欧州子連れ旅(2)


温かい人、冷たい人

☆☆☆☆☆ ☆


 
 ユングフラウ・ヨッホへの登山電車は、グリンデルワルドから出る。
 まず、アプト式のユングフラウ鉄道でクライネシャイデックへ。オモチャのような電車でゴトゴト登る気分は悪くない。
 車掌が検札に回ってくる。私達は3人分の切符を買っていたが、息子の年を訊かれ、もうすぐ2歳だと答えると、それなら無料だと言う。
 なにか、有料で乗ったことが悪いような口調で、こちらが返事に詰まっていると、そのまま1枚を持って行ってしまった。それで料金を返してくれるわけでもない。オイオイと思ったが、車掌の有無を言わせぬ態度に気押され、そのままになってしまう。
 カウベルをつけた牛たちの間を縫うようにして急坂を登り、クライネシャイデックで乗り換えると、電車はやがてトンネルに入る。約70年前に日本の技術によって作られたもので、アイガー、メンヒのどてっ腹をくり抜いている。乗っているうちにだんだん寒くなってくるのが分る。
 トンネルの中にはアイガーバンドとアイスメーアという2つの駅があり、両駅の窓からは外が展望できるようになっている。
 停車時間はわざと長めにとってあるとみえ、乗客がどっとホームに降りる。私達も降りたが、景色を見るよりトイレを探すのに時間がかかってしまい、発車間際に駆け戻る。
 3,454 メートルの鞍部に出ると、見渡す限りの銀世界で、雪が横から吹きつけてくる。  足元が凍って危ないので、せがれを抱いて歩いていたところ、その私がツルッと滑ったものだから、さあ大変。かろうじて硬い氷は避けたものの、子供を新雪に押しつけてしまった。可哀そうに、口の中に雪を咥え込んでブルブル震えている。
 それを見たアメリカの婦人が、キャンデーを1粒くれた。
 どうせくれるのなら、もっと沢山くれたらよさそうなものだが、たった1粒である。
 そういえば、この旅行中、せがれはやたらに物を貰ったが、それらはいつも、チョコレートひとかけらというようなものであった。
 ハイデルベルクのホテルのフロントマンが、その日がせがれの誕生日と知って、プレゼントをすると言い出したことがあった。私はドイツ名産のミニチュアカーでもくれるのかと思ったが、出てきたのは何と、チューインガム1枚であった。
 ただ、そういう時の彼らの表情は、いかにも好意に満ちており、自分の出した物が少ないなどとはまるで考えていないのが、かえって私達の胸を打った。
 この時のキャンデー1粒がまたそうであり、婦人の善意が溢れた笑顔は、今もはっきり目に浮かぶ。
 息子はその後しばらく、会う人ごとに
「スイスに行った」
と話していた。本当はどこに行ったか分っていた筈もないのだが、漠然と、皆に可愛がってもらったことだけは感じていたのだろう。
 人々の親切はいつまでも覚えていて欲しいが、私が転んだことは、早く忘れてもらいたいと思ったものだ。

☆☆☆☆☆ ☆☆

 インスブルックでは、チロリアンダンスのショーを観に行った。
 場末の映画館風の建物に入ると、うす暗い室内に団体客らしい人達が通路にまで溢れて、ワイワイ騒いでいる。
 前の方に陣取っている賑やかな老人たちは、イギリスからの観光客だということであったが、個人で来ている客もかなりいるようで、いずれも他国からの旅行者らしい様子に見えた。
 私達も、やっと空席を見つけて、ビールを注文した。
 ショーは、チロリアンダンスやヨーデルを組み合わせたコミカルなもので、とくに木こりの手さばきやミルクしぼりの仕草をユーモラスに取り入れたもの、手と足を交互に打ち鳴らす踊りが面白い。
 アルプホルンの演奏もあり、私達も次第にその雰囲気に酔い始めた。
 ただ、ヨーデルの響くたびに せがれがとてつもない大声で真似をするのには閉口。 その都度、周りの人が振り向いて、笑いながら息子に声をかけてくれるので、よけいに恐縮してしまう。
 それなのに、親の気も知らぬ本人はいい気なもので、突然トコトコと歩き出したかと思うと、あろうことか、横の階段を登り、悪びれもせずステージに上がってしまった。
 私達はスイスで子供にチロル服を買い与えてあり、この日はちょうどそれを着せてあった。つまり、偶然にもせがれは、踊り手達と同じ衣装でステージに立ってしまったのである。
 200人近い観客が一斉に立ち上がり、口々に何か言いながら せがれに拍手を送り始めた。
 私は狼狽し、
「降りろ! 馬鹿。こっちへ来い!」
と叫んだ。
 せがれは、そんな私をまったく無視し、観客に合わせて自分も手拍子を打ち始めた。
 やんやの喝采の中、フラッシュがたかれ、口笛が鳴り、子供はますます調子に乗り、もはやどうにも収拾がつかなくなるに及んで、ついに私も諦め、一緒に拍手を送り始めた。
 もう、どうにでもなれ、という心境であった。

☆☆☆☆☆ ☆☆☆

 ドイツ人というのは、どうも不思議な人種である。
 アウグスブルクで、せがれがオシッコ、と言い出した時のこと。ホテルか喫茶店を利用しようと思ったが、どうしても見つからない。やむなく近くのオフィスに飛び込んで事情を話したのだが、この先に公衆便所があるからそこへ行け、と取り付く島もない。オフィスにトイレがない筈はないのに、不親切なことである。
 子供を抱えて「まだだよ」「まだだよ」と言いながら、汗びっしょりになって数百メートルも走り、やっと地下のトイレに辿り着いた時には、ホッとするより、腹が立ってきた。  ドイツ人が融通のきかない国民であることは、常々聞いていたが、子供のオシッコぐらいさせてくれてもいいのに、と思う。
 そういう不親切さはあちこちで感じたが、フュッセン郊外のノイシュヴァンシュタイン城でもそうだった。
 ノイシュヴァンシュタイン城は、男色、精神異常、浪費、そして謎の事故死というように、歴史の裏側で名の残るバイエルン王ルートヴィッヒⅡ世によって建てられた、城というよりは館というべき建造物である。
 城は、中世騎士道への憧れと形の美しさだけにこだわる王の趣味で作られた。確かにお伽の国の城のようで、ディズニーランドの城のモデルにもなった。
 17年かけて作られたこの城にルートヴィッヒⅡ世は心躍らせて居を移したが、その 102日後に反対勢力によって他の城に軟禁され、その翌日、死体で発見される。
 その城へは長い坂道を登ることになるが、そこは観光地のこととて馬車もあり、御者が所在なさげにタバコを吸っている。
 それも一興と思って、乗り込んだ途端に動き出した。値段を訊くと6マルクだと言う。マルクは持っていなかったが、フュッセンは国境の町であるからオーストリアのシリングが使えるかも知れないし、観光地であるからドルでもなんとかなるだろう。
 そう思ってシリングかドルで払いたいと言ったところ、ニベもなく断られた。早口のドイツ語で、私には全く判らないが、どうやらさっき馬車に乗った所にホテルがあるから、そこで両替をしてこい、と言っているらしい。
 そんなことを言ったって、馬車はもう走り出しているではないか。私は飛び降りようと子供を抱いたが、既に馬車は相当なスピードで坂道を駆け上がっていた。
 では彼らが、規則一点張りのガリガリ亡者かというと、そうでもない。
 ヨーロッパ各地で、どの車もきちんとシートベルトをつけて走っているのを見て感心したものだが、ドイツでは、どこの町でもあまりベルトは見かけなかった。
(1977年の話です)
 それよりも、驚いたことに、ドイツの歩行者はほとんど信号を守らない。私達が赤信号で立ち止っている目の前を、車をよけながらどんどん渡って行く。
(これは2010年でも変わりませんでした)
 私は、意地でも渡るものかと頑張っていたが、それを見たドイツ人達は、「日本人というのは、なんて融通のきかない国民なんだろう」と思ったかも知れない。

☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆

 中世ドイツの都市国家では、外敵から町を守るために町の周囲を城壁で囲んでいた。町の中心にはマルクト広場があり、広場に面して市庁舎が建てられている。
 ローテンブルクはそうした特徴をよく残している町で、日本人観光客が多い。
 市庁舎横の宴会場の壁にあるマイスター・トリンケンの仕掛け時計はつとに有名で、時間になると大勢の人が集まる。
 30年戦争のさなか、新教側についたローテンブルクが旧教側の将軍ティリーの大軍に敗れた。このとき市の役人の斬首を申し渡したティリーが「もし、このワインを一息に飲み干す者がいたら斬首はやめる」という条件を出したのに対して、老市長が自ら3リットルのワインを飲み干して町を救った。
 仕掛け時計は毎日4回、人形によってその時の様子を演じている。
 とても史実とは思えぬが、別段目くじらを立てることでもないし、人形の単純な動きが却って 300年以上も前の人々の思いを伝えているようにも思える。
「ヤーパン(日本人)?」
 声を掛けられて振り向くと、年配のドイツ人男性が立っていた。いかめしい顔つきで、背筋をピンと伸ばしている。
「ヤー(そうです)」
と答えると、
「サムライ」
と言う。ニコリともせず、何を考えているのか判らない。私が曖昧な作り笑いをしていると、今度は息子に向かって、サムライ、と同じことを言う。
 話はそれで終ってしまい、何だったのか、今でも判らない。
 ちょうどその時、明るい、心弾むような鼓笛のリズムが聞こえてきた。十数名のバトントワラーが、ブラスバンドを従えて広場を一周する。
 バトントワラーは白のTシャツに白のパンタロン。いずれも目を見張るプロポーションで、私は涎を垂らしながら見とれていた。
「オシッコ!」
 いつも、いい所でせがれに邪魔をされる。
 路地を入った所に小さなホテルがあったので、訳を話してトイレを借り、妻が子供を連れて入る。私はホテルの前で待っていたが、音だけが聞こえてくる行進曲に、恨めしさが募るばかりであった。

☆☆☆☆☆ ☆☆☆☆☆

 ヨーロッパでは、夕食の際に必ずスーツを着用するように、とガイドブックに書いてあった。
 冗談ではない。たかがメシを食うのに、どうしてネクタイなんぞを締めなくてはならんのか。私はふだん、夕飯前にひと風呂浴びて、夏ならパンツ1丁でまずビールを飲む。これぞ夕食である。
 国内旅行では、何を置いてもまず露天風呂。その後浴衣で夕食というのが定番だろう。
 そう思って、ヨーロッパでも毎晩ジーパンにTシャツでレストランに入った。どこに行ってもたいてい日本人がおり、見ればなるほど、皆例外なく高そうなスーツを着ている。ところがそれは日本人ばかりで、西洋人はほとんどが開襟シャツ、無論ノーネクタイである。
 私はホッとして、楽な格好で食事を続けた。
 ただ困ったことに、ふだん15分かそこいらでラーメンなどすすらせているものだから、1時間も2時間もかかる夕食に子供が飽きてしまって、とても静かに坐っていない。
 一度など、アウグスブルクのレストランで「タッチすう(立っちする)! タッチすう」と、さんざん愚図った挙句に、とうとう泣き出したので、食事の途中でロビーまで連れ出した。
 すると更に大声で泣き出し、
「アッチくう!(あっちへ行く)」
と言う。
 やむなく席に戻ると、今度はフォークを床に投げつけて、何だかんだと愚図り始める。
 そこでまたロビーに連れて行くと、
「アッチくう!」
と泣く。
 いったい何度往復しただろうか。その度に大声で泣きながら歩くので、食事中の客が一斉に振り向く。
 私は精根尽き果てて、せがれを妻に押しつけた。
「俺はもう知らん。お前が面倒見ろ!」
 その妻に、せがれは涙をポロポロ流しながら、今度は「オシッコ」と訴えた。
 妻は赤面しながらトイレに連れて行き、暫くして席に戻って来た。トイレでよく言い聞かせ、いい子で食べる約束をしてきたと言う。
 それを聞いた私が大きく息を吐いた途端、せがれが叫んだ。
「ウンチ!」
 私はもうすっかり食欲をなくし、あとの料理を断って外に出た。
 泣きたいのは、親の方であった。

 本稿は、旅行のあと地元のタウン誌に掲載されたものですが、30年以上経って、文章の時制が合わなくなってきましたので、一部修正しました。


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