私の読書   『 雑読のままに 』


乱読のすすめ


 子供の頃は、チャンバラごっこであれ、秘密基地作りであれ、毎日がどうしてあんなに楽しかったのだろうと、今の自分が過去の自分を羨むような思いがある。
 反面、自分が何をやっても人に敵わないという思いがだんだん強くなり、劣等感に苛まれていたのも事実であり、その思いは今も続いている。
 高等学校という所はたいした所で、英和辞典を全部暗記しただの、エスペラント語で日記をつけているだのという連中がごろごろしており、私は彼らに対抗する為に、密かにスワヒリ語を習ったりしたが、無論ものにはならず、却って惨めさを募らせる有り様であった。
 しかし、劣等感というのはときに奇妙なエネルギーを生み出すものでもあり、私は突如として猛然と本を読み始めた。
 実は私は、その頃になっても相変わらず岩窟王や小公女といった「少年少女世界名作全集」など読んでいたし、『ハックルベリーの冒険』や『十五少年漂流記』といった冒険物に夢中になっていた。 あまつさえ、杉浦茂の漫画に出てくる コロッケ五円の助とかシュウーマイ小僧といったキャラクターの絵を漢文のノートに書いていたくらいだから、とても読書論など語る自信はなく、為に、その後は意識的に難しい本を選んで読んだ。
 読んだ証拠を残す為に、赤鉛筆で滅多矢鱈と線を引き、真っ赤になった本を片手に、誰彼となく捉まえては、「モータルとしての吾人がその命題を求める時、生の範疇、就中、悟性と実存との相関を無視し能わず、ただこれ煩悶・・・」などと、自分でも訳の判らぬことを口走っていた。
 すると、私よりももっと劣った奴輩がいて、あろうことか、「訳有はすごい」などと叫んだものだから、私はますますいい気になり、古今の名著と呼ばれるものはもとより、『講談全集』『馬術入門』、はては『本の読み方』などという本に至るまで、文字通り、手当たり次第に読み耽った。 乱読もいいところで、少しも血肉とならず、ただただ、時間と赤鉛筆だけが空費されていった。
 とはいえ、そうした読書の中で私は倉田百三や阿部知二、西田幾多郎といった、当時の高校生だったら誰もが読んでいた人々の著作に接し、それがまた、西洋古代、わけてもプラトンに近づくきっかけになったことは確かで、それだけは怪我の功名だと思っている。
 勿論、私がそれらを理解していた訳ではなく、むしろ、皆目理解できなかったからこそ、よけいに感嘆し、驚愕したのであり、さらに言えば今もって何も解らないというのが真相なのだが、それはそれで楽しく、ウンウン言いながら勉強していたことが、そのまま社会科教員という職業に結びついて生徒相手に古代西洋思想などについて語っていたのだから、これ以上の幸せはない。
 劣等感ゆえの読書が私の人生を方向づけ、後にそれらの本を読むことが仕事の一部になり、今もって楽しみであるのだから、まあ、人生わからぬものである。
 けだし、塞翁が馬の好例であるが、かくなる上は、かつての乱読を恥じることなく、人にも勧め、自らもまた、『釣り入門』など読み続けてゆこうと思っている。


==昭和45年頃、勤務先の高校で「図書館報」に掲載したものを、時間軸を今に移して書き直しました。==

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