双方向性のある会話
喋るだけでは会話にならない
自分のことを語らない人は難しい。 何を考えているのか推し量り難く、こちらをどう評価しているのかも分からない。 だからこちらも何を話していいのか分からず、どの程度まで掘り下げていいのかも分からない。 その人物の幅とレベルが読めないからである。
その点、自分のことをペラペラと喋りまくる人は扱い易い。 話題のジャンルを選び易いし、適当に合わせていれば場は進んでいく。
私の知り合いに牧野さんという人がいる。 仮名であるが、主語がないと文章が書きづらいし、Mさんなどと書いたのでは同じ稿の中に前田さんや本木さんが出てきたときに困るので、あえて牧野さんと書いておくことにする。
初めに断っておくが、牧野さんは類まれなる「いい人」である。 骨身を惜しまず、とにかくよく動く。 老人会の集まりでも皿を並べることからゴミの分別、さらに呑み終わったビール缶のプルタブを1個ずつ外して福祉機関に届けることまで、およそ人の後ろにいるということがない。
その牧野さん。 自分のことをペラペラとよく喋る、というより自分のことしか喋らないから、当方としてはこれほど楽な相手はいない。
牧野さんはパソコンもプリンターも持っているが、それを使って年賀状を印刷するということができない。 私にやってくれというので、もう4・5年やっている。 そのくらいのことは手間というほどのことでもないので苦にもならないのだが、都度同じ話をされるのには少々うっとうしい思いをしている。
「俺は付き合いが広くてさあ、70枚も年賀状を出すんだからよう、とてもじゃねえけど手で書いてなんかいられねえよ」
「年賀はがきを買いに行ってよう、70枚って言うと郵便局の人間が驚いてるよ」
70枚程度で驚いていたら郵便局員は勤まらないと思うが、私が不思議に思うのは、牧野さんの思考回路である。 自分が話している相手つまり私が何枚出すかということは全く考えないのだ。
私は長いこと学校の教員をしていた。 そのことは牧野さんも知っているので、仕事がら年賀状のやりとりも多いだろうということは想像できそうなものだが、私が牧野さんよりも多く出すかも知れないということはチラとも考えないらしい。 だから「こんなに出す人間はいねえよ」とつけ加えたりする。
私にしてみれば、70枚で済むならこんな楽なことはないと思うのだが、相槌は「そうですか」「大変ですね」を繰り返していればいいのだから、うっとうしささえ我慢すれば、会話の難しさはない。
町内会で定期的に公園の草むしりをしている。 炎天下での作業のとき、私は四国遍路などで使う菅笠をかぶって行った。 風通しがよく遮光性も十分で作業にはまことに具合がいいのだが、あまりこういう場面では見かけない。
そのため人の目についたと見え、休憩時間に仲間の一人が「いいものかぶってますねえ」と声をかけてきた。
その言葉が終わらぬうちに牧野さんが大きな声で「俺も持ってんの」と言い、なぜ持っているのか、それがどれほど便利かということを延々と語り始めた。 皆、また始まったという顔で生返事をしていたが、牧野さんは皆の顔色を読まず、いつかな話をやめない。
そのうち作業再開となり、結局私はそれについて一言も発することなく終わった。
私の妻が死んだとき、牧野さんを含む町内会の代表格3人が弔問に来てくれた。 墓はあるのかと聞かれ、元気なときの妻との約束に従いたいと答えた。 子や孫に墓守の負担をかけたくないし、ひ孫となれば我々の顔も知らないのだから、墓参りにも心がこもらない。 ならば自前の墓は用意せず、市の合葬墓に夫婦用のスペースを確保して公の機関で管理してもらおうという約束である。
代表の一人が、俺もそうしたいけど先祖からの墓があるし、古い仏は土葬だし・・・、と言った途端、それまで一言も喋らなかった牧野さんが「そう、昔はねえ、皆土葬だったの」と言い、それからは土葬の仕方や遺体の腐食について滔々と喋り続けた。
そういうことは自分しか知らないと思っているようであった。
自分が家庭菜園をやっていること、それにどんな技術が必要かということ、採れた野菜をどうしているかということ・・・、延々と続く。
会社や町内会、老人会などの組織で自分がどうやって人心を惹きつけているかということ、自分が女性にもてるのはどうしてかということ・・・、とどまることがない。
挙げていけばきりがない牧野さんの独演会であるが、いつでもどこでも一貫しているのは、人のことを全く尋ねないということである。
「俺はこうしてるけど、あなたはどうしてる?」
「俺はこれを持ってるけど、あなたも持ってる?」
「俺はどこそこに行ったけど、あなたも行ったことある?」
というようなことは決して聞かない。 俺はこうしてる、俺はこれを持ってる、俺はどこそこに行った、ということだけ。 語り口は熱い。
つまり、自分のことを相手に聞かせることには熱心であるが、相手のことには興味も関心もないのだ。 だから当方としては触れてほしくないことを聞かれる心配もない。 とにかく「へー!」「ほー!」と相槌を打っていればいいのだから、こんな楽な人もいない。 何を考えているのか分からない、どんな経験をもつのか分からない気難しい人よりもよっぽど付き合い易い。
敢えて難を言うならば、自分が知っていることを相手も知っているかも知れないという思考がないので、こちらの知っていることを長々と講釈されると、だんだん相槌を打つのが面倒になってくるのが困る。
たとえば飲み会の中で誰かが「あっちでもこっちでも道路工事をやっていて散歩もできやしねえ」というようなことを言うと、間髪を入れず、それは市の土木課が年度予算を残しちゃいけないということで年度末に一気に工事をするからだというように解説を始める。
そんなことは最初にそれを言った人も十分承知の上で言っているので、「ああ、そうだったの?」と言うのもわざとらしい。 「そうだねえ」となる。 しかし、その後も延々と続く講釈に耐えられない人は、「そうだよ」「うん」「・・・」となり、ついには「そんなことは皆知ってるよ」となってしまう。
また、こういう一方通行の場合によくあることだが、同じ話を何度もするというのも難といえば難であろう。
相手に関心がないものだから、誰に話したかという記憶と、同じ相手に同じ話をしているかも知れないという不安が思考回路から外れてしまう。 その点は厄介である。
自分のことを全く話さない人は難しく、自分のことしか話さない人はうっとうしい。
まこと中庸こそ望まれるところである。 そして、これが言うべくして成り難い。
しかし世の中捨てたものではなく、私は近年、佐藤さんという稀有の知己を得ることができた。 佐藤さんというのは本名であるが、同姓の人は星の数ほどもいる。 私も子供のころ佐藤姓の友人をからかって、「佐藤・渡辺・馬のクソ!」などとはやし立てた。 どこにでもある、という意味であることは言うまでもない。
であるから、ここで本名を書いたからといって個人情報云々という騒ぎにはならぬであろうと勝手に思っている。
その佐藤さん。 歳は多分私より2・3年上であろうと思うが、いわゆる年寄りじみたところが全くなく、地域の雑用から老人会のスポーツまで積極的に参加しているし、なにより
郷土の文化財解説員という知力も体力も必要なボランティア活動を続けているのだから、それだけで以って敬すべき存在である。
加えて、これが本稿の本題であるが、佐藤さんは会話の名手である。
術として習得したものか天性のものかは分からぬが、ほどほどに自分を語り、ほどほどに相手の話を聞き、会話の双方向性を失うことがない。 私も佐藤さんと話していると、知らずしらず自分が多弁になっていることに気づき、慌てることがある。
ではなにが佐藤さんの会話を質の高いものにしているのか。 逐条的に見てみよう。
まず、声がいい。 声というのは生まれついてのもので、当たり外れは仕方がないという向きもあろうかとは思うが、そうではない。 自分を偉くみせたいという人は自然と声が大きく高くなる。 カ・キ・ク・ケ・コ、ダ・ヅ・ドの音が強くなる。 アクセントを音の強弱に頼るので、聞いていて耳障りである。 耳に障らぬ声というのはその人の対人姿勢と無縁ではないのだ。
佐藤さんは自分の偉大さを喧伝しようという気がないから声が穏やかである。 そしてどちらかというとゆっくり目の喋りに軽い茨城訛りが加わって、聞く者の耳に心地よく響く。 茨城訛りは与えられた資質であるから本人の努力ではないが、得をしているとはいえるだろう。
そして、これこそが佐藤さんの真骨頂であるが、とにかく人の話をよく聞く。 質問はするが話を遮ることがない。 話下手の人はやたら人の話を遮って自分の方に話をもっていきたがるし、相手の話に興味をもたないから質問はしない。
一般に、話し手は自分の話を相手が聞いているかどうかが気になるもので、聞いてくれていると思えば熱も帯びる。 だから自分の話に質問がくると相手の関心が感じられて嬉しくなる。 そこで舞い上がったり調子に乗って熱弁をふるったりするのは噴飯ものであるが、それを含めて会話が盛り上がるのは悪いことではない。
次に佐藤さんが自分のことを話す場面を見てみよう。
先述のとおり比較的ゆっくりした口調で自分のことを話していると、せっかちな聞き手が先回りして口を挟むので、しばしば話が脱線する。 佐藤さんは辛抱強くそれに付き合った上で話を戻す。 ときには脱線させた人が自分の話に熱中して元に戻らなくなることもあるが、そのときはもう、佐藤さんは話を戻そうとしない。
私は自分のことを話したがる人同士の会話が「遮り合戦」になる場面をいつも見ているので、佐藤さんの飄々としたスタンスは実に愉快である。 こちらの話を遮って自分のことを喋っている相手を無理に戻したところで、どうせこちらの話を理解するものではないのだから。
そして佐藤さんは、相手の話の内容をよく覚えている。 単なる社交術として聞くのではなく、誠実に話を聞くからこそ覚えているわけで、後日自分の話したことを佐藤さんが覚えていると知った相手は当然ながら悪い気はしない。
私は雑務の一つとして町内会の行事で写真を撮ったりしているものだから、写真が趣味だと思われることが多く、ある人には顔を合せるたびに、どこかに撮りに行っているのかと聞かれる。別に趣味でもないし、写真を撮るために出かけるようなことはないと答えるのだが、とにかく会うたびに聞かれるので、とうとう切れて、「俺の話を聞いてるの? 写真は趣味じゃないって言ってるでしょ!」と気色ばんだことがある。 我ながら大人げないことであったが、その人が本気で聞いているのではないということが分かるのは、あまり気分の良いものではない。
長くなったので話を整理しよう。
自分のことを語りたいだけで相手のことには関心がないという人は、やがて周囲が真面目に話を聞いてくれなくなる。
相手のことだけを聞いて自分のことはまったく話さないという人は、相手が打ち解けてこない。
会話の双方向性を大切にする人は、相手に会話を楽しんでもらえる。
単なる社交手段としての会話でテクニックとして質問する人は、回答そのものに興味があるわけではないから、何度聞いても忘れてしまう。 結果として誠意のなさが見破られ、人の心が離れてゆく。
誠意と会話術を併せ持った人は、会話相手として選ばれるだけでなく、人間として大切にされるし敬意を抱かれることになる。
つまり、会話には双方向性が大切なのだが、それには話し手の謙虚さや好奇心、相手への敬意が必要で、それらは「話術」を磨いて得られるものではない。
会話の達人は、会話術の達人ではなく、人間としての高い資質をもった人なのである。
そういうことを、私は牧野さん、佐藤さんから学んだ。 佐藤さんの真似はとうていできないが、折りに触れ、自分を戒める糧にはさせてもらうつもりでいる。
この言葉、なんとかなりませんか(11) | 等身大でいいのか | ||