秦始皇帝兵馬俑坑に思う


 秦始皇帝という名を知ったのは、小学校の頃だったろうか。万里の長城や驪山陵といった「物」の存在を教えられ、ついでに建造者の名を知った、という程度であったと思う。
 それらの「物」が、物そのものとしてではなく、始皇帝という「人間」の記念碑、それも偉大さの証明としてではなく、彼の孤独と不幸とを物語る墓碑として見えてきたのは、ずっと後になってのことである。
 始皇帝が人一倍死を恐れたことは、つとに知られている。怪しげな不老長寿の薬を高価で買い込んだり、秘薬を求めて徐福を遠く日本まで派遣したり、その努力には涙ぐましいものがある。この福、実は専横な皇帝に愛想を尽かし、その下から逃げんが為に皇帝をたぶらかして船を仕立てさせ、まんまと海を渡るや、二度と戻らなかったと伝えられているから、なんとも哀れな話である。
 皇帝が、それほどまでに死を恐れたのは何故か。まあ、我々凡俗のように、単なる死への恐怖といったものからではないだろう。

「帝国」というものは、文字通り“帝”一人が支配する国家形態である。だからその帝を倒せば国を奪うことができる。隣国によって倒されることもあり、配下のクーデターによって殺されることもある。
 それをさせない為には、周辺諸国や自国内の臣民が心底帝を敬い、忠誠に励むような善政をしくか、徹底した武断政治で周囲の対抗心を抑え込むしかない。そして始皇帝は後者をとった。
 自分に逆らう者は国であれ個人であれ容赦しない。行き着く先は恐怖政治であり、恐怖政治は支配者の孤独につながる。有力な側近ほど自分を倒す機会を持っていると考える日々は支配者の猜疑心を増幅させ、支配者の猜疑心は人心の離反を招く。
 この終わりなき悪循環の中で始皇帝は、自分の死後、自分の築き上げた帝国が周辺諸侯によってたちまち攻め滅ぼされるであろうこと、腹心たちがためらいもなく政権奪取に動くであろうことを思って、死んでも死に切れない心境だったに違いない。
 思えば末年の焚書坑儒の如きも、人心の離反を自ら認める悪あがきでしかなく、現に始皇帝の存命中にも、反乱の兆しは見え始めていた。
 政権が交代すると、新政権はしばしば前政権の構築物をヒステリックに破壊する。特に始皇帝のように、力で他を制圧してきた場合、死後にどのような扱いを受けるかは、目に見えている。自分が死ねば、その瞬間に、長城も阿房宮も、あとかたもなく打ち壊されるに違いない。
 それを思い、これを思い、気の休まることのなかった皇帝は、最後に、自分の墓が蹂躙される光景を思い描いて、戦慄を覚えたであろう。
 そして始皇帝は、ついに、無敵を誇った自らの近衛軍団をそっくりそのまま等身大の焼き物に変えて地下に埋め、以て陵墓を守らせるという、壮大にして荒唐無稽な企てを実行に移した。
 その軍団は、2200年の間地中にあり、ほんの10年ほど前、まったくの偶然から発見され、今、一般に公開されている。
 今回の訪中で私が最も楽しみにしていたのは、この兵馬俑坑の見学であった。周知の通り、見学できるのは発掘半ばの1号坑のみで、この坑は、東西210m、南北70mの巨大なドームですっぽりと覆われ、それがそのまま博物館になっている。
 はやる心をおさえながら、中に入った。
 いったい、何というスケールであろう。それぞれ180cm前後の身長をもつ筈の兵士俑が、そうとは信じられないほど、小さく見える。
 まず手前向き、即ち東向きに戦袍を着た兵士俑が3列横隊に並んでいる。1列は68人。その後ろに4列縦隊の兵馬が9列並んでいるが、1列が何人なのかは判らない。前方から順に発掘し、掘り出された俑は逐次修復されているものの、後方は現在発掘中で細部が確認されていないためである。推定では、この1号坑だけで約6000体の兵馬俑が並んでいる由で、全体では約1万体になるという。
 それらがすべて発掘され、かつての軍団が全容を現すのは何年後のことか判らぬが、さぞ見事な陣容であろうと思う。
 前方からの景観に暫く酔ったあと、私は発掘途中の中央部に回ってみた。
 そしてそこに見たものこそ、私が始皇帝に感じていた淋しさ、空しさを何よりも強く裏付ける、無残な光景であった。
 兵が、馬が、倒れ、崩れ、重なり合い、土に埋まっている。完全なものは1体もない。
 かつて凛然と隊伍を組んで屹立していたであろうそれらの俑は、今、累々と横たわる屍でしかない。
 これほどまでの破壊、これほどまでの崩落が、項羽の軍によってではなく、2000余年の歳月によって為されたという事実は、言い換えれば、たとえ敵の手をのがれたとしても始皇帝が夢見た永遠の栄華などというものは守れないという、何よりの証左ではないのか。
 私は、折り重なる俑の破片が、破片でありながらそれぞれ極めて精緻でリアルな表情を保っているだけに、却ってものの哀れを感じ、数千体の俑が、恨みを呑んで次々と崩れ落ちてゆく、その音を聞いているような思いに囚われてしまった。
 人の命が有限である如く、「帝国」という国家形態が有限かつ短命であることを、始皇帝は誰よりもよく知っていた。
 そして、そのためにあがき、永遠なもの、より永遠なものを求めて、官民の犠牲もものかは、飽くなき建築に明け暮れた。それなのに、そのすべてが今、皮肉にも、ものの有限性を雄弁に物語っている。
 始皇帝の築いた万里の長城は、現在我々の見学できる明代のものとは違って崩壊が激しいと聞いているし、始皇帝の陵墓もとても元120余mもあったとは思えぬほど低く変貌している。
 私は、勢い込んで入った兵馬俑坑博物館を出るとき、なんともやり切れぬ、もの悲しい思いに襲われていた。
 それは、なにか、見てはならぬものを見てしまったような、気まずい思いでもあった。


   
          1985年、 中国視察旅行の報告書に載せた文章です。そのため、年数
              表記などに現在とのズレがありますが、原文のまま写しました。


情けない「○○甲子園」  今、このときを大切に 
     
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