東北一人旅(1)  挫折の始め         1962.7.31~8. 13 (13泊14日)


 道端に立って、親指を立てた握り拳を突き出す。 そんなことで止まってくれる車などない。
 もう30分以上もそうしているが、どの車も我関せずと通り過ぎて行く。チラッとこっちを見る人がいると、こちらの心は期待に騒ぐが、ただそれだけである。
 大学1年の夏休み。東北一周のヒッチハイクを思い立った。
 小岩の自宅を出て、蔵前橋通りで親指を立てた。そして30分、1時間。 東北まで行くというのに、まだ自宅から数百メートルしか離れていない。
 私はやり方を変えた。車道に大きく踏み出し、両手をいっぱいに広げて頭上で激しく振った。すぐに中型のトラックが止まり、運転手が手招きをした。
 駆け寄ってドアを開けると、いきなり
「危ねえじゃねえか!」
と怒られた。スイマセン、と謝ると、早く乗れと言う。寝袋を括りつけた大きなリュックを背負っているので、上手く乗れない。
 早くしろ、と急かされながらやっとのことで乗り込むと、どこまで? と訊かれた。
「青森まで行きたいんですけど」
 無論、私だって小岩の蔵前橋通りで青森行きのトラックが捉まるとは思っていない。まずは国道4号線まで出て、そこからひたすら北上するつもりでいた。それなのにいきなり青森と言ってしまったのは不覚の極み。思いがけずすぐに止まってくれたことで、心の準備ができていなかったための失態と言っていい。
 案の定、運転手は呆れ顔で、青森に行く車がこの辺を走っているわけがないだろうと言う。 私がやっぱりスイマセンとしか言えないでいると、とりあえず環七で降ろしてやるから、そこで北向きの車を捉まえろ、あとは4号線に乗りたいと言えば 次の手を考えてくれるだろう、というようなことを教えてくれた。
 たったそれだけの会話が終わらぬうちに、トラックは環七の交差点に着いてしまった。
 停車には不都合な場所らしく、早く降りろと言う。またしてもリュックが邪魔をしてすんなり降りられなかったが、運転手は苦笑いをしながら
「がんばんな(頑張りな)」
と言って、走り去った。

 ヒッチハイクは初めてではない。友達にヒッチハイク経験者はおらず、私の何回かの経験は それなりに称賛されてもいた。 なのに、この体たらくである。
 環七では、始めから両手を振る作戦をとり、ここでも、ものの数分で乗用車が止まってくれた。助手席側のドアを開けて、さっきの運転手に言われたとおりに希望を伝える。
 乗用車の主は40代くらいかと思うが、穏やかな男性で、日光街道経由でよければ春日部まで送れる、春日部からは4号線に乗れるから それでどうか、と言ってくれる。
 スイマセン。またしても気の利かない礼を言って、リュックを後部座席に乗せ、自分は助手席に乗り込む。
 車中でどんな話をしたかはまったく覚えていないが、会話が途切れて気詰まりだったとか、色々質問されて困ったとかいうこともなく、ただ 紳士だったなという記憶だけがある。
 春日部では4号線に立って頑張ったが、止まってくれる車は1台もなかった。4号線は混みに混んでおり、信号待ちの車に声をかけたりもしたが、いずれもけんもほろろに断られた。
 まめにつけていたつもりの手帳だが、このときの時間が書かれていない。だからどのくらい春日部に立っていたのか、今となってははっきりしないが、「腹へった」などと書かれているところを見ると、おそらく2,3時間はいたのではないかと思う。
 とうとういやになって、国道16号線に移動した。16号線では北に行けないが、そこで車を探すつもりはなく、ただ4号線に立っていることに疲れて何となく移ったに過ぎない。
 それなのに、いきなり大きなトラックが止まった。
「取手まで、乗って行くか?」
「スイマセン」
 とっさのことで、訳も分らず 乗ってしまった。 取手では北上どころか、真東、というより若干南へ戻る方角である。しかしまあ、太平洋岸を北上するのもいいだろう。
 運転手は気のいいおじさんで、寝袋を担いだ私の姿を見て、すぐに無銭旅行の学生だと直感し、声をかけてくれたのだと言う。ヒッチハイクなら指なんか立ててもダメだ、行く先を書いた紙を持って立っていなければ 運転手の方でも判断ができない、とも教えてくれた。
 なるほど、取手に着いたらスケッチブックとマジックインクを買って早速実行しようと思ったが、降ろされたのはほとんど人家もない所で、そのままそこに立つしかなかった。国道6号線である。
 幸い、あまり待つこともなく、土浦まで乗せてくれる車があった。これも中型のトラックで、助手が乗っていたために車内はかなり狭く、私の荷物は荷台に載せた。運転手と助手はともに多弁で車中は賑やかであったが、それでいて私とはあまり話をせず、2人で野球の話ばかりしていたように思う。
 土浦ではパンを買って、霞ヶ浦を眺めながら遅い昼食をとった。もう陽が傾いていたし、寝る場所を考えると落ち着かなかったが、逆にあまり早い時間では泊めてくれる家もなかろうから、半分開き直った気分もあった。
 今から車に乗せてもらっても予定が立たないので、6号線を北に向かって歩き始めた。民家があったら 一夜の宿を頼もうというつもりである。
 しかし、民家はあまりなかった。たまにあっても道から少し離れていたりして、なかなか踏ん切りがつかず、そうこうしているうちに、辺りはもう、かなり暗くなってしまった。
 そんなとき、道から4、50メートル離れた所に 小さな鳥居が見えた。行ってみると、木立に囲まれた神社で、社だけがあり、無人である。
 神社というのは、寝場所としては結構具合がいい。 まず静かである。 次に縁の下が高いので、潜り込んで寝るには都合がいい。なにも敷かずに寝ると体が汚れたり冷えたりするきらいもあるが、そんなときは広い縁側が待っている。神社はどこも軒が深いので、縁側に雨が吹き込むことはあまりない。
 お寺も同じ条件は整っているのだが、やはり墓石を眺めながら寝るのはあまり気持の良いものではない。 神社だったら、私も子供のころから何回となく寝ている。
 今晩は、民家はやめてここにしよう。
 この夜は縁側で、パンをかじって寝た。神社の難点は蚊が多いことだが、これはもう仕方がない。体は寝袋で、顔の周りは蚊取り線香で防ぐ。

 翌日は比較的簡単に車が捉まり、早々と水戸に着いた。ここには高校の同級生、松本君がいる。成績優秀で、茨城大学に進み、水戸市内の大学寮にいる。
 今回の旅で水戸を通る予定はなかったので、連絡はしていない。夏休みでもあり、寮にいるかどうかも分らなかったが、とりあえず電話をしてみた。寮監らしい人の話では、帰省はしていないが、今は外出しているようだとのこと。
 それは仕方がないことであり、期待していたことでもなかったので、まあ良しとして、せっかく水戸に来たのだからと、偕楽園に行ってみた。
 天文12年に第9代藩主徳川斉昭が築いた日本庭園。偕というのは共にという意味だそうで、斉昭が領民と共に楽しむという趣旨でつけた名であると、由緒書きが出ている。
 金沢の兼六園、岡山の後楽園と並んで日本3名園に数えられている由で、確かに見事な庭園だ。ただ、兼六園や香川の栗林公園、熊本の水前寺公園などが完璧に整えられた人工の造形物であるのに比して、いくらか大雑把な作庭のように感じられた。
 ちなみに私は後楽園に行ったことがないのだが、草1本にまで人の手が加わっているようなスキのない庭園より、ここ偕楽園のようにいくらか雑草でも生えているような庭の方が、私にはしっくりくる。
 偕楽園近くの食堂で親子丼を食べたあと、もう一度寮に電話をしてみると、松本君が帰っていた。俺はこれから東北まで行くので声だけ聞けばいいと言ったのだが、松本君は、馬鹿言うな、と言ってすぐに出てきてくれた。
 今晩は寮に泊まれと言う。2日目でまだ水戸に泊っているようでは先が思いやられるが、私としても松本君とは久しぶりであり、好意に甘えることにした。
 松本君はあだ名を「カモ」といい、仲間たちは 今でもカモと呼んでいる。 千葉県の中央部、加茂という村から通学していたのがその由来だが、加茂は我々の間で「千葉県のチベット」と揶揄されるほどの田舎であったことから、多分に「田舎っぺ」という意味合いも含んでいる。
 そんな田舎からよくも、と思うが、勉強ができ、スポーツができ、絵も字も上手で、さらに雑木の小枝から細密な蝉の姿を彫り出したりする器用さもある。
 石川啄木の信奉者で、私は彼によって啄木の魅力を教えられた。実は今回の旅も、啄木の故郷である岩手県の渋民村を訪ねるのが大きな目的になっている。この際、水戸に1泊して啄木について語り合うのも おおいに意義あることであろう。

 やはり泊って良かった。松本君から啄木の話をたっぷりと聞けたし、渋民村で訪ねるべき啄木ゆかりの地についても 十分な助言を得た。
 水戸からは国道 118号線を北上する。1本道で、どんどん北上できそうに思えたが、長距離を乗せてくれる車がなく、ものの10分もしないうちに降ろされてしまう車もあった。
 まあ、考えようで、道は久慈川に沿っているから、何度も清流に入って泳いだり、日陰で昼寝をしたりと、それはそれで楽しみ、夕方、大子町に着いた。
 泊る家を探していると、袋田小学校というのがあったので、教室で寝かせてもらえないかと頼んでみた。
 その頃は全国どこの学校にも宿直というのがあり、先生が交代で宿直室に泊っていた。私たちも中学生のときは 天体観測を口実にしょっちゅう学校に泊っていた。 先生もおおらかなもので、酒を飲みながら色々な話をしてくれた。
 袋田小学校の先生は、なんのためらいもなく私を宿直室に泊めてくれ、夕飯も食べさせてくれた。
 近くに 袋田の滝というのがあるという。 華厳の滝、那智の滝、袋田の滝は日本3名瀑と言われている、自転車を貸すから 明朝是非行ってみなさい、ということだった。
 翌朝、自転車で滝を目指す。小さな掘立小屋の土産物屋が1軒あって、場所はすぐ分ったが、そこに自転車を預けてから 山道をかなり歩かねばならない。 川沿いのけもの道のような所を辿る。ときどき足を滑らせ、斜面の草を掴んで体を支えたりもした。
 川の音が大きくなったなと思ったとき、目の前に忽然と滝が現れた。あまりにも近くに、あまりにも大きな滝が出現したので、感動というよりは恐怖に近い感じを覚えた。
 後年、私は長男を連れてその袋田の滝に行った。山の深さと圧倒的な滝の迫力を見せるためであったが、行ってみると、広い駐車場から両側を土産物屋に挟まれた立派な舗装道路が続き、さらに料金所があって、その先はコンクリートの長いトンネルになっている。トンネルの奥が直角に曲がり、そこに観瀑台がある。さながらビルの窓から滝を見る按配で、野趣はまったくない。
 華厳の滝、那智の滝は雄大な自然の中に溶け込んで、前に立つだけで心が現れる荘厳なものだが、現在の袋田の滝は俗化の極にあり、商魂ばかりが鼻につく。三名瀑の位置づけは他に譲った方がいいのではないか。
 人が集まればカネを取る。人が集まれば土産物屋が乱立する。人が集まれば辺りをコンクリートで固める。仕方がないといえばそれまでだが、山道を踏み分けて辿り着いた経験をもつ身にしてみると、なんとも興醒めな変化と言わざるを得ない。

 4日目も 118号線を北上。やはり長距離の車はなく、福島県の白河まで、あとで調べるとわずか70キロほど進むのに、昼を過ぎてしまった。
 しかし、白河市内の国道4号線で難なく捉まった運送会社のトラックが、郡山まで行くという。距離は40キロほどしかないが、トラックは郡山駅に隣接した貨物の集配所に行くので、そこで仙台方面行きのトラックに乗り換えればいいとのこと。こんな旨い話は滅多にない。
 おまけに運転手は気さくなアンチャンで、なにやかやと明るく話しかけてくる。東京は水不足で水道の水も出ないということだが、自分の家もそうか、とか訊いてくる。「自分の家」とは判りにくいだろうが、この人はなぜか、「自分」という言葉を「君」という意味で使う。 自分は学生か? 自分は将来、何になるんだ? という具合である。
 私も初めは話がかみ合わなかったが、何度かちぐはぐな受け答えをしたあとでそれが判ったので、水道についても 私の家の水道のことだと察しがついた。
 実は報道ほど東京の水は不足していたわけではなく、私の家の水道も普通に出ていたのだが、相手がそう思い込んで質問しているのに、いや普通ですよ、と言うのも悪いような気がして、「ええ、出ないんですよ」と答えておいた。
 しばらくすると、道の両側にリンゴ畑が次々と見えてきた。福島県はリンゴの産地だそうだ。普通の家にもリンゴの木が植えてある。中には塀の上から道路にはみ出した枝に実がなっているものもある。
 アンチャンが、この先で車を塀に寄せるから、窓から“自分”が手を伸ばしてリンゴを取れと言う。そういうことは私が最も得意とするところだ。
 アンチャンもなかなかのもので、徐行しながら車を左に寄せる。私がリンゴをもぎ取ると、ごく自然にアクセルをふかす。何度かやって、まんまと7、8個のリンゴを手に入れた。 アンチャンはそれをかじりながら運転を続ける。私も車中で1個食べ、3個をリュックに入れた。

 郡山の集配所に着いた。私も手伝って荷降ろしが終わると、アンチャンは、事務所に行って北行きのトラックに乗せてくれと頼めば乗せてもらえるから、と言って帰って行った。
 心弾む思いで事務所に入る。課長か所長か、そんな感じの人が私の話を聞いて、しばらく返事をしなかった。気まずい沈黙のあと、その人は言った。
「君のような人がときどき来るんだよ。君は遊びでいい気分だろうけどね、運転手は命懸けで働いているんだよ」
「スイマセン」
「もし君を乗せて事故を起こしたら、誰が責任を取る? 運転手の家族はどうなる? そういうことも考えてくれなくちゃね」
「スイマセン」
「まあ、今回は仕方がないから、誰か頼んでやるけどね」
「スイマセン」
「明日の朝、6時に何台か出るから、その前に来なさい。だけど次からはね、自分で旅費を払って旅行しなさいよ」
 この言葉は手帳にそのまま書きとめてあるが、手帳を見なくても一言一句、忘れてはいない。
 重い空気に包まれた気分で事務所を出た。まだ陽は高いが、どこかを見物する気にもならない。そのまま目の前の駅に行き、ベンチに坐り込んだ。
 今晩どこに泊まろう。郡山の駅は都会の駅といってよく、ベンチで寝られるような雰囲気ではない。重い腰を上げて町へ出た。とぼとぼと当てもなく歩き、気がつけばまた駅に戻っていた。
 駅で暫くの時間を過ごしたあと、もう一度 町へ出ようと腰を上げたその足で ほとんど衝動的といっていい、いわば弾みで 私は出札窓口に行き、三沢行きの切符を買った。
 三沢に何か意味があったわけではない。とにかくどこでもいい、北に行きたかった。
 ホームに出て時刻表を見ると、その時間に三沢まで行く鈍行はなかった。夜通し走って朝方三沢に着く急行があったので、ともあれ、それに乗ることにし、ホームで天婦羅そばを食べる。
 列車が動き出して、なぜかすぐに眠ってしまった。ずいぶん寝たように感じたが、目が覚めてみると、まだ福島の手前で、それからは暫く眠れなかった。
 外は真っ暗なので、窓に自分の顔が映っている。そのときになって、じわじわと後悔の念が湧いてきた。今回の旅は東北一周ヒッチハイクの筈。大雑把に半月ぐらいかかるだろうと予想していた。それがまだ4日しか経っていないのに、今こうして汽車に乗っている。
 こんなに早くくじけてしまった自分が情けなかった。
 出札口に行く直前までは、郡山に泊るつもりでいた。翌朝トラックに乗せてもらえることにもなっている。それなのに、切符を買うときには、それを叱る自分というのはどこにもいなかった。

東北一人旅(2)
Copyright© 2010 Wakeari Toshio.All Rights Reserved.
inserted by FC2 system