等身大でいいのか?


背伸びして、無理をして、頑張ろう


 もうかなり前のことになるが、時事ネタなどで人気を得た漫才師が、周りからおだてられてその気になり、いっぱし評論家を気取るようになった。
 彼があるとき言った。
 「日本ではマラソンのとき沿道の人たちが『ガンバレ!』と応援する。しかしハワイのホノルルマラソンでは『グッドジョブ』とか『エンジョイ』とか言う。
 日本人は辛い思いをして走る。アメリカ人は楽しんで走る。 だから日本人はダメだ。アメリカ人は素晴らしい」

 そのころ、「等身大の生き方」という新しい言葉が広まりつつあった。
 自分の力以上のことを自分に課さない。無理をしないで、できる範囲のことをして楽しむ。背伸びをして自分を良く見せようとはしない。・・・等身大でいいのだ。
 そういう論調が人々の支持を得て、いきおい、それまでの刻苦勉励といった道徳観は不人気になってきた。
 えせ評論家の常套手段は、世の空気に乗ることである。
 げんにその頃、日本でもあちこちの市民マラソンで、はなから完走など考えない「おふざけランナー」が出始めていたのだから、その漫才師の「卓見」は二番煎じ、三番煎じの域を出ないものであった。

 私は、したり顔で長広舌を振るうその漫才師を見ながら思った。
 「ガンバレ」のどこが悪いのだろう。辛い思いをして走って、なぜいけないのだろう。
 常夏の浜辺をワイワイ言いながら走るハワイでは、楽しむことを主たる目的にしている参加者が多いと思う。それはそれでいい。
 しかし日本では、あえて困難に立ち向かうことで自分を試したいという人が多い。苦しさを乗り越えたときの達成感を生き甲斐とする人、日頃のジョギングの成果を確認したい人もいる。
 そうした人にとって、マラソンは苦しいことへの挑戦だ。自ら挑んだこととはいえ、息も弾めば脚も痛む。そんなときにかけられる「ガンバレ!」という励ましは大いに力になる。 それを「大きなお世話だ!」と思って腹を立てる人がいるだろうか。
 「ガンバレ」と言われたためにやる気を失ったという話は聞いたことがない。

 マラソンに限らない。
 なにかの事情で心身が傷つき、これ以上は頑張れないし頑張る材料もない。そんなときに関係のない人から囃し立てるように「ガンバレ」と言われたらよけいに傷ついてしまうかも知れないが、自分が頑張りたいと思っているときに「ガンバレ」と言われることは嬉しいし、力にもなるに違いない。

 思えば、日本の若者が将来に向かって努力するという姿勢を失ったのと、「等身大」という言葉が金科玉条の如くまかり通るようになったのとは、時を同じくしている。
 日本の経済状況が向上し、努力しなくてもそこそこ豊かな生活が送れるという環境ができたのも同じころだ。
 私が現役の教員だったころ、勉強しないと将来困るぞとか、苦あれば楽ありだとか、教員の典型的な説教を繰り返していた。
 それに対する生徒の反応は、「先のことより今楽をする方がいい」「あとで困っても、その時はその時」というのが殆どであった。
 確かに、努力したところでバラ色の将来が待っているという保証はないから、彼らの言い分が100%間違っているとは言い切れない。

 それではせめて、将来ではなく今、人から馬鹿にされないための努力をしようじゃないか、ということも言い続けた。髪の毛を赤く染め、ズボンをずり下げて電車の中でタバコを吸っていたら、今馬鹿にされるんだ。きちんとした格好をして、お年寄りに席を譲って立っていれば、今褒められるんだ。
 しかし、生徒たちは、別に褒められなくたっていい、馬鹿にされたっていい、疲れて褒められるより、楽して嫌われた方がいい、と言って聞かない。どうせ俺は頭が悪いんだ、背伸びをしたってしょうがない、とも言う。

 「背伸びをする」という言葉は「自分を実際以上によく見せようとして見栄を張る」というように解釈され、それは人間の生き方として悪いことだという論調がある。
 マスコミもそれを助長し、一部の教員もその論調を便利に使っている。生徒に厳しいことを言ってうるさがられたり嫌われたりしてしんどい思いをするより、耳当たりの良い言葉で生徒の歓心を買おうという、さもしい教員があちこちにいるのである。
 しかし、「背伸びをする」ということは、本当に悪いことなのだろうか。

 私は思う。
 人は背伸びをすることによって成長するのではないか。
 自分より高い能力を持つ人を見て、羨ましいとも思い、その人のようになりたいとも思う。その思いがエネルギーとなって努力もし、無理もして自分を高めてゆく。
 この「無理」という言葉について、実現するのがむずかしいという意味を通り越して、どうやっても実現はできない、だからやっても仕方がないし、やる必要がない、という使い方が横行した時期がある。
 若い人、とりわけ高校生などが、やりたくないことを言われると即座に「無理!」と言って拒否するのである。それも頭を抱えて呻くように言うのではなく、あっけらかんと、ときには笑いながら言う。
 「おい、足元の紙パック、拾ってくれ」
 「無理」
という具合である。足元に落ちているジュース類のパックを拾い上げることなど、力を要することでもないし、時間がかかることでもない。つまり「無理」な作業ではない。それを「無理」の一言で済ませようという了見はいったいどこから生まれるのであろう。
 私は和太鼓部の顧問もしていたのだが、和太鼓というのは技量もさることながら全身を全力で駆使して太鼓と格闘するところに観衆を魅了する醍醐味がある。いきおい練習も厳しくなるし、難しい打法を繰り返し練習しなければならない。
 するとたちまち音を上げる生徒がいて、その台詞は「むりー!」となる。あるとき別の高校の和太鼓部との合同練習があり、その最中にその生徒がまた「むりー!」と言って座り込んだ。それに対してその高校の顧問教師が言った「無理だから練習するんだよ」という言葉に、私はいたく感じ入った。
 それはそうだ。今の力でできる演奏なら練習することはない。今はできないから練習してできるようになる、それが練習というものだ。

 思えば私も、昨今の若者ほどではないが、自らに無理を強いるという点において人に語れる生き方をしてきたとは言えない。
 そもそも私は自分が他の人より優れていると思えることは一つもない。知能、知識、勇気。度胸、根性、体力、運動能力、経済力。何をとっても人を羨むばかり。果ては歌が下手だとか、容姿が劣悪だとか、いってみればどうでもいいことについてまで劣等感を抱いている。
 そしてその殆どについて、今さらどうにもならないと、背伸びすることすら諦めている。その諦めた部分については、もう成長はない。
 反面、人より劣っていて、このままではいたくないと思っている部分も全くないわけではない。たとえば英語だ。
 私は、仕事を含めて外国人とのやりとりが多い生活をしてきた。いつもいつも、相手の言っていることが理解できずに切歯扼腕するばかりで、我ながら情けない。
 たとえば外国でホームパーティに呼ばれる。私に向かって言うときには、私に合せた語彙とスピードで話してくれるからなんとか理解でき、なんとなくパーティに参加している気分になるが、ガイジン同士が喋り始めると、まるで機関銃のように言葉が続いていて、まるで理解できない。皆が笑っても、何がおかしいのかさえ解らない。
 あるとき、観光バスに乗った。ガイドがある石造りの灯台について説明をした。乗客がどっと笑い、中にはヒーヒー言って笑い転げている人もいる。私は何がおかしいのかとんと解らず、隣の人に訊いた。それがまた解らない。
 やっとのことで、それが次のような冗談だと解ったときには、ガイドはまた別の冗談で乗客を笑わせていた。
 「あるイギリス人がこの灯台を見て、『石をこんなに積み上げることなんて出来る筈はない、これは積み上げたものではなくて、井戸を逆さにしたものだ』と言った」
というオチだ。
 隣の人は、あのガイドはタスマニア訛りが強いから聞き取れなくて当然だ、と私を慰めてくれたが、その人には聞き取れていたのだから、慰めにはならない。

 年齢を考えると、かくも低レベルな自分の英語をなんとかすることはもはや不可能だということは分かる。
 でも、私としては、サッカーやゴルフほど諦めてしまったわけではない。英語については「等身大」ではなく、「背伸びして」「頑張って」、今より少しはできるようになりたいと思っている。
 努力に見合う成果は期待できないが、それでも錆びる速さを多少とも遅らせるために「等身大」に妥協しないスタンスは持ち続けたいものだと思っている。

 つまり、今の自分のレベルでは届かないものを、背伸びして取ろうとすることは悪いことではく、むしろ、良いことなので。
 今のままで得られるものだけで満足していこうという生き方は、楽ではあるが、刺激のない、退屈な生き方ではないか。
 私は、背伸びせず、見栄も張らずにのんびりと余生を送ろうという心境にはまだなっていない。

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