ファラオの呪い   


人を引きずり込む不思議な魔力



 エジプトを訪れる日本人は年間1万人という。
 日本人観光客の行儀の悪さは有名である。冥界のファラオたちは、神聖な墓にドタドタと踏み込む日本人を、できれば阻止したいと考えていることであろう。
 そのファラオの霊が乗り移ったのであろうか、私がエジプトへ出かける朝、6歳の息子がいつになくしんみりした口調で、
「お父さん、これでお別れだね」
と言った。
 私はすっかり気が滅入り、飛行機の中で息子に手紙を書いた。

「こんなオンボロ飛行機には乗ったことがない。向こうでも小型機に何度か乗るので、どれかは落ちるだろう。子供の頃からの夢だったエジプト旅行なので、お父さんは本望だが、お前たちのことだけが心残りだ。人生、辛いことばかりだろうが、心を強く持って頑張れ。お母さんは女だから、お前が守れ。啓道と幸葉を頼む」
 けしからぬことに飛行機は落ちず、私は大仰な手紙を恥じながら今も生きているが、ファラオの呪いはそれだけではなかった。
 
広大なさとうきび畑の中に立つメムノンの巨像。朝日の昇るころにうめき声を発するという。
 私はその声を聞こうと、耳を像につけてみた。突然かん高い悲鳴に似た声が聞こえ、びっくりして振り返ると、全身黒ずくめの女性が立っている。着ているのはニカーブという頭からすっぽり被るもので、目以外はすべて覆い隠されている。
 私に向かってなにやら激しくまくしたてる。何を言っているのかまったく判らずにいると、近くにいた男2人が来て、また私に何か言う。えらい剣幕で、何が何やら判らない。
 数十秒の間、彼らは私を一方的になじり、去って行った。
 取り残された私は茫然とし、そのときになって激しい胸の鼓動に襲われた。ファラオの霊が3人の男女を使って私を呪い殺そうとしたことは明らかである。
 
 また連日40度を超す気温の中で私は歩く元気もなくなり、ラクダやロバに乗って砂漠をうろつき回ったのだが、ラクダには2度手を噛まれ、ロバからは1度落ちて、口の中まで砂だらけになった。
 なんだか畜生にまで呪われているようで、ユーウツの限りだが、それではエジプト中が日本人を拒否しているかというと、そうでもない。
 人間、それも生きている人間は極めて愛想がいい。日本人と見るとたちまち群がってきて、
「サラバジャ、トウキョウ、オチンチン!」
などと意味不明の日本語で話しかけてくる。
 もっとも、それを好意と取って喜んだりするのは早計で、彼らは日本人が金持ちだということをよく知っていて、バクシーシ(施し)を貰おうと懸命なのである。
 どこへ行っても物売りが近づいてきて、愚にもつかぬ皿などをちらつかせては、「トワンティ、トワンティ」とか言って、どこまでもついてくる。
 要らないと断るとすぐ、「テン、テン」と値下げをしてくる。
 あまりしつこいので私は「ワン」と言ってやった。これならなんぼなんでも諦めるだろうと思ったのである。
 ところが驚いたことに、相手は全く逡巡することなく、即座に
「オーケー、ワン」
と答えた。
 やむなく1ポンドを払ってくだらぬ品物を買った私は、内心舌打ちをしながら、近くにいた少年にそれをあげた。
 と、信じがたいことにその子供は礼も言わずにそれを受け取り、私の見ている前で別の日本人に「テン、テン」とそれを売り始めた。
 さすがに売れはしなかったが、私は心底からその子を呪い、背後でその子を操っているに違いないファラオの霊と、とことん勝負してやろうという気になった。
 思えば蟷螂の斧とはこのことで、オシリスの威光に守られたファラオと、ワラ人形に5寸釘しか持たぬ日本の旅行者とでは、所詮、勝負は見えている。
 その証拠に、私は滞在中、高熱と下痢でフラフラになり、物乞いと物売りに追い回されて少ない小遣いをすっかり奪われたくせに、今、どこよりもエジプトにまた行ってみたいと思っている。
 かのツタンカーメンの呪いでも知られるとおり、古代エジプトの神々は、近づく人々をその掌中に呼び込んでしまう魔力を持っている。
 私のこの記事を読んで疑わしく思う人がいたら、一度エジプトに入ってみるといい。必ず下痢をするに違いない。
 それでも信じられなかったら、王家の谷を訪れて、ファラオの墓に一歩足を踏み入れてみることだ。
 その瞬間、全身の自由が奪われ、足は自分の意思に逆らって、墓穴の奥へ向かって動き出す筈である。


1982年夏のエジプト旅行のあと、勤務先(高校)の新聞に載せた文章です。

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