武則天考 (孤独と恐怖と憎しみに突き動かされた女帝)


 則天武后。
 そう聞いただけで、詳しいことは知らなくても何となくおどろおどろしい悪女のイメージが湧いてくるのはなぜだろう。
 西安郊外にそびえる乾陵に唐第3代皇帝高宗と合葬されている、れっきとした皇后であり、中国の歴史上ただ一人の女帝でもある。それが悪女だの妖女だのというのは、なぜだろう。
 そんな疑問を漠然と抱きながらも、改めて調べてみようという気もないまま過ぎていた大学時代、東洋史の授業でY先生から身の毛もよだつ話を聞いた。
 先生は、「不確かな伝承ですよ」という断りを何度も挟みながら、武后の権謀術数と非道について生々しく語ってくれた。自分の意に添わぬ者は考え得る最も残虐な方法で殺し、その数は100人を超えるという。
 高校で則天武后について教わったのは、「高宗のあと皇位につき、国号を『周』と改めた」というだけだったと思う。後年私は高校で世界史の授業をするようになったが、確かに教科書では2行の扱いであった。
 それにひきかえ、先生の授業は詳細で、歴史上の人物を生の人間として活写してくれた。
 余談になるが、歴史はダイジェストで学ぶより詳しく学ぶ方が頭に入り易い。そのことを教えてくれたのはその先生であり、私は自分が歴史を教えるようになってからも、各年度の教科書選定にあたって「要説世界史」よりも「詳説世界史」の採択を強く主張するようになった。
 
 さてY先生は、学者の用心深さで「不確か」「不確か」と繰り返していたが、私はそんなことにはお構いなしで、先生の話を鵜呑みにした。
 とりわけ武后の極端でおぞましい言動については、ホラー映画でも観るような気分で聞き入り、たちまち脚色だらけの武后像を作り上げると、恥知らずにもそれを人に語ったりもした。
 その後自分でも少しは調べてみると、なるほど不確かなことだらけで、生涯の場面ごとにほぼ正反対の言い伝えがある。それらの組み合わせによっては「高官の子として生まれ、類まれなる美貌を武器に皇帝にまで上り詰めた才女」にもなるし、「商人の子として生まれ、不器量できつい顔貌ながら先を読む才に長け、徹底的に敵を排して皇帝にまで登り詰めた女」ともなる。
 武后の冷血ぶり残虐ぶりを伝えるエピソードも枚挙にいとまないが、どれも虚実は定かでない。それぞれに異説もあり、大衆受けを狙った誇張もありそうだ。
 だから後年自分が歴史を教えるようになると、さすがにあまり不確かなことを並べ立てるのはどうかと思い、だんだん頭の中にある武后像は落ち着いたものになっていった。
 この稿で述べようと思うのは、伝えられるエピソードの中でも比較的異説の少ない、まあまあ事実だろうと思えるものを繋ぎ合せて整理した武后の生涯である。
 もちろん「確かだ」と断ずる部分は皆無であり、ここはY先生に倣って予め「不確かな伝承です」と断っての考察を試みたいと思う。

 武后は7世紀初めの唐で西安南西の地方役人の次女として生まれた。材木商という記録もあるが、地方の行政組織がどこまで確立されていたのか怪しい時代でもあり、有力商人が役人もしていたのかも知れない。
 ともあれたいした身分ではない。その父は娘が将来皇后になればという期待を込めて媚娘という名をつけた。媚娘とはまた妖しげな名前であり、身分からしても途方もない望みであるが、そんな夢を抱かせるだけの容姿を持って生まれたということであろう。
 現に少女媚娘について史書には「漆黒の髪、大きな目、雪のような肌、桃色の唇、薔薇色の頬、豊かな胸、聡明な頭脳をもち、その媚笑は見る者を魅了した」と最大級の賛辞が並べられている。
 14歳で第2代皇帝太宗の後宮に入り才人となった。
 この「才人」という身分は7階級ある宮女の身分でいうと下から2番目で、低いといえば低いものであるが、それでも数知れぬ宮女の中での位置としては選びに選ばれた数十人の1人である。やはり並はずれた美貌を持っていたということであろう。
 ちなみに第8代玄宗のころには「後宮の華麗三千人」という表現があり、宮女の実数は4万人だったということであるから、太宗の時代にも宮中に身を置く女の数は千人単位であったと思われる。
 媚娘の容姿については、男のように背が高く、眉の濃い角ばった顔で、決して美人ではなかったという説もあるが、それでは面白くないから私は妖艶な美女だったという説に従うことにする。
 このころ媚娘が何という名で呼ばれていたか私は知らないので、一応「武照」ということにしておこう。武照は諱(いみな)、つまり死後に贈られた名であるから、実際にそう呼ばれていたわけではない。
 太宗は武照を寵愛するが、武照のあまりの聡明さに却って警戒心を抱き、次第に疎遠になる。
 武照は身の危険を感じ、保身のため太宗の子である李治を籠絡する。李治は手もなく武照のとりこになり、密会を重ねる。
 現代風にいうと李治は父親の妾とデキたということだが、そうさせた武照は20代半ばであるから、これは相当なタマだったといえるだろう。
 やがて太宗が死去、あとを継いだ息子の李治は第3代皇帝高宗となる。当時の習わしでは、皇帝が死ねば宮女は全員剃髪し、尼寺で一生を過ごさねばならぬ。武照とて例外ではないが、どっこい武照はそれで埋もれるような女ではなかった。
 高宗には王という名の皇后がいたが、高宗は皇后よりも蕭(しょう)という淑妃(皇后に次ぐ“夫人”)を寵愛していた。
子のない皇后は危機感を抱き、高宗の関心を蕭淑妃からそらすため、太宗の死後出家していた武照を後宮に戻すよう高宗に進言する。
 この辺りの皇后の心中は察するに余りある。蕭淑妃に勝てる魅力が自分にないと悟り、別の魅力的な女を蕭淑妃の対抗馬として自分の夫にあてがおうというのだから、悲しい話だ。成功したとて高宗の気が自分に向くわけではないのだから捨て身の策であるが、蕭淑妃一族に権勢を奪われることを案ずれば、他に手はなかったのだろう。
 結果、蕭淑妃の追い落としには成功したものの、却って高宗は大っぴらに武照を溺愛するようになり、皇后はますます見向きをされなくなる。しかも武照の色香に酔って見境いのなくなった高宗は、武照に皇后、妃に次ぐ昭儀(しょうぎ)という高い身分を与えてしまった。 
 それでも皇后は、恩義を売った以上、武照を操縦することは容易だと思っていた。それが大きな誤算だったと思い知るのは、すぐあとのことである。
 
 武照は出家して尼寺に入ったとはいえ、実は李治との密会を続けていた。その結果、既に身ごもっており、入宮後女児を出産する。
 王皇后はその赤子を見ようと武照の部屋を訪ねたが、武照は赤子を残して高宗と外出しており、皇后は仕方なくその子の顔を一目見ただけで帰る。戻った武照が首に布を巻かれて死んでいる我が子を発見。皇后に嫌疑がかかる。
 この事件、真犯人が第一発見者の武照であることは言うまでもない。武照は皇后を罠にはめ、部屋に戻るや我が子を絞殺したのである。
 高宗は皇后の仕業と断定することにはためらいがなかった訳でもないが、泣いて訴える武照に負けて王皇后を廃し、代わりに武照を皇后にしようと重臣たちに下問。重臣の2人は反対、1人は賛否を言わなかった。
その場にいなかった別の重臣李勣(りせき)に改めて下問すると、李勣は「陛下の家庭のことであり、臣下の意見は不要」と答える。
 思えばずるい答だが、高宗は得たりとばかり王皇后と蕭淑妃を平民に落とし、投獄する。さらに反対した重臣を左遷し、武照を皇后に昇格させる。すなわち「武后」の誕生である。
 これもまた呆れた話だが、女に溺れた男というのはそんなものか。
 こうしてまんまと皇后になった武照はこれより武則天と呼ばれるようになる。
 そして投獄されていた王と蕭を棍杖で百叩きにし、四肢を切断するが、それでも飽き足らず「骨まで酔わせてやる」と言い放って、胴体を酒樽に浸ける。2人は数日間うめき続けたあと絶命したという。
 王皇后は、夫の寵愛を受ける蕭を排斥しようとして武照の色香を利用したわけだが、夫は今度は武照に入れ上げ、結局自分が敵に回した蕭と共に惨殺されたのだから、哀れもここに極まる。
 かたや、なまじ高宗に可愛がられたため皇后には憎まれ、本来なら尼寺で朽ち果てる筈だった武照によって血も凍る方法で殺された蕭。恨みは想像を絶する。死に際しては、武則天がネズミに生まれ変わったら自分は猫に生まれ変わって喰い殺してやる、と呪いの言葉を発したとのことで、怨念の深さと気性の激しさが伝わってくる。
 自分の気に入らぬ者を虫けらのごとく殺して高笑いしていた武則天ではあるが、この件以来宮中で猫を飼うことを禁止したというから、さすがに心中は穏やかでなかったのであろう。
 そんな不安の裏返しか、武則天は殺された蕭の娘たちに同情的発言をしたという理由で実子李弘(りこう)を毒殺する。
 何ともはやどろどろした話で、どこまでが本当かと疑いたくなるが、実は権力を得た女が憎い相手の四肢を切り落とすという話は中国史に何度も出てくる。
 前漢の初代皇帝劉邦の皇后であった呂后(りょこう)は、劉邦の寵愛した戚(せき)夫人の両手両足を切断、両目をくり抜き、両耳を焼き落とし、便所に放り込んだ。
 清朝末期の西太后は後宮にあって咸豊帝(かんぽうてい)の子を産んだため皇后(東太后)をしのぐ力を持つにいたる。そして咸豊帝の寵愛を受けた女官の四肢を切断し、首だけ出して甕につけた。衰弱死するまでたびたび見に行き、嘲笑の言葉を投げつけたという。
 咸豊帝が若くして死去するとその子を同治帝として即位させ、皇帝の母として権勢をふるう。まず自分に反抗的な重臣3人を拷問にかけ、2人の口と鼻に濡れた紙を貼って窒息死させ、1人の四肢を切断して十分に苦しめた上、首をはねている。
 まあ、どの話も真偽をにわかには断じがたいところがあり、Y先生の言われる「不確かな伝承」なのだが、こういう諸例を聞いていると、武則天の狂気じみた所業も「ありそうなこと」だと思えてくる。
 それに、そうした残忍な行為は武則天にとっては日常的なものであり、王皇后と蕭淑妃に対してだけ自制心を失ったわけではない。
 肉親であろうと親族であろうと、ささいなことで敵意を抱き、ためらいもなく殺す。
 たとえば姉と姪が高宗に気に入られていたというだけで、2人を毒殺している。嫉妬というにしては度が過ぎている。
 高宗が武則天以外の女に産ませた4人の子も次々と殺しているが、これなども高宗が床を共にした女への不快感から出たこととしか考えようがない。
 もし後世の作り話だとすれば、そういう血も凍るような話を作れる中国人の感性は日本人には馴染まないものである。
 私も「アンチクショウ!」と思う相手がいないわけではないが、せいぜいあとで後悔すればいいと念ずるくらいがやっとで、殺すだの手足を切断するだのということは、たとえ空想の中でもできるものではない。
 そもそも「ただ殺すだけでは飽き足らない」という発想が日本人にはない。
 切腹というむごい刑があるが、それでも死にゆく者の尊厳を守る形はとるし、腹に刀を突き刺しさえすれば、あとは苦しまなくて済むよう介錯をする。それも次第に形式化し、江戸も元禄のころになると刀に手を触れた瞬間に介錯をするようになっていたそうだ。
 磔刑にしても、西洋に見られるように手足に釘を刺して衰弱死するまで放置するようなやり方はせず、槍でひと思いに突き殺す。
 つまり日本人には、命は奪ってもなるべく苦しみは与えないという心情があったのだろう。
 手足を切り取り、耳や鼻をそぎ取り、目をくり抜き、息も絶え絶えな状態で糞尿の中に放り込む、というようなことが、仮に作り話や噂話だけだったとしても、中国人の残忍さには戦慄を覚える。
 権力を巡る女の戦いは歴史の常であり、それはそれで面白くもあるのだが、中国ではそこに憎悪と残忍さが加わる。それに比べれば、日本の戦国時代史を彩る女の戦いなどは上品で可愛いものだ。

 さて武則天は、年下の高宗を尻に敷き、垂簾(すいれん)政治を行う。権力者を後ろで操る女というだけでは珍しくはないが、武則天の場合は誰はばかることなく前面に出て高宗を操り、誰もが実質的な最高権力者として扱う専横ぶりであった。
 政治的手腕も高く、日本人には馴染みの深い「白村江の戦い」で倭国・旧百済連合軍を破るなど、朝鮮半島にも勢力を伸ばしているから、それだけ見れば今ほど悪名も広がらなかったのだろうが、いかんせん、やり方が極端であった。
 長男を毒殺したあと次男を冤罪で自殺させるに至って、あまりのことに高宗は武則天の排除を画するが、事前に計画が漏れて果たせず、逆に病気になったときに、武后にその治療を止められたというから情けない。
 その高宗が死ぬと子の中宗が即位するが、武后は難癖をつけてそれを廃位させ、中宗の弟を新皇帝に擁立して自分の傀儡にする。
 690年、とうとう自ら帝位につき、国号を「周」と変える。そして仏教重視の政策を展開、各地に寺院を造営。それについて自らを弥勒菩薩の生まれ変わりと称するなど、いささか品のなさが目立つが、近頃でも国家元首を神がかり的に祭り上げる愚民政治に走っている国もあるから、まあ、当時としてはそれなりの効果はあったのだろう。
 その証拠に洛陽郊外にある龍門の石窟に彫られた高さ17メートルの盧舎那仏は武則天がモデルだという。当時の人々がそれを信じていたかどうかは別として、公にはそう語られていたのであろう。
 ちなみに龍門石窟の盧舎那仏は穏やかで上品な面立ちをしている。キンキンキラキラ金色に塗られたりマンマル目玉を見開いたりという俗っぽい仏像が多い中国にあっては例外的と言っていい。日本の仏像に非常に似ており、見ていて落ち着く。私は悪女武則天を思いながら何度も見直したが、どうしてもイメージが重ならなかった。
 まあ、権力者の常として自分の像は理想化することを求めるものだし、とくに中国ではモデルの機嫌を損ねたら命に関わるであろうから、彫刻家たちも必死で顔を整えたのに違いない。

 さて帝位についた武則天は初めのうちこそ男顔負けに政務をこなしたが、やがて70に手の届く年齢になると次第に政務を人任せにし、自らは快楽に身を委ねるようになっていった。
 驚くべきことに精力絶倫で、馮小宝(ふうしょうほう・ひょうほうしょう)という巨根の男を咥え込んでいたほか、20代の張兄弟との性戯にも明け暮れたと言われている。張兄弟は媚薬や回春剤を提供して武則天を喜ばせたというが、兄弟の方にはむろん計算があり、その通り政治の実権は次第に兄弟に移っていった。
 この体たらくに民衆の嘲笑と非難が集まり、武則天の孫娘李仙
(りせんけい)は事態を憂えていた。それを伝え聞いた武則天はためらいもなくその孫娘に死を命じる。ときに李仙蕙、わずか17歳である。
 善し悪しは別として、力任せに恐怖政治を布いてきた権力者が男女の戯れに我を忘れるようになると、抑えられていた民衆の不満はたちまち爆発する。数多の実例が物語る歴史の必然である。
 加えて武則天自身が病気がちとなっては求心力はますます低下。張兄弟は反乱兵士に首を切られ、武則天も幽閉される。切歯扼腕しながら半年後に死去。夫である第3代皇帝高宗の眠る乾陵に合葬された。ときに西暦706年、夫の死後22年のことである。

 かくかくしかじかで、常に表舞台で光を浴び続けた80年余りの生涯であったが、最後は周囲の造反で四面楚歌となり、周王朝の中興をもくろんだ国号も「唐」に戻された。
 死に際しては皇帝としてではなく、皇后として埋葬された。それゆえに死後は則天武后と呼ばれるようになったが、これなども周囲が皇帝として認めたくなかった不人気の証左のようにも思える話である。
 おそらく高宗の死去に際して周辺諸国は武則天への畏怖から競って弔意を表したとみえ、乾陵の参道には各国からの葬儀参列者の像がずらりと並んでいる。しかし、武則天の死後は逆に武則天への忠誠ぶりを知られまいと、各国はこれまた競ってその像を壊している。
 滑稽であり、また武則天の権力が所詮は恐怖政治による一時的なものであったことを示している。哀れというか、無常というか。

 権力にせよ富にせよ、持てる者が幸せとは限らない。
 思えば血を分けた一族70余人、意に添わぬ高官30余人を容赦なく殺して身の安泰を図りながら常に怯え続けた武則天が幸せであったわけはない。
 武則天を呪いながら死んでいった大勢の者たちは、実は武則天自身が人心を得られずに孤独で不安な生涯を送り、失意のうちに死んだことを以てせめてもの慰めとしているのかも知れない。
浅薄な愛とその限界  この言葉、なんとかなりませんか(6) 
     
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