トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件に思う


過分な親日感情に気が咎めて



 1887(明治20)年、皇族小松宮彰仁親王夫妻はヨーロッパ歴訪の途次、オスマン帝国(現在のトルコを中心とする大国家)のイスタンブールを訪問した。
 その返礼として、オスマン帝国は1889(明治22)年7月、海軍のフリゲート艦エルトゥールル号を日本に派遣、11か月をかけた航海ののち、同号は横浜に入港した。
 司令官オスマン・パジャはアブデュルハミト皇帝の特使として明治天皇に拝謁、皇帝の親書とトルコ最高勲章を奉呈した。
 当時オスマン帝国はイスラム教の盟主を自認しており、事実エルトゥールル号は航海の途中で立ち寄った東南アジアのイスラム教国で熱烈な歓迎を受けている。
 しかしこのことは、裏を返せば各国がオスマン帝国海軍の実力やいかんと注視していることでもあり、エルトゥールル号としては堂々の航海術を見せつける必要があったともいえる。
 天皇拝謁の3か月後、同号は帰路につくが、折りしも台風が接近しており、建造後26年を経ていた木造老朽船による航海は危険でもあった。日本側は出航を数日遅らせるよう勧告したが、台風ごときに逡巡するさまを見せたくない艦長は出航を強行する。
 そして翌9月16日深夜、和歌山県串本沖で台風の直撃を受けたエルトゥールル号は座礁、機関爆発を起こして沈没した。紀伊大島の樫野崎灯台の直下である。
 かろうじて岸に辿り着いた者のうち数名が数十メートルの崖を這い登って灯台に遭難を知らせると、大島村の村民たちは総出で救助に当たった。海岸にはおびただしい数の遺体が打ち寄せられている。村民たちは大柄なトルコ兵を背負って崖をよじ登り、また降りては登った。息のある者は村人が裸になり、自分たちの体温で温める。
 島の寺と小学校が臨時の救護所に当てられた。人々は、衣類はもとより、僅かな備蓄食料、さらには非常用の鶏まで惜しまず供出し、最終的に69名の命を救った。
 一方で遺体の収容にも全力を尽くした。台風の余波が残る磯での作業は困難を極めたが、その後も2週間以上捜索を続け、239名の遺体を収容している。遺体はねんごろに埋葬されたが、残る368名は今も海底に眠っている。

 この事件はただちに和歌山県知事を通じて明治天皇に伝えられた。天皇はことのほか心を痛められ、医師、看護婦を派遣された。新聞報道で事件を知った日本国民からは次々と義援金、弔慰金が寄せられた。
 日本側は生存者を本国に送り届けるべく、軍艦「比叡」「金剛」を用意。10月5日、品川を出航した2隻は翌1891年1月2日、イスタンブールに到着し、生存者の移送を完遂した。
 以上がエルトゥールル号遭難事件の概要であるが、これには後日談もある。
 山田寅次郎という茶道家が民間の立場で犠牲者の家族への義援金を集め、それを届けるためにオスマン帝国に渡ったのである。その山田は熱烈な歓迎を受け、民間人でありながら皇帝に拝謁し、その後イスタンブールに留まって、両国の交流に尽力した。
 また1985年のイラン・イラク戦争でのこと。イラクのフセイン大統領は突然、今から48時間後よりイラン上空を飛ぶ飛行機はすべて撃墜すると宣言した。
 戦況が逼迫する中、各国は在イランの自国民を救うべく急遽救援隊を派遣したが、日本政府は手をこまねいていた。日航も安全が保証されない限り臨時便は出さないという。テヘラン空港に集まったものの脱出の手段を失った日本人は途方に暮れた。祖国に見殺しにされたのである。
 それを知った在イランのビルレル・トルコ大使は本国に日本人救出を要請、ただちに2機の救援機がテヘランに飛来した。215人の日本人全員が脱出できたのは、タイムリミットの1時間15分前。
 大使は「トルコ人なら誰でもエルトゥールル号遭難の際に日本人から受けた恩義を感じています。ご恩返しをさせていただきます」と語ったという。

 私はこれら一連の話に感動しながらも、どうも気が咎めてならない。
 トルコ人の日本人に対する好意的な姿勢はよく知られているところであるが、それでは日本人がトルコ人に対してどれほど好意的であるかと考えてみると、これは申し訳ないほど冷淡である。
 20年ほど前まで、日本にはトルコ風呂というものがあった。トルコにある本物のトルコ風呂は、蒸気を充満させた室内で汗を噴出させたあとに身体を洗うというもので、中東あたりでは一般的かつ健全なものであるが、日本では浴室で性的サービスを行う売春施設をトルコ風呂、あるいは単にトルコと言った。
 私も温泉地でタクシーに乗ったとたんに運転手から「トルコですか? ストリップですか?」と訊かれたことがある。
 また勤務先の上司と海外旅行談義のさなかに、話が噛み合わなかったこともある。
「トルコは行ったことがありますか?」
「ああ、あるよ」
「どうでした?」

「良かったよ」
「どこが良かったですか?」
 このあとは書けない。
 かく失礼な話を聞いてトルコ人が愉快な筈はない。もしトルコ国内で売春施設を「ニホン」と呼んでいたとしたら、日本人は穏やかでいられるだろうか。トルコ人は長くこの不条理を我慢していたが、さすがに堪えられなくなったとみえ、日本に留学していた学生が抗議行動を起こした。それが契機となって、今ではトルコ風呂という言い方はなくなり、ソープランドなどと呼ばれるようになったが、日本人の無神経さにはただただ呆れるばかりである。
 エルトゥールル号乗組員についても、一見手厚い支援がなされたように見えるが、実はその裏には官民あげて日本の国益をあげようという利己的な計算が働いていた。
 先に全国から義援金が寄せられたと書いたが、それは新聞が「外国人に対して日本人が親切であることを世界に知らせよう」と一大キャンペーンを張ったからであり、軍艦2隻による本国送還にも裏があった。
 当時日本は欧米列強との間で結ばれた不平等条約に苦しんでいた。列強の圧力によって国交は結んだものの、相互の条約は日本にとって不利なものばかり。これを解消するには日本の軍事力を増し、それを諸外国に知らしめる必要があった。
 そこに降って湧いた遭難劇である。軍艦での移送は諸外国に日本海軍の優秀さを見せつける絶好の機会となる。事件を知ったロシアが乗組員の送還を引き受けようと申し出てきたが、それに甘えればこの機会を逃すことになる。それにオスマンまでの遠洋航海となれば、経験の少ない士官候補生の訓練航海としてもうってつけだ。
 一見美談に見える乗組員送還は、このような“日本の都合”で実施され、事実この送還のあと、日本は列強との不平等条約解消交渉を進め、成功している。
 それなのに、そのあとオスマンと日本との国交樹立交渉では、日本は自国有利の不平等条約の締結を迫って譲らず、これに異を唱えるオスマンとはついに国交を結ぶに至らなかった。

 オスマンもまた当時は欧米列強との不平等条約に苦しんでいた訳だが、その上日本にまで同様の要求を突き付けられたのでは立つ瀬がない。抵抗は当然である。
 なんという日本の傲慢さであろう。今の中国が自国の利益のためには道義も恥も顧みない外交を展開しているのといい勝負である。
 山田寅次郎にしてもしかり。彼は事件の起こるずっと前から外国で商売することを夢見ていた。今と違って簡単に許される話ではない。第一、渡航そのものが難しかった。
 そんなときにエルトゥールル号が遭難したのである。山田にとっては願ってもないチャンスといえる。棚から牡丹餅とはこのことだ。山田はこの機を逃さず義援金を集め、それを手土産にトルコに渡った。大義名分もあり、オスマンが入国を許可しない訳はない。
 まんまとオスマンに渡り、人々に感謝の念を以て迎えられた山田は、そのままイスタンブールに居座り、貿易商として利益を上げている。それでいながら後年第一次世界大戦が勃発して日本とオスマンとの関係が不安定になると、さっさと日本に帰国している。
 つまるところ、遭難したオスマン海軍将兵のために我を忘れて救援に当たったのは紀伊大島の人々だけであり、その後の“美談”は官民それぞれの打算によって作り上げられたものなのである。

 私は紀伊大島の樫野崎に3度行った。子供のころにこの事件のことを聞いたか読んだかしていた私は、1度目のときに花束の一つも海に投じようと思って行ったのだが、花屋が見つからぬまま現地に着いてしまい、それは果たせなかった。
 もっとも、現場は切り立った崖の上であり、海面は遥か下にある。聞けば40メートル以上あるとのことで、よくもこんな崖を登ったものだと驚嘆した。花束どころの気分ではない。
 
 崖上には、この事件を風化させぬためにトルコ政府が建てた「トルコ記念館」が建っている。小さな、外観も立派とはいえぬ建物であるが、中には事件の経緯を詳細に記述したパネルと共に、乗組員の写真や海中から回収した遺品などが展示されており、どれもが120年も前の事件であることを感じさせぬ迫力で胸に迫ってきた。
 テラスに出ると、眼下に青海原が広がっており、ごく近く、大声で呼べば聞こえそうな場所に、いくつかの岩礁が波に洗われている。
 もしやと思って案内板を見ると、それらの岩が克明に描かれており、エルトゥールル号が座礁したその岩が、矢印で示されていた。指呼の間にその実物があり、陸との間にはいくつかの岩が散在する。
 あまりの近さに改めて胸が締め付けられる。ひと泳ぎで次の岩に移れるし、またひと泳ぎで次の岩。数個の岩を伝っただけで岸に着ける。こんなに近くに陸を見ながら死んでいった乗組員たちの無念はいかばかりであったろう。
 自分に何ができる訳でもない私は、ただただ、海を見続けるだけであったが、せめてこの事件を忘れまいと思い、事件の克明な記録を買って帰った。
 さてトルコではこの事件が今も教科書に載っているそうで、ゆえに親日感情が際立って強いという。それなのに、日本人の間ではこのことは殆ど知られていない。日本人の関心は申し訳ないほど低い。
 3度訪ねた
記念館で、出会った入館者は合わせて3人であった。記念館から灯台への途中にあるエルトゥールル号殉難将士慰霊碑で出会った人間はゼロである。2度目のときには記念館そのものの痛みも見てとれた。

 灯台の近くにトルコ人の経営する土産物屋があり、私はナザールボンジュと呼ばれる小さなお守りを2度買ったが、この店内で日本人に出会ったことはない。
 ちなみに教員という仕事をしていた私は、生徒に日本人の非礼さを知ってもらおうと思って毎年多くの生徒にこの話をしてきたが、これまでに、ああ、その話なら聞いたことがあります、という生徒に出会ったことがない。
 また、長くなるので詳述は避けるが、新潟県柏崎市に作られたテーマパーク「トルコ文化村」の件もある。
 日本中がテーマパークブームに湧く中でオープンしたものの、トルコ文化への関心が低い日本人が押し寄せる筈もなく、施設には閑古鳥が鳴き、わずか3年で経営破綻に陥る。柏崎市が買い取って存続を図るも入場者は減り続け、その後2年で閉鎖。文化村建設に際してトルコ政府が寄贈した、建国の父ケマル・パジャの騎馬像は横倒しのまま野ざらしにされた。
 ことほどさように日本人のトルコに対する関心は薄く、ことほどさように日本人は礼節を知らない。
 近年日本の若者たちが思い上がった言動で世界の顰蹙を買っていることと合わせ、ごく近い将来、トルコ人の間で親日感情が雲散霧消するのは間違いない。
 トルコ同様日本びいきで知られるブータンでも、最近は親日感情に陰りが見られるということであるし、強い相手にはへつらい、弱い相手には高飛車に出る日本政府と日本国民は既に世界の嫌われ者になっている。
 そんな中、せめてわずかに残った親日国とその国民に対しては、もっと誠実に付き合いたいものである。

ファラオの呪い 雪犬ホー
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