生きているポンペイ


 私が初めて「ポンペイ」という都市の名を知ったのは、多分中学生の頃だったと思う。
 本で読んだのか人に聞いたのか、それすら思い出せない曖昧な話であるが、それでもそれはピラミッドや万里の長城とともに、歴史学習に対する私の興味をかきたててくれ、そのゆえか、私は長じて社会科教員となり、長年歴史を担当することにもなった。
 だから、私にとってポンペイはまことに意味の深い場所であり、眷恋の地であった。思いが叶って初めてそこを訪れたのは、もう30年以上前のことであるが、時空ともに遠い存在であったその地に自分が足を踏み入れるのだという興奮にかられたのははっきりと覚えている。
 ところが、いよいよこの足でその石畳を踏みしめ、この手でその柱に触れてみると、どういう訳か、思ったほど歓喜の念も湧かず、太古の歴史を想うというほどの感慨も起きず、縦横に整備されたこの町の道路も既に何度となく行き来したことのあるような、妙な錯覚にとらわれてしまった。
 それは3年後に再訪したときも同じで、二度目だからというのとはまた違う、普通の町を歩いているような日常感覚のまま見学を終えた。
 いったい、この不思議に慣れ親しんだ気分はどこからきたのだろうと考え続けていた私は、現地を離れてから、ローマ市内のフォロ・ロマーノ遺跡を散策中、ハッと次のような理由に思い当たった。
 ポンペイは、ポンペイ遺跡とも呼ばれ、まさしく遺跡である。そして私は「遺跡見学」という意識でその地に足を踏み入れた。これは至極当然のことであり、おそらく、ここに来る人は皆同じ思いであろう。
 ところが、この町は、遺跡でありながら、「遺跡」というにはあまりにも現代的で、しかも生々しいのである。
 ヨーロッパ諸国を旅行していると、いたる所で古い教会が現在も信仰の場として立派に機能している様子に接することができるが、このポンペイも、過去の町としてではなく、「機能を停止している現代の町」とでもいうべき姿で、ちゃんとそこに存在している感じなのである。
 周知のとおり、ポンペイは紀元79年8月のベスビオ火山噴火によって一瞬のうちに廃墟となった、ローマ時代の都市集落である。
 通常、遺跡なり史跡なりというものは、歴史の主流からとり残された町なり村なりが、次第にさびれ、荒廃し、そのまま捨て置かれ、のちの歴史家によって思い出されたときにはもう、昔を偲ぶよすがもまばらになってしまっている。だから、私たちがそこを訪れたときには、まず時代の隔たりというものを感じるのが普通で、目の前に見える廃墟を、かなりの想像によって修復しなければ、昔の姿が見えてこない。生活の匂いがしないのである。
 ところが、このポンペイは、ある日(8月24日といわれている)まで街並みに人々の笑い声が響いており、その翌日からは過去の町、即ち遺跡になっていたという、特異な場所である。
 そしてその町は、焼きかけのパンを放り出して逃げ惑う人々を、家畜、家財道具、その他すべての生活と共にすっぽりと包んだまま灰に埋まり、1748年に発掘が開始されるまで、そのままじっと時を待っていた。その間、1600年以上というもの、この町には、何の変化もなかった。人も生まれず、煙も立たず、工事も破壊も風化もなかった。つまり、時間が経過しなかったのである。
 ポンペイは、ある日突然眠り、そのままの姿である日忽然と蘇った。
 たしかに今、建物は壊れ、水も流れてはいない。しかし、それは長い間放置され次第に朽ちていった多くの遺跡とは違い、大地震によって一瞬にして破壊された状態がそのまま火山灰によっていわば保存されてきたものである。
 だからここでは、昔の姿と今の姿との間を想像で埋める作業は必要なく、使い古された表現を借りれば、ちょうどタイムマシンに乗って紀元79年にさかのぼったような感覚を味わうことができる。キザに言うならば、当時の人々の息吹さえもが漂っているのである。
 たとえば遺跡の入口近くに設けられた博物館では、灰に埋まった人々の“遺体”を見ることができる。
 もちろん本物の遺体ではない。逃げ遅れた人や家畜は、もがき苦しみながら灰に閉じ込められた。年月によりその遺体は朽ちてゆくが、その形は灰の中に空洞となって残る。その空洞に石膏を流し込むことによって、人や動物の姿が忠実に再現できる。それが展示されているのである。
 ある人はうつ伏せになり、ある女性はおそらく自分の子であろう小さな人物の上に覆いかぶさるようにして倒れている。身をよじり大きく口を開けて上を向いた犬の形もある。
 それらはもはや石膏だの形だのという言葉ではなく、まさしく“遺体”として胸に迫ってくる。
 また町全体の構造にも、随所に現代的なコンセプトが生きており、我々の住む町よりはよほど住みやすい所だったのではないかとも思わせる。
 縦、横、きちんと整えられた区画道路は見事なものであるし、馬車が歩道に乗り上げないように工夫された交差点や網の目のように巡らされた排水溝など、その気になれば今でも住宅街として売り出せるのではないかと思うほどだ。
 さらに、直線道路が碁盤の目のように走っている中で、娼館への道だけが「くの字」型に曲がっているのが、出入りする姿を人に見られにくくする工夫だと聞いては思わず苦笑してしまう。
 生きたまま急速冷凍された魚が、常温に戻すと泳ぎ出すという話を聞いたことがあるが、ポンペイはまさしく、ある日突然すべての活動を止められ、そのまま保存されていた町であり、条件さえ整えば、ある日また、何事もなかったように動き出すべくその時を待っていた“生きている”町なのだろうと思われる。

 とすれば、次に私がポンペイに行くときは、よそ事として遺跡を見学するのではなく、雲仙普賢岳の噴火によって火砕流に覆われた深江町、つまり「被災地」を訪ねるような心持で臨むのがいいのかも知れない。
 そういえば、あの石膏の「遺体」は今にも「水をくれ!」と叫びそうな気配を漂わせていた。
 けだしポンペイは、1600年の時間を越えて当時の人々と現代の我々とを時間差なく結びつける稀有の舞台である。

 

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