この言葉、なんとかなりませんか(1)


してもらったりすることってできたりしますか

 「○○を貸してもらったりすることってできたりしますか」
 これはいったい、何語だろう。「○○を貸して下さい」でいいと思うが、それでは無遠慮だと思うのなら、「○○を貸してくれますか」で十分ではないか。
 相手の承諾ないし許可を直接訊ねず、といって自分を主語にする訳でもなく、貸すのも借りるのも第三者であるような回りくどい言い方は、どこからくるのだろう。
 かつて若者のもの言いは、はっきりしているところに真骨頂があった。角の立つこともあったが、それが若者らしい正直さで、年をとり経験を重ねると、段々もの言いが曖昧になってきて、ずるさや弱さが見えてくる。
 それなのに、今、若者たちの言葉は、何を言いたいのか判らないほどくどくどとして、じれったいこと、この上もない。
 そういう年配者だって、かつては若者言葉を発して当時の年配者の眉をひそめさせていたのではないか、ということは分かる。言葉は変わってゆくものだということも分かる。
 それにしても、冒頭の言い方はひど過ぎないか。
「してもらいたいのは私ではないのですよ」「無理に頼んでいるのではないのですよ」と二重三重に予防線を張っているずるさに辟易してしまう。

 やたら「大丈夫ですか」と言うのにも抵抗がある。
 たとえばファミリーレストランで山菜蕎麦と天ぷらを注文する。すると「山菜蕎麦と天ぷらで大丈夫ですか」とやられる。まるで、それだけでは少ないと思いますけど、それで生き延びられますか、と訊かれているようだ。
 大丈夫という言葉は、「この道を行けば大丈夫」というように、危険や心配、間違いなどがないという意味ではないのか。怪我や悲しみ、心痛などが、なんとか耐えられる程度であるというときにも使う。転んだ子供に「大丈夫か」と声をかけたり、失恋を慰められた人が「ありがとう。もう大丈夫だから」と答えたりするのがそれである。
 つまり、大丈夫か、という言葉には、相手をいたわったり心配したりする響きがあり、相手がなんらかの弱者であるという前提がある。
 だから、「ステーキで大丈夫ですか」などと訊かれると、「俺は入れ歯じゃねえ!」と言い返したくなる。
 先日などは、テレビで若い女性タレントが言っていた。
 男性タレントが素潜り漁を体験し、あまりのしんどさに音を上げながら、見ていた女性タレントに向かって「やってみる?」とからかいを入れる。それに対して女性タレントが、
「ダイジョウブデース!」
と答えたのである。
 大丈夫? では、やるのか?
 いやそうではない。彼女は尻ごみして辞退したのである。
 それなら「結構です」とか「やめときます」とか、「遠慮しておきます」とか言うべきではないか。ここまでくると、なまじその女性が可愛らしい顔をしているだけに馬鹿さが増幅して見える。

 その大丈夫に「全然」とつけるのは若手芸能人に多い。「全然大丈夫です」と言ったかと思えば、「全然美味しいじゃないですか!」「全然似合いますよ!」などと叫んだりもする。いやしくも人前で喋るのを仕事にしている者が、「全然」は否定語を伴う副詞であるということも知らずに大声ではしゃいでいるのを見ると、情けないのを通り越して腹が立ってくる。
 ちなみに最近の辞書には「とても、非常に」というような肯定的な意味が載っていることもあるが、あくまでも(話し言葉の俗な使い方として)というような注釈がわざわざつけてあり、そういう使い方を正しいとしている訳ではない。むしろ“本来は間違った使い方であるが”という含意の注釈であることに気をつけるべきである。

 その芸能人が連発する嫌な言葉に「やばい」というのがある。
 やばいという言葉は、身に危険が及ぶとか物事がうまく進まないという意味であるが、盗人を意味する隠語として使われていたくらいで、あまり品の良い言葉ではない。まあ、それでも勝負事で敗色濃厚となったときに「これはやばい」というように使っていれば意味は判る。
 ところが、最近は若い芸能人が美味しいものを食べたときやかっこいい服を見つけたときなどに「これ、マジやばいっすよ」というように、「とても良い」という意味で使っている。
 「全然やばい」などとくればもう、テレビを消したくなる。

 こういう、意味がまったく逆なことに気がつかずに、誰かが使った言い方をそのまま真似している例は枚挙にいとまがないのだが、もう一例だけあげておこう。
 私は定年まで教員をしていて、若い教員の間違った言葉使いを注意するのも仕事の一つであった。あるとき「私より1個年上の先輩が」などという言い方をする者がいたので、「君は飛行機が1個飛んでいると言うか。侍が刀を2個さしていると言うか。基本的な助数詞ぐらい正しく使えなくて教壇に立てるか」と注意をした。
 すると、信じがたい返事が返ってきた。
「すいません。なにげに言っちゃったもので・・・」
 なにげに見た。なにげに聞いた。なにげに触った。等々、若者の間では「なにげに」が大きな顔をしてまかり通っている。
 「何げ」とは“特別な意図や考えという意味であろう。 だから「何げなく言った」というのは「深い意味はなく言った」ということになり、悪意や下心がなかったという弁明にも使われる。
 それが「何げに言った」ということになれば、分かっていてわざと言った、という意味になり、悪意がむき出しになる。「何げに見た」となれば、因縁でもつけるために見た、という意味にもなってくる。
 私は「君の言う、なにげに、とはどういう意味か」と訊いた。「えーと、なんとなく、ということですかねぇ」という返事であった。もう、何をか言わんやである。

 日本語の乱れの象徴とも言うべき“ラ抜き言葉”についても、最近はあまり取り上げられないが、あれほどかまびすしかった評論家たちは、どこへ行ってしまったのか。
 私が初めて“ラ抜き言葉”を聞いたのは、もう40年も前になる。
 忘れもしない、先輩教員が「明日はコレナイ(来られない)ですから」と言うのを聞いて、なんという教養のない人間がいるものかと呆れたが、今やテレビの司会者までが「食べれない」などと言っている。コマーシャルでもまた「いつかまた、これるよね」と歌うのがあって、私はその会社の製品は絶対に買わないと決めたものだ。
 別段、下一段活用の可能動詞との混同、などと昔習った文法を振り回さなくても、日本語としての響きが不自然であり、喋っていて舌に違和感が生じるのではないかと思うのだが、無論、喋っている本人がそんなことを感じている訳はない。

 これらすべて、言葉の意味を考えずに人の言い方をそのまま真似る若者たちの風潮に根差すものであり、それゆえ誰か有名人が間違った言葉使いをすると、たちまち日本中にそれが蔓延して、日本語を勉強している外国人から指摘されたりすることにもなる。
 もう少し、若者たちに
言葉の使い方を考えてもらったりすることってできたりしないですかねぇ。

                                         

2010.7.21


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