『長恨歌』再読


中国、華清池にて



     小倉利三郎先生。高校時代の恩師である。白髪混じりで、生徒からは「ごま塩」と呼ばれ
    ていた。
     その小倉先生から、私たちは、白楽天の『長恨歌』をおそわった。先生は、訥々と、じつ
    に訥々と、その長い詩を講じておられた。
     正直なところ、その授業は退屈であった。詩の内容も殆ど理解できず、ただ、なにやら艶
    めかしい気配だけを感じた。
     ニキビ盛りの私たちは、そういう部分にばかり興味を持ち、不謹慎にも、先生に食い下が
    った。
     楊貴妃と玄宗皇帝は、2人で何をしていたのですか。詳しく教えてください。
     先生は、私たち子供の目にもそれと判るうろたえた様子で、当たり障りのない、従ってし
    ごくもの足りない説明をして、教室を出て行ってしまわれた。
     私たちは顔を見合わせ、これはきっと、すごい意味があるんだ、と頷き合った。

     昨年(1985年)の夏、私は機会を得て、その長恨歌の舞台である中国西安の華清池を訪ね
    た。先生を困らせた日から、20数年が経っている。
     その華清池はしかし、行ってみるとちっとも艶めかしくはなく、楊貴妃が入ったという風
    呂など見ても、

       温泉水滑洗凝脂 (温泉水滑らかにして 凝脂を洗う)
 
    という光景が、どうも彷彿としてこない。
     池の周りは人、人、人。言葉の解らない私は、甲高い中国語の渦に翻弄されて、落ち着か
    ないこと、この上もない。
     おまけに、中国の人たちは写真が好きで、あっちでもこっちでも、大騒ぎをして写真を撮
    り合っている。見ていると、男は凛と、女はしゃなりと、必ずポーズをとる。写す方も写さ
    れる方もそのポーズにこだわるものだから、とてつもない時間を要する。しかも、1枚撮る
    と必ず交代してまた撮るものだから、いつかな終わる様子がない。
     私が、じれったくなって、シャッターを切ってやるから2人で並んだらどうかと勧めたと
    ころ、ことのほか喜び、池の縁に立つや、ぴったりと寄り添ってファッション雑誌のモデル
    のようなポーズをとった。
     私は馬鹿々々しくなったが、まあ日中友好のためだと思って、シャッターを切ろうとした。
    ところが、カメラは日本では滅多に見られなくなった旧式の二眼レフで、どれがストローク
    だか分からない。あれこれいじっているうちに私は本当にいやになり、これは駄目だと言っ
    て、カメラを返した。2人は写ったと思ったらしく、満面に笑みを浮かべて、
    「謝々、謝々」
    と、礼を言っている。私は説明するのも億劫だし、そもそも中国語なんぞ知らないので、
    「不客气(プークーチ、どういたしまして)」
    と言って、知らん顔をしていた。どうも日中友好の足しにはなりそうもない。
 
     それにしても、そのカップルの女性といい、周りを歩いている娘たちといい、中国の女性
    には押し並べて美人が多い。
     勿論、現代中国の働く女性に、  
  
      侍児扶起嬌無力
 (侍児たすけ起こせば 嬌として力無し)
 
    という悩ましい風情を求めるのは無理であるが、水面に小石を投げては遠慮がちに笑い合っ
    たりしている若い子などを見ると、
  
      太液芙蓉未央柳
 (太液の芙蓉 未央の柳)
 
    という一節を想起するのは、いとやすい。
     あのような可愛らしい娘に向かって、

      在天願作比翼鳥 (天に在りては願わくは 比翼の鳥となり)
      在地願為連理枝 (地に在りては願わくは 連理の枝とならん)

    などと熱っぽく語りかけるとしたら、中国の男はなんという幸せなことであろう。

     さて長恨歌という長い漢詩について、私は長い間、大袈裟な言葉を弄んだ詩人の遊びとい
    うようなイメージを漠然と抱いていた。
     しかし、今回、実際に中国という国に行ってみて、見渡す限りの平原をこの目で見、気宇
    壮大な思いに浸っていると、断片的にしか覚えていない詩の各節が、じつにしっくりと心に
    沁みてきて、嬉しい限りであった。
     帰国後、その高揚感につられて、本棚の奥からあの『長恨歌』を引っ張り出して、読み直
    してみた。恥ずかしながら詩の大部分はやはり理解できなかった。
     というより、どうも高校時代よりもさらに理解ができなくなったように思える。
     思えばあの時はとにもかくにも小倉先生の解説つきであり、表面的な意味だけは分かった
    つもりでいた。その後読み返すこともなく過ぎて、今また字面を追ってみても、殆どの文言
    は忘れている。
     もう一度先生の解説を拝聴したいところだが、不幸にして先生は既に他界されている。教
    え甲斐のない生徒のためにもう一度この五濁悪世にお出でくださるとも思えない。
     けだし、勉強はすべきときにしておかなければならないということであろう。
     それが分かっていながら、今またこの稿にうろ覚えの字句を連ねたりしたのは、汗顔の至
    りである。
     ではあるが、それも旅というものが人を一瞬ロマンチストにする魔力を持っているせいで、
    私自身、自分に呆れたりしているのだから、まあ、お許しを願いたい。

 
     注釈
         温泉水滑洗凝脂   温泉の水は滑らかに、白く艶やかな肌を洗う。

         侍児扶起嬌無力   侍女が助け起こすも、力なくしなだれる艶めかしさ。
         太液芙蓉未央柳   太液池の蓮の花は貴妃の美しい顔のようであり、未央の柳は貴妃の美し
                   い眉のようである。
         在天願作比翼鳥   
         在地願為連理枝   天上にては比翼の鳥のように、地上にては連理の枝のように、いついつ
                   までも仲の良い夫婦でありたいものだ。
                    比翼の鳥・・・雌雄ともに目が一つ、翼も一つで、二羽で一体となっ
                           て飛ぶ鳥。 
                    連理の枝・・・二本の木から伸びて一本につながっている枝。

  

                 
※ 初めての中国旅行の翌年、勤務先の図書館報に載せた文章です。


この言葉、なんとかなりませんか(6) 真剣に生きる
     
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