言葉のいらない社会

 

用さえ足りれば言葉はいらないのか


 書店で本を買う。スーパーで食料品を買う。
 黙って品物をカウンターに置けば、あとは店員がテキパキと代金を計算してくれる。
 コンビニに行けばパンツだって買えるが、これも無言で済む。
 ジュースや切符は自動販売機で買えるし、預金の出し入れや小額の借金はATMで事が足りる。
 高速道路で料金を払うときに口をきく人はまずいないし、最近ではETCの普及で係員の顔を見ることすらなくなってしまった。市役所で住民票をとるのにだって、申込書に記入して窓口に無言で出すだけで、ちゃんと望みのものが手に入る。
 駅前で広告のティッシュペーパーを受け取る人を見ていると、タダで物を貰うというのに、文句でもあるような顔つきで黙って受け取ってゆく。
 いったい、いつから日本はこんなに言葉のいらない国になってしまったのだろう。
 わざわざ店員と言葉を交わさなくても、買い物ができればそれでいいではないか、という人もいるとは思うが、私は、人間は機械ではないのだから、用が足りればいいというものではないと思う。
 確かに、いちいち言葉を交わすというのは、ときには面倒でもあり、都合が悪いこともある。私たちが中高生の頃、本屋で文庫本など買おうとすると、店員に「ほう、鴎外ですか。難しい本を読んでますね」などと言われたりしたもので、もしエロ本など買おうとすれば何を言われるか分からないから、買いたいと思っても買えないという状況があった。
 それは不都合といえば不都合かも知れないが、人はそういう社会状況の中で羞恥心や自制心を身につけてゆくものではないのか。声をかけ、あるいは声をかけられする中で、人は周囲の目というものを意識することを覚え、おのずから常識的な行動規範を学んでゆくものだと思う。
 最近の若い女の子が電車の中で化粧をしたり、公道の真ん中で地べたに胡坐をかいて喋ったりしているのを見ると、小さい頃から周囲の人と自分との接点をもたずに育った人間は、自分に注がれる視線を感知する能力を持たぬまま大人になってしまうのだということがよく分かる。
 私は数年前まで高校で教員をしており、そこでは生徒が遅刻をするとまず職員室に行き、遅刻の記録をすることになっていた。その記録をしたという証明書を貰って教室に持参しないと、授業が受けられない。
 殆どの生徒は、ノックをせずに授業中の教室に入ってくる。
「ノックをして、中から返事があったら入るんだ。やり直せ」
 これが毎回の私の台詞だ。入り直してきた生徒が教卓の前にきて、証明書を差し出す。これも殆どは無言。
「何だ?」
 これも私の台詞。
「遅刻」
 これが生徒の返事。
「遅刻・・・だけじゃ判らない」
「証明書」
「証明書・・・が何だ?」
「・・・」
 そんなやりとりのあと、遅刻をして証明書を貰ってきたので授業を受けさせてくださいと言うべきだろう、と教え、無理やり復唱させてから席に着かせる。
 生徒の間で、メンドーくせぇセンコーだ、と言われているのは知っているが、授業を中断させられた上に無言で紙を渡されて、よくいらっしゃいましたという気にはなれない。
 そうやって少しは社会のルールを教えていたつもりであるが、それで生徒が成長している様子もない。その証拠に同じ生徒がその後も何度も無言で入ってきて、そのたびに私と同じやりとりを繰り返している。

 勿論、そういう生徒が一日中無言でいる訳ではないし、無言で買い物をする女の子たちも親、兄弟、友人たちとは親しく口をきいている。よくまあ話が尽きないものだと思うほど喋りもする。それはそれでいい。
 一方、自分とはまったく接点のない人、例えば道ですれ違うだけの人やお祭りで交通整理をしているお巡りさんなどとは一言も交わさない。それもそれでいい。
 私が言うのは、その中間の人、つまり商品やチケットなどのやり取りをする相手、銀行の入口で挨拶をしている警備員等々、個人的な付き合いはないがその瞬間だけは確かに自分の相手であるというような人のことである。
 そんな、近くも遠くもない人同士が、
「こんにちは」
「それじゃ、また」
 というような言葉を交わしながら生きていく。それが古臭い過去の因習だとは思えない。
 しかし近年は、無言で殆どの用が足りるという状況に人々が慣れ過ぎて、差し迫った用がないのに声をかけるとなると、それだけで怪しまれたり警戒されたりする空気さえ生まれている。もし電車の中で騒いでいる女子高校生などに注意でもしたら、
「ダサーッ」「キモーイ」
などと罵倒されるのがオチであろう。
 だから、見知らぬ人、とりわけ若い女性には声をかけぬのが無難ということになる。
 例えば、飛行機で折悪しく若い女性と隣席になったときなどは災難で、10時間以上もの間、狭い空間で肘がくっつかぬように気をつけ、食事やトイレの動きにも無関心を装い、ひたすら雑誌を読んだり寝たフリをしている。我ながら不自然と思うが、変に警戒されたりするよりはマシと我慢している。
 そんなとき、
「ご旅行ですか?」
「ええ、ロサンゼルスの友人の所に遊びに」
「ほう、それは羨ましいですね」
ぐらいの言葉を交わし、降りるときに
「それじゃあ、よい旅を」
とか言って別れるようにすれば、お互いに気詰まりもなく、トイレに行くのに膝をどけてもらうにも気が楽だと思うのだが。
 言葉のいらない社会、それは楽かもしれないが、人間としての感性が育たない社会でもある。
 もっと言葉を交わそう。言葉を交わすことによってお互いが見える。おのずから自分を顧みる謙虚さも、自分を律する常識も育つ。
 そう、もっと言葉を交わそう。


生きているポンペイ 英語、発音の壁
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