイス・フランを持っていない、と言うと、イタリアの貨幣でも良いと言う。それなら、と残ったリラを全部やってしまったが、後で、スイスでも結構リラが使えると聞き、口惜しさに涙が出た。
 バスは走り続け、子供のころからの憧れであるアルプスの山々が、絵葉書そのままの形に見えてきた。サンゴタール峠を越えれば、ルツェルンまでは下り坂になる。
 と、それまで眠っていたせがれがモゾモゾと起き上がって、
「オシッコ!」
 もとより予想したことであり、さればこそオムツ代わりのパンツを山ほど持参しているので
私は慌てず、
「そのまましろ。あとで取り替えてやるから」
 せがれは困惑した顔で、出ないと言う。
 そこで、今度はパンツを脱がせ、オチンチンにビニール袋をかぶせた。
「しろ! しろ!」
 出る気配は、さらにない。
 やむなく、運転手に臨時停車を頼むことにした。彼は雲をつくような大男のドイツ人で、英語は全く判らないと言う。私はかつてドイツ語を学んだ筈であり、そのくらいの交渉はできるつもりであった。それに妻の手前もあったから、私はひときわ声を張り上げてドイツ語を喋った。
 ところが、これがまるで通じない。
 ついに私は、子供を運転席まで連れて行き、
「トイレッテ!」
と叫んだ。
 妻は明らかに失望の目つきで私を見ていたが、ともあれ運転手は事態を察し、バスをドライブインに停めてくれた。
 子供を抱えてトイレに飛び込んだ妻が、駆け戻って来た。
 コインを入れないと、ドアが開かないと言う。国境、それも道路の料金所のような所を通過したばかりであり、スイスのコインなどある訳がない。
 半分泣き出した息子の声が聞こえてきた。
「オシッコー!」
 私の目の前は、真っ暗になった。


 
本稿は、旅行のあと地方のタウン誌に掲載されたものですが、30年以上経って、時制の表現が合
わなくなってきましたので、一部修正しました。

 


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