第10回 赤穂~門司(1) 2018.9.8 ~ 17 (9泊10日)


 退職してから四六時中妻と一緒にいるようになり、却って妻を一人にして遊びに出かけるのは気が引けるようになってしまった。 まあこれも流れと日本一周は諦めた。
 妻が死んで、今度は一人で出かける気がまったくしなくなった。 妻が行けなかった所にのうのうと出かけて行くのは罪悪感があるし、そもそも妻より10年も長く生きているということが罰当たりであるとしか思えなかった。
 妻の供養と思って四国遍路や恐山参拝には出かけたが、道中のつまらなさは自分でも驚くほどであった。 妻がいてこその旅であり、妻がいないこの世で、これ以上何を見ようというのか。
 思えば、妻がいた頃には一人旅にもよく出たが、行く先々での見聞を妻にどう聞かせようかと思案するのも、旅の楽しみの一つであった。
 今回久しぶりに出かけることにしたが、それは妻を連れて行きたかった厳島神社のことが頭から離れなかったからで、いわば宿題を果たすためと言ってもいい。

2018年9月8日(土)
 この日は妻の月命日。
 出発にあたって、まず妻の墓参りに行った。 私としては妻を連れての旅というつもりがあったから、墓前に「行ってくるよ」と言うのも変だし、といって「さあ、行こうか」と言うのもわざとらしい気がする。

 東京湾横断道・首都高・保土ヶ谷バイパスを経て東名高速道路に入り、浜名湖SAで最初の給油をする。 高速道路のガソリンスタンドが高いことは承知していたが、燃費の見当をつける意味もあって、早めの給油となった。
 リッターあたり167円! 普段142円で入れているし、今回の旅で見かけたスタンドはどこも150円前後であったから、高速道路での消費者心理に付け込んだぼったくりとしか言いようがない。
 伊勢湾岸道路から新名神高速道路に入り、旧来の名神高速道路にぶつかった所で草津SAに。 ここで寝る予定であった。
 ところが、売店の前でスケッチブックに「神戸」と書いて胸の前に掲げた青年を見かけ、つい声をかけてしまった。
 神戸なら100kmぐらいか? まだ5時過ぎだし、行けない距離ではない。 話の流れで乗せることになった。
 青年は東京の大学生。 夏休みで博多の実家に帰るのだそうで、ヒッチハイクは初めてだということであった。
 ヒッチハイク=旅というイメージを持っている私にとっては意外であったが、それも若者の特権であろう。
 私は赤穂の手前のSAかPAで寝るから、その先は別の車を探すようにと言うと、スマートフォンで位置を調べようと思ったらしく、「アコー? どういう字を書きますか?」と訊いてきた。
 「赤いという字に稲穂の穂。 赤穂浪士の赤穂だ」
 「・・・アコーローシ・・・?」
 なんということであろう。 赤穂浪士を知らない日本人に初めて会った。
 日本人にとって赤穂浪士は不滅のヒーローだと思っていたが、時代の変化というものはかくも無常なものなのであろうか。
 7時近く、山陽自動車道の三木SAに着いた。 青年と別れ、醤油ラーメンを食べる。

9月9日(日)
 5時半、起床。 夜中に強い雨の音がしていたが、幸い止んでいるようだ。
 ゆっくり支度をして、7時近くなって出発すると、いきなり50km規制がかかっている。 なにごとかと思う間もなく雨が降り出し、かなり激しくなる。 走りながらパンやら握り飯やら食べるが、それが危険だと思われるくらい視界が効かなくなる。
 ほかの車は規制などどこ吹く風と通常どおり走っているが、3か月前に後期高齢者となった私は慎重を期し、80kmほどで走る。
 8時近く、赤穂ICで高速道路を降り、10分足らずで赤穂海浜公園に着く。 前回、日本一周をここで中断しているので、今回はここから走り出すつもりだ。
 前回の場所に車を停め、トリップメーターをゼロにして出発。
 まずは福浦海水浴場に行き、砂を採る。
 そこから大石神社を目指して走っていると、「唐船海水浴場」の表示が目に入り、反射的に左折。 なんだか見覚えのあるような道を直進すると、さきほどの日本一周を始めた場所に出てしまう。 さては園内に唐船海水浴場があるのかと見当をつけ、徒歩で園内に入る。
 「潮の門」というのがあり、園内案内図には海水浴場への出口とあったが、閉鎖されている。 唐船海水浴場へは光の門から出るようにと書いてあるので、そこまで行くと、そこも閉まっている。 さらに進んで海の門という所に行くと、海水浴場へは潮の門から出るようにと書いてある。 うんざりし、門の隙間から出て砂を採る。
 9時過ぎ、再びトリップメーターをゼロに戻し、いよいよ一周コースを再スタートする。
 すぐに国道32号線にぶつかり、左折しようとするが、「感知式」と書かれた信号が一向に青にならず、しびれを切らせて信号無視の腹を決めたところ、ようやく青になる。
 10分ほどで大石神社。 本格的な雨が降っており、傘をさしての見学。
 大石神社。 言わずと知れた浅野家城代家老大石内蔵助を祀った神社である。 内蔵助の屋敷跡にあり、社名も大石となっているが、実は内蔵助以下四十七士全員と中折の烈士萱野三平も祀っており、その他にも浅野家3代の城主、その後の藩主森家の先祖である森蘭丸らを合祀している。 まあ、言ってみれば忠臣蔵オールスターズが祭神というところであろう。
 参道には四十七士全員の像が並ぶ。 右が討ち入りのときの表門隊、左が裏門隊だ。
 左側を見ながら進む。 一番手前に寺坂吉右衛門。 寺坂といえば四十七士の中で一人だけ切腹を免れ、83歳まで生きた浪士で、名前を知らない人はいないだろう。
 これについてはとかくの非難がつきまとう。 まるで卑怯者と言わんばかりだ。 浪士の生死が他人事である江戸町民にしてみれば、死んでこその英雄である。 もし自分が寺坂の身内だったら、あるいは寺坂その人だったら、果たして死ななかったことを責めたであろうか。
 寺坂は浅野家300人の足軽の中でただ一人討ち入りを志願している。 切腹をさせなかった幕府の意図については諸説あるが、士分に届かぬ身分の者にまで死を命じたのでは幕府への風当たりは弱かろう筈がないから、その辺の勘定があったのかも知れぬ。
 結果として一人生き残る者への同志の気持ちはどうだったか? 死人に口なしとも言うから、全員が死んでしまっては浅野家家臣団の正当性を伝える者がいなくなってしまう。 寺坂に自分たちの代弁者としての生存を望む気持ちもあったのではなかろうか。
 寺坂はその後、周囲の視線に死ぬよりも辛い思いを味わったであろうが、逃げ隠れをせず、直近の主人であり討ち入り後切腹した吉田忠左衛門の遺族に誠心誠意仕えたというから、立派な人物であったと思う。
 不破数右衛門と赤垣源蔵は槍を携えている。
 数右衛門は家僕を切ったことで主君・浅野内匠頭の勘気に触れ追放されたが、内匠頭の刃傷事件により家臣が籠城するとの噂を聞きつけ、赤穂城に馳せ参じた。 討ち入りの盟約にも志願したが、当初は許されず、ようやく加わったものの、討ち入りでは屋外に配置された。 戦いが始まるとこらえきれず屋内に突入して数人を倒したという。
 そのような波瀾万丈の生涯から、私は数右衛門をそこそこの年齢だと思っていたが、ここに来て、34歳の若さであったと知る。
 徳利の別れで有名な赤垣源蔵。
 私はずっと「赤垣」だと思っていたが、この像には「赤埴」と書いてある。 社務所でその訳を尋ねると、「赤垣」は後の芝居「忠臣蔵」の中で使われた名で、本当は「赤埴(あかばね)」だし、徳利の別れも作り話だとのこと。
 まあ、作り話が多いことは分かっているが、こうはっきり言われると、なんだか面白くない。
 裏門隊の浪士24名の像を見終わると、そこに神門がある。
 神戸の湊川神社の神門を移築したものだそうだ。 湊川神社は楠木正成を祀った神社。 後醍醐天皇の忠臣として名高い正成と、内匠頭の忠臣であった大石内蔵助を重ねて見る民心に沿ったものであろう。
 日本人は、負けを承知で義のために命を捨てるという行為を限りなく称賛するが、どうもそれは自分に類が及ばない勝ち負けに限られるようで、自民党総裁選などでは、議員たちが我先に勝ち馬に群がり、シラけた選挙になるのが毎度の流れだ。
 その神門の裏には大黒様の木像があり、「開運招福・夫婦円満の神様です。お参りなでることによりそのご神徳を頂いて下さい」と書かれている。
 私はかねがね、神様というのは敬し、教えをいただく道しるべだと思っており、ねだりごとをする相手だとは思っていない。 像の腹を撫でたくらいで運が開けるだの夫婦円満がはかれるなどという都合の良いものではあるまい。
 数多の神社仏閣があれもこれもとご利益を謳って人集めに精を出しているのは、神様を冒涜するものであり、当の神様が困惑していると思うのだが、どうであろうか?
 境内には同様のものが他にもある。
 まず「一文字流し」というものだ。水溶性の紙に悩み事を書き、水につけて消してしまおうというふざけた仕掛けで、紙を授与所で売っている。
 また、絵馬をかける木枠が設けてあり、それが「合格祈願」「大願成就」などと区分けされている。 「リラックマ絵馬」という、訳の分からない区画もある。
 艱難辛苦の末に大願を成就した赤穂浪士にあやかろうということであろうが、それがどうして合格に繋がるのか? 自分たちの行為が300年後にこういう形で利用されていることを浪士たちが知ったらどう思うであろうか。
 さらにまた、本殿の裏の通路にハート型の敷石が1個埋め込まれているのにも虫唾が走る。 パワースポットだとか何だとか言って、それを見つけたら恋が実るなどと言いふらしているのであろう。
 いやしくも主君の無念を晴らすために命を投げ出した浪士たちを祀った神社であろうに、こんな俗っぽい、安っぽい、チャラチャラした仕掛けで人を呼ぼうなんぞという小細工を施すとは。 神社としての矜持はないものだろうか。
 歌舞伎でお馴染みの討ち入り装束を着た大石内蔵助の顔出し看板はまあご愛嬌として、その衣装が宝物館内にぶら下がっており、自由に着て記念写真を撮れるようになっているのも、いささか軽い感じがする。 おまけに同館内に、実際の討ち入りにはこういう衣装は使われていないとの説明文が掲示されているのだから、何をか言わんやというところである。
 かく、やたら商売っ気が目につく大石神社ではあるが、むろんそれで浪士たちへの尊崇の念が薄らぐものではない。 宝物殿、奉安殿に展示されている討ち入り道具や浪士たちの書、また浪士たちの木像などには胸を打たれるし、長屋門に再現された江戸表からの急使到着の場面などには深い臨場感を覚える。
 降りやまぬ雨の中ではあったが、子どものころから繰り返し接してきた「赤穂浪士」「赤穂義士」「忠臣蔵」の実際の舞台を訪れた感慨はひとしおであり、私は満ち足りた気分で次の赤穂城跡に向かった。
 といっても、大石神社は大石内蔵助の屋敷跡にあり、その屋敷は赤穂城三之丸にあったということであるから、徒歩数分で二之丸に着く。 二之丸に残っているのは庭園のみであるが、きれいに整備され、それを囲む土塁が見渡せる。 こうして見る範囲以外に、さきほどまでいた三之丸があったのだから、かなりの城だったものと思われる。
 本丸門は明治の廃城令で取り壊されたものを、平成4年の文化庁地域中核史跡等整備特別事業で復元したとのことで、落ち着いた、品の良い佇まいを見せている。
 それにしても、「地域中核史跡等整備特別事業」とはまた、いかにもお役所的な言葉である。
 本丸門の上階が期間限定で無料公開されているとのことで、ボランティアかシルバー人材か、年配の男性が是非にと見学を勧めている。 日曜ではあったが、雨のせいか他に見学者はおらず、一人で二階に上る。
 松の廊下の刃傷から討ち入りまでのいくつかの場面が人形で紹介されていたが、それが安っぽいプラケースに入っており、その他の史料もほとんど説明がなく、あまり積極的な公開とは思えなかった。
 ただ、建物自体の構造はよく分かり、作りも再建とは思えぬ立派なものであった。
 雨の中、本丸内を散策し、天守台に登ってみる。
 天守台そのものはさして大きいものではなく、石垣も高くはないが、その階段は1段1段の高さがかなりあり、手摺りに摑まっても弾みをつけないと登れない。 右手を手摺りにかけ、左手で傘をさし、かつ首から下げたカメラを抑えてという、かなり無理な登りではあったが、上では視界が開け、赤穂城の城域が一望できる。
 さきほど通った本丸門を見ると、団体の観光客が来ていたが、強い雨に門から踏み出せず、討ち入り装束を着たガイドも傘をさしたままお手上げの様子であった。
 本丸の中央に一段高くなった平台が広がっており、とくに意識もせず、公園などにあるテラスのような感覚で歩いていると、所々にプレートがはめ込まれていて、「廊下」「湯殿」などと書かれている。
 そこで分かったのだが、そこは藩主の御殿のあった所で、間取りを示す平台とプレートが設置してあるのだった。
 雨の中、それ以外にはとくに見るべきものもなかったので、城外に出ようと本丸門まで来ると、さっきの団体はまだそこにいた。 人数が減っているところを見ると、バスに戻った人もいたのだろう。 結局その団体は本丸内を歩くことはなく、全員バスに戻って行った。
 まあ、団体旅行では雨だから予定を変更するというわけにもゆかず、さりとて雨の中歩き回ることもできず、ただ当初の予定どおり「来た」ということなのであろう。
 かくして赤穂浪士を偲ぶ時間を過ごした私は、次の目的地、岡山に向かうことにした。
 400mの回廊を持つという吉備津神社というのがあるらしく、その神社の何たるかも知らぬままに、ただ見てみたいというだけのことであるが。

  第9回 芦屋~赤穂(5) 第10回 赤穂~門司(2) 
     
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