この言葉、なんとかなりませんか(6)


 
おぐしがおみだれにおなりになって・・・

 
テレビの番組で、有名人へのインタビューをしている人がいる。
 若いころ早口でならし、今も相当な早口だ。
 それはいいのだが、インタビューで使う言葉が馬鹿っ丁寧で、耳障りである。
「あなたのお父様はお若いころお背がお高くてハンサムでいらっしゃったから、さぞかしおもてになられたでしょうね」
 という具合。
 こう書くと漢字交じりの文になっているからまだ判りやすいが、耳で聞くと
「アナタノオトオサマワオワカイコロオセガオタカクテハンサムデイラッシャッタカラサゾカシオモテニナラレタデショウネ」 
 となる。加えて先述の早口で文節の区切りもないから、ときどき意味が判らなくなる。
「あなたのお父様は若いころ背が高くてハンサムだったから、さぞかしもてたでしょうね」
 で十分ではないか。失礼でもぶっきら棒でもないだろう。

「ご結婚あそばしたのはおいくつのときでいらっしゃいましたか」
「いつもお着物をお召しになられてそれがまたお似合いになるからすてきですねえ」
「何回もご病気をなすったそうですがもうすっかりお丈夫におなりになってようございましたわねえ」
「お母様がお亡くなりになられたときはあなたもずいぶんお泣きになられましたでしょう」
「歌詞をお貰いになられたときどうお思いになられましたか」
「お歌をお歌いになるときはお立ちになってお歌いになるのとお座りのままお歌いになるのとどっちがお歌いになりやすいですか」
 こうなるともう、早口言葉にしか聞こえない。
 可愛らしいという言葉も、「おかわいらしい」と言われると少女の愛くるしさなどは感じられず、とってつけたわざとらしいお世辞にしか聞こえない。
 なんでもかんでも「お」をつけて喋れば上品に聞こえるとでも思っているのか、あるとき「お写真をお撮りながら・・・なさるのは・・・じゃごさいません?」などと言っていたが、「お撮りながら」とは呆れた言い回しだ。却って話し手の気取りが目立って、話し全体の品位が落ちる。

 無論、敬語は大切である。
 日本語はその点で世界でも最も高度に進化した言語であるとも思う。ひとくちに敬語と呼ばれているが、尊敬・謙譲・丁寧といった細やかなニュアンスに応じた言葉が用意されており、その使い分けは言葉の芸術といってもよい。
 例を挙げれば「言う・申す・おっしゃる」、さらに「言われる・おっしゃられる」「申し上げる」など。「say」しかない英語より遥かに複雑なニュアンスを表現できる。

 敬語という分類には属さなくても、彼我の立場をそれとなく表現する言葉も揃っている。
 たとえば一人称二人称の多様さはおそらく他に類を見ないであろう。「私(わたくし・わたし)・僕・俺」「私たち・私ども・手前ども」など、どの一人称を使うかで相手に対する自分の位置を表現できる日本語は、まことに便利である。単数一人称が「I」、複数一人称が「we」しかない英語に比べて格段に細やかな言語と言える。
 それなのに、近頃は馬鹿な芸能人などが折角の日本語を生かせず、公共の場でも目上の人相手でも「俺」という一人称で喋っている。嘆かわしさを超えて嫌悪感を抱いてしまう。
 外国人にとって日本語は難しいと言うが、なに、日本人にだって一人称が手におえない奴はいるのだ。
 二人称もまた、豊かである。
「あなた・君・お前」「あなたたち・あなた方」、ときにはもっと下品で粗暴な二人称もあるが、相手に対する話者のスタンスを二人称の使い分けによっても鮮やかに示すことができる日本語は、すべて「you」で済ませてしまう英語などとは大違いだ。 

 かく日本語は高度に構築された言語であり、敬語・丁寧語の効用を書いていたらきりがない。
 とはいえ、なにごとも過ぎたるは及ばざるが如しという。

 原発事故の状況を記者団から質問された担当者が、「放射性物質が漏れてございます」「現在原子炉建屋の中に作業員が入ってございます」「格納容器の一部が破損してございます」などと言っていた。
 ずいぶん変な言葉使いだなと思っていたら、続いて「・・・と思ってございます」ときた。
 そのあと何度も「ございます」を聞いていて、やっと気がついた。くり返される「ございます」を全部「います」に変えると普通の言葉になるのだ。
 つまり「います」を丁寧に言ったつもりなのだろう。なんともはや、気の毒な御仁だ。
 またあるときは、宮崎県のタレント知事が「(あの方は)オタタカイになられているんじゃないでしょうか」というようなことを言っていたが、オタタカイ(お戦い)というところで舌がもつれていた。ずいぶん無理をして敬語を使っているようだ。
 そもそも「お-動詞-になる」という言い方は、相手の動作に対する共感、好意、敬意などが下敷きになっているものであるから、人としてすまじき行為や下品な感じ、怖い感じなどを伴う動詞に使うのは不自然である。
 頭を掻く、目をこする、屁をひる、糞をたれる、などを「お掻きになる」「おこすりになる」「おひりになる」「おたれになる」と言ったら噴飯ものであろう。「お戦い」はその類だ。
 逆に、「お聞きください」「お立ちください」あたりは抵抗なく聞ける。要は動作の内容によるのだ。動詞に「お」をつけるときは気をつけた方がいい。
 
 その点、名詞は分かりやすい。
 たとえば「餅」に「お」をつけて「お餅」というだけで、ありがたさや感謝の気持がにじみ出てくる。「カネ」というとなんだか汚いものに感じられるが、「お金」というと汗水たらして手に入れた尊いもののような響きが出てくるから不思議だ。
 逆に「お雲」「お羽子板」「お雷」などと言われたらオイオイと思ってしまう。「おトンボ」「おカマキリ」「お虫」などと言われたら、それこそ虫図が走る。「お馬」「お米」「お腹」などは耳に心地よく響くが、「お象」「お牛蒡」「お肛門」と言われてすんなり聞ける人はいまい。
 つまり、捨てがたい効用をもつ「お」ではあるが、つけられる名詞によっては相性というものがあり、それは動詞よりかなりはっきりしている。
「お」そのものに罪はなく、使い手が中庸を心得ているかどうかが問題なのは言うまでもない。だから「お」や「ご」を目の敵にして意識的に排除するなどというのはお門違いというものだろう。
 私の同僚で「ご飯のおかず」というのを「はんのかず」と言う奴がいたが、馬鹿も極まる。
 なんでもそうだが、程度というものがある。

 わざとらしい敬語、くどい敬語、不自然な敬語。みな願い下げだ。
 そういう過剰な尊敬語、丁寧語を使っている人を見ると、慇懃な言葉使いの裏に相手より高みに立ったペダンティズムが見え隠れしていて、鼻につく。
 さきほどのインタビュアーも、敬語・丁寧語の乱用でちょっと聞くとへりくだっているようだが、会話の中身を聞いていると、明らかに相手を自分よりも下に見ている。
 そういう人を見ていると、いっそ、汗をかくほど緊張して「私はそうおっしゃいました」などと言っている人の方が愛嬌もあり、一生懸命さが伝わってきて親しみが湧く。日本語は複雑なので、とくに敬語などでは言い間違いも多い。それは仕方のないことで、重箱の隅をつついて目くじらを立てることもない。
 ただ気をつけなければならないのは、その複雑さがしばしば話者の自己防衛に利用されることである。敬語や丁寧語を多用して自分をへりくだっているように見せかけたり、相手の自尊心をくすぐったりするが、その根底は自己防衛である。
 もう一つ気をつけたいのは、そういう敬語や丁寧語を自在に操る様を見せて「どんなもんだ」とばかりに自分の能力をひけらかす態度である。
 能弁は銀、沈黙は金という。私は沈黙が金だとは思わないが、ぺらぺらと言葉を飾る喋り方よりマシであることは間違いない。朴訥でも誠意から出る言葉には金の輝きがある。
 世の中おしなべて責任回避、自己防衛に流れ、不必要で曖昧な物言いが蔓延している今日、過剰な敬語や丁寧語がその風潮を助長していることは残念の極みである。
 
     
武則天考  『長恨歌』再読 
       
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