人生の指針


悲しむのも人生、苦しむのも人生

 高校時代に読んだ本の中で、私の生き方に大きな指針を与えてくれたものに、亀井勝一郎の数冊にわたる青春論がある。
 その中の「人間が本当に試されるのはこのときです。夢みるときは美しく大胆に夢みるとともに、その夢の破れたときは、それに耐えるだけの人間になりなさい」という一節は、その後ずっと、私の信条となっていた。
 だから私は、どんなに小さな可能性でも、それがある限り、大きな希望を持って毎日を過ごすように努力してきた。しかし、現実には、そうした夢は無惨に打ち砕かれ、絶望感に苛まれることもある。そんなとき、いつも「今が肝心だ。今がその時だ」と思って耐えてきた。
 それも、その苦しみを忘れようとか、気晴らしをしようなどとは思わず、とことん苦しんで、苦しんで、苦しみ疲れるまでそのことを考え続ける。
 それは、著者の言う「自分を実験台として、雄々しく生きる勇気」という言葉に共感したからであり、どこまで苦しむことができるか、自分を観察するスタンスに立ったからである。
 そうしてみると、悲しんだり苦しんだりしているときほど、自分の本当の心を発見できると思うようにもなってくる。
 事実、面白おかしいときはただそれだけだが、悲しく辛いときは、自分でもびっくりするくらい、いろんなことを考え、人間というものが少しずつ分かってくるようにも思う。
 悲しむのも人生、苦しむのも人生ならば、いっそ、それから目をそらさず、誰よりも深く悲しみ、苦しんでみせる。そして傷つくのもまた人生ならば、誰よりも深い傷をこの心に刻んでみせる。
 そう思い定めて、頑張っていこうと思っていた。
 しかし、悲しいかな、時とともに我が身にずるさや要領が備わってきて、とことん苦しむどころか、あらかじめ苦しみに予防線を張ることが常になってきたのも事実である。
 すなわち、常に最悪の結果をイメージし、実際の結果を見て、「ああ、最悪の結果にならなくて良かった。これなら耐えられる」と自分を慰めるような“知恵”の習得である。
 あるいは、自分よりももっと悲惨な目に遭っている人を思い描いて、「俺なんてマシな方だ」と自分に言い聞かせる“ワザ”も身についてきた。
 人間、年とともに丸くなるというが、それがこういうことなのだろうか。
 確かに、悲しみ続けたり苦しみ続けたりするのは、しんどい。怒りや恨みも疲れる。適当なところで手を打たないと、残りの人生が思いやられる。
 生きる知恵を身につけて丸くなるか、若いときのように思い詰めてとげとげしく生き抜くか、生涯の指針だった筈の規範に迷いが生じている昨今ではある。

= 1991年7月 =


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