この言葉、なんとかなりませんか(3)


カワイイ、カワイー、何でもカワイイ

 
 日本語の乱れを嘆くというのは、今に始まったことではない。かく言う私たちだって、相当日本語をゆがめてきたのだろうと思う。
 それは分かっているが、それでも今の若者言葉、それも特に女の子の言葉には腹が立ってならない。それは言葉に知性がない、つまり、話し手に知性がないからである。
 勿論、今の若い子にも知性豊かな子はいる。そういう子は言葉も常識的で、話していて楽しい。ただ、残念ながらそういう子が少なくなった。
 というより、恥を知らぬ馬鹿が圧倒的に多くなり、己の馬鹿さに気がつかず大手を振って騒ぎ回るものだから、つい十把一絡げに“今の若い女”と言いたくなってしまうのである。 
 反論されるまでもなく、私たちよりもっと上の年代も、怪しげな造語を次々と編み出しては日本語を乱れさせてきた。しかし、彼らのそうした言葉には、それなりに知識の裏付けがあり、意識して教養をひけらかした側面も見える。“栄華の巷、低く見て”というような矜持を臆面もなく出していたところに、彼らの真骨頂があるとも言える。

 例えば、金銭に窮した状態を「ゲルピン」などと言ったが、それはドイツ語のゲルト(金銭)と英語のピンチを合せたものである。女の子のことを「メッチェン」と言ったり、登山用語にやたらドイツ語を使ったりもした。学問のあるところを一々見せつけようというその態度は、おそらく当時の大人たちから非難されていただろうし、今想像しても鼻持ちならぬ感じはする。
 それでも、その言葉を使う者自身が、言葉の意味を意識していたという点で、今の若い女の子たちに比べれば数段マシではあった

 なにしろ、今の子は言葉の意味も考えず、ただ人が使っているというだけで訳もなく真似をしているものだから、言葉に深みがない。「きもい」だの「うざい」だのという言葉は、そう言っている本人こそ品性下劣で救いようがないことを、図らずも示している。

 そういう悪意のこもった下品な言葉は論外であるが、それ以外にも、言葉のもつ本来の意味を台無しにする使い方に、「カワイイ!」というのがある。
 小さな子供を見て「可愛い」と言うのはいい。人形を見てそう言うのもいい。服を「可愛い」というのも、その服によっては許される。
 しかし、文房具を見て「カワイー!」、バッグを見て「カワイー!」、部屋を見回して「カワイー!」と騒いでいるのを見ると、なんたる馬鹿かとうんざりする。自転車を見て「カワイー!」、携帯電話を見て「カワイー!」、電車を見て「カワイー!」。
 毎週土曜日の午後に、人気女性タレントが司会をするテレビ番組があり、その中でゲストの持ち物を冷やかしたり、ゲストの自宅を覗き見たりするコーナーがある。3、4人のレギュラー
タレントたちがそれを見て「カワイイ!」「カワイイ!」を連発する。
 私はうんざりして、ある週、その番組で出演者たちが何回「カワイイ」と言うか、数えてみた。わずか30分ほどの間に聞こえたその言葉は、74回であった。
 また別の番組では、築二百年ほどの江戸時代の古民家を見た女性タレントが「カワイー!」と叫ぶ様子が映っていた。もう何をか言わんやで、そのあとのシーンでそのタレントが映るたびにゲンナリして、番組がつまらなくなってしまった。 
 先日も、私の好きな「いい旅、夢気分」という番組で、女性タレント2人が軽井沢を散策するものがあった。早めに夕飯を切り上げていそいそとテレビの前に坐ったが、ほどなくしてスイッチを切ってしまった。なにしろ、その2人、見るもの見るものすべて「カワイー!」「カワイー!」で、ケーキを見てまで「カワイー!」と言う。そのまま見ていればボートだって馬車だってカワイー!と言うであろうと思うと、とてもそのまま見続ける気にはならなかったのである。
 そもそも、対象の見かけを褒める言葉には、きれい、美しい、鮮やか、華麗、艶やか、きらびやか、可憐、嫋々、素敵、など色々あり、ときに色っぽい、妖しいなどと言うこともある。いずれもニュアンスが違い、対象の様子を話し手の感情を含めて的確に表現することができる。その中の一つである「可愛い」には、あどけないとか小さいというニュアンスがある。
 それを、なんでもかんでもひっくるめて、荘重な古民家までを「カワイイ」と言ったのでは、対象がどう素晴らしいのか判らない。
 知性のない女たちは、世の中のものを単純に良いものと悪いものとに分け、良いものはすべて、「カワイイ」と言っているのである。
 さすがに「美味しい」という場面でカワイイとは言わないし、風呂に入って気持が良いときにカワイイ!とは叫ばないから、かろうじて見た目の良さに限定して使ってはいるようだが、それにしても語彙の乏しさは亡国的である。
 これは、表現力の乏しさも勿論であるが、根源的には観察力の乏しさ、感性の貧弱さからきており、つまるところ、知性のない馬鹿だということにほかならない。
 つまり、「カワイイ!」を連発している女たちは、対象を漠然としか見ておらず、“可愛い”ものと“美しい”ものを見分ける力がないのである。

 この“見分ける力”について、別の例を挙げてみよう。
 日本人で、アサリとハマグリを同じだと思っている人はいない。ところが、私が会ったアメリカ人やイギリス人で、その区別がついた人はいない。オーストラリア人、ニュージーランド人も同じ。彼らはどちらも「クラム」と呼んで、同じ物だと思っている。
 試しにアサリとハマグリを並べて見せて、どうです、違うでしょう、と言ってみたが、実物を直接見ながら、それでも同じものだと言い張っていた。自分の日常にほとんど関係のないもの、つまり普段観察していないものについては、微妙な違いが判らないのである。
 私も、趣味で東洋ランを集めている人に、数百鉢のコレクションを見せられたことがあるが、並べて説明されても、春蘭と寒蘭の区別がつかなかった。同じように、陶器に興味のない人には、有田焼と伊万里焼の違いが判らないのではないか。
 繰り返すが、感性低く観察眼のない人間には、“可愛い”と“美しい”の違いが判らないのである。
 
 ランや陶器と違って、美しいものや可愛いものは誰でも日常生活の中で見たり触ったりする。それなのにその区別が判らなかったり表現できなかったりするのは情けない限りだが、それを恥ともせずに「カワイイ」「カワイー」と大声をあげているところに知性のなさが露呈されている。
 その点、春蘭と寒蘭の区別がつかない私は、秘かにそれを恥じていて、人前で「ラン、ラン」と騒がないだけ、彼女たちよりはマシなのだと思っている。有田焼と伊万里焼の違いが判らない人も、自らそれを残念だと思っているがゆえに、それらを一緒くたにして「陶器」「陶器」と叫んだりはしない。
 なんでもかんでも平気で「カワイイ!」「カワイー!」と叫んでいる馬鹿とは違うのである。
 そういう馬鹿が、キャーキャー言いながら、「ブサカワイイ」とか「エロカワイイ」などとはしゃいでいるのを見ると、日本はもうダメだなと本気で思ってしまう。
 
 日本人は古来、情緒豊かな、感性の細やかな民族だと褒められてきた。日本語は対象の微細な違いを的確に表現できる優れた言語だと評価されてきた。 
 今は情緒も感性も磨かれていないギャルたちが、折角の日本語を台無しにしている。
 人間の寿命が80年というのなら、もう20年早く生まれてきて、その分20年早く死ねば、これほど馬鹿だらけの日本を見ずに済んだのにと思わずにはいられない。


英語、発音の壁 ファラオの呪い
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