今、このときを大切に


「生者必滅、会者定離」とか。
 生まれたとき、既に死が約束されている。会ったとき、既に別れが待っている。それが人の世である。
 つまり、人は必ず死ぬ。わざわざ自分で死ななくたって。
 それなのに、死を急ぐ人が絶えない。

 おそらく、余人の思い及ばぬ事情があるのだろう。
 例えば経済的、社会的に追い詰められて、今日の食べ物もなく身を隠す場所もない。その絶望感に他人の忖度が届くだろうか。
 地位にも財力にも恵まれた識者が、どん底で喘ぐ人に向かって、希望を持てなどと言うが、そんな画餅で絶望の淵から這いあがれる人がいるとは思えない。
 希望なんていう抽象的なものでは、腹は膨れないのだ。

 ここはひとつ、発想を変えてみてはどうだろう。
 希望なんて持たなくていい。とりあえず今晩の食べ物だけ探してみるのだ。
 警察でもいい、市役所でもいい。行って食べ物を乞うてみよう。一食ぐらいなんとかしてくれる。
 今の日本、最低限生きていくだけの手筈は行政が手配する筈だ。
 食べ物を乞う勇気が出ないなら、公園なり駅なり、人目につく場所で寝ているだけでいい。餓死する前に誰かが通報してくれるだろう。
 明日も明後日も、希望なんかなくていい。体裁なんか、悪くていい。
 どうせ世の中、弱者に注目なんてしていないのだ。
 そこまで開き直れば、とりあえず生きていることはできる。
 生きていてどうなるって?
 別にどうもならないだろう。でも、急がなくたっていずれは死ねる。森羅万象、すべてに終わりはあるのだから。
 だからとりあえず、生きていよう。今は生きる。死ぬのはあとだ。

 別れも同じ。
 わざわざ別れようとしなくても、どうせいつかは別れる。
 愛別離苦という言葉がある。どんなに愛し合っていても、いつかは別れの時がくる。
 怨憎会苦という言葉もある。恨み憎んでいる人だって、完全に会わないで済む保証はない。顔も見たくない人と街角でばったりなどということは、誰しも経験することだ。第三者の結婚披露宴で隣席になることだってあるかもしれない。
 一緒にいたくたって別れは避けられない。離れていたくたって完全に無縁にはなれない。
 だったら、無理に別れようとしないで、一緒にいればいい。
 今は一緒に。別れるのはあとだ。

 もう一度言おう。
 生にとって死は必然である。会う者には別れが必然である。

 必然があれば、蓋然もある。
 山に登れば遭難するかもしれない。海で泳げば溺れるかもしれない。飛行機に乗れば落ちるかもしれない。これらは蓋然である。
 「かもしれない」。これは怖い。
 そこで、
 絶対に山で遭難しない方法が一つある。山に登らないことだ。
 絶対に海で溺れない方法が一つある。海で泳がないことだ。
 絶対に墜落事故に遭わない方法が一つある。飛行機に乗らないことだ。
 人を信じなければ裏切られることはない。恋をしなければ失恋することもない。
 試験を受けなければ落ちることはないし、出かけなければ雨に濡れることもない。
 生涯を無菌室で過ごせば、殆どの病気はしないで済む。世の人の苦しみ悲しみを味わうこともなく人生を送ることができるだろう。

 しかし、それでいいだろうか。
 蓋然性を恐れて今このときを無為に過ごすのでは、あまりにも勿体ない。
 苦しみ悲しみ絶望し、傷つき躓き泥だらけになっても、無菌室の外で生きてこそ人生ではないか。
 かつて布教のために来日し、激しい弾圧によって命を落としていった宣教師たち。
 そうまでして、自分が死んだのでは意味がないではないか、もっと安全な所でだって布教はできるだろう、と思うのは私のような安楽になれ過ぎた人間であって、彼らの多くは危険や困難が伝えられる所での活動こそ進んで志願した。
 危険や困難は自分が生きていく意義を実感させるものだったからであろう。

 そこまでの危険を冒す度胸はないが、私とて100%の安全だけをよしとして毎日を送る気にはなれない。
 無菌豚の如く一切の病原菌から隔離された箱の中では充実した人生は送れないだろうと思うし、人生などと言わなくても、日々退屈のあまり気が狂ってしまうのではないかと思う。
 死や別れは避けられない。しかし、山での遭難はしないかもしれないし、海でも溺れずに済むかもしれない。
 だとすれば、今はとりあえず登ってみよう。とりあえず泳いでみよう。
 人生は一度きりなのだから。

 必然にせよ蓋然にせよ、確かなのはそれが今ではないということ。
 今を犠牲にしてひたすら待つというほどのものではないということである。


    
     1992年、授業を担当したクラスの卒業文集に乗せたものです。

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