第9回 芦屋 ~ 赤穂(5) 2011.5.13 ~ 21 ( 8泊9日 )


2011年5月18日(水)その2
  観音寺市から県道8号線を10キロほど内陸に入り込み、4時過ぎ、豊稔池堰堤に着く。
 前々から行ってみたいと思っていた所で、今回の旅はここさえ見ればあとはどこでやめてもいいと思っていた。
 干ばつ対策として昭和5年に完成したダム。日本に2つしかない多連式アーチダムという珍しさもさることながら、それが石積みであることがすごい。延べ15万人の人海戦術によってわずか4年で完成させたという説明から、ダムを渇望する人々の熱気を感じる
 もっとも、延べ15万人という数字の意味はよく判らない。1日100人ずつ1500日という意味なのだろうか。そうだとすると、今日あちこちの工事現場で見る光景と比べてとりわけ大工事のようには思えないのだが。
 まあ、そんなことはいいとして、石積みというのはやっぱりすごい。高さ30メートルの城壁がそのままダムになっている按配で、機能を超えたロマン、人の息吹が感じられる。コンクリートではこの空気は生じまい。
 直下から見上げると、要塞のような石の壁が遥か上の方で青空をアーチ型に切り取っている。そのアーチが下から見上げる人間に覆いかぶさってくるようで、自分が滑稽なほど小さいことがよく分る。
 上部に出る遊歩道を登ってみるとダム湖があり、周囲の岸辺は水面から3メートルほどのところできっちりと緑の木々とむき出しの赤土とに分けられている。満水時はかなり違った景観になるだろう。
 石積みのアーチが5つ並んでいる。さきほど見上げた垂直の堰堤で、その上は歩けそうに見える。無論、行けないように柵がついており、立ち入り禁止の札もある。
 私が柵を乗り越えて堰堤に出たのは言うまでもないが、緩やかな円弧と垂直の足元が作り出す非対称の空間が平衡感覚を狂わせるのか、私はバランスを崩して思わずしゃがみ込んだ。そして這うように柵に戻り、すごすごと遊歩道を下った。

 豊稔池を出て、さて今日はどこで寝ようかと地図を見ると、十数キロ先に「道の駅・ことひき」というのが出ている。琴弾公園に隣接しているようで、それなら好都合だ。
 ところが行ってみるとそれが見つからない。探しているうちに公園に入り込んでしまい、また戻り、やっぱりこの先かとまた公園に入り、結局見つからずまた戻り・・・。とうとう公園に車を置いて歩いて探す。
 あった。
 世界のコイン館というのがあり、その隣に総合コミュニティセンターというのがある。そしてその横の小さなインフォメーションセンターのような所に小さく道の駅ことひきと書いてある。隣接施設と共有らしい狭い駐車場には桝目状にラインが引かれており、真ん中に停めたら出られないという信じがたい作りになっている。
 これがどうして道の駅なんだ、と腹立たしいが、どうやったところで泊まれる場所ではないので、公園で寝ることにする。駐車場の入口に県立琴弾公園駐車場利用上の注意とかいういかめしい看板が立っている。宿泊禁止などと書いてあると困るので、読まずに入る。
 数台が停まっているが、香川や愛媛のナンバーばかりで、車中泊の車はなさそうだ。やはり宿泊は禁止なのかも知れない。
 まだ明るかったので、琴弾山山頂の銭形砂絵展望台まで歩く。こんなに険しい道だったかな? と前に来たときのことを思いながら息を切らせて登り切ると、なんとそこに駐車場があり、次々と砂絵見物の車が登ってくる。そういえば前回はタクシーで来て、歩かずに展望台に立ったのだった。ならば車で来ればよかったと後悔したが、いまさらどうしようもない。
 ちょうど砂絵の先、有明浜に夕日が落ちるところで、銭形の陰影がくっきりと見える。その銭形は東西122メートル、南北90メートルというややいびつな形をしているそうだが、この山頂から見ると東西が詰まってちょうど円形に見える。ここ以外からは見えないので、計算された形なのだろう。
 寛永10年に丸亀藩主生駒高俊を歓迎するために一夜で作られたといわれているが、デザインの寛永通宝が初めて鋳造されたのは寛永13年だそうで、話のつじつまが合わない。それでもお構いなしに「寛永10年、丸亀藩主・・・」と言い続けているあたり、香川県人のおおらかさが感じられる。
 この銭形砂絵を見た者は一生お金に困らないということで、私は2度見たわけだから、一生どころか来世も困らないと考えていいだろう。それなら明日はあまりせこいことは考えずに讃岐うどんでも食べるか。
 そんなことを考えながら下りは車道を歩く。これは楽だ。道路わきには孟宗竹が沢山生えており、「タケノコ、ご自由に」とマジックで書かれたダンボールがぶら下がっている。はじめは誰かのいたずらかと思ったが、何枚もあり、どうやら竹がはびこって困るということらしい。
 松林を抜けて砂絵の所まで行ってみたが、むろん大き過ぎて、しかもほぼ水平に見るわけだから何の形なのかさっぱり判らない。砂の高さは1メートル強というところか。所々雑草が生えている。立ち入り禁止と札が立っているが、犬の中にはそれを読めない奴がいるらしく、足跡がついている。年2回、市民総出で補修をするということだが、海風に吹かれながらよく砂がもっているものだ。
 駐車場に戻ると、麦わら帽子をかぶり長靴を履いた人が次々に有明浜から帰ってくる。手に手に長い鍬のようなものとバケツを持っている。見せてもらうとどのバケツにもアサリがわんさか入っている。行楽で親子が掘っているような“遊び”の人は皆無で、本気で浜の貝をごっそり持ち帰る“生活派”ばかりのようだ。
 獲物を積み込んだ車は次々に出てゆくが、新しい車がまた次々に現れ、同じような格好をした人が海に向かっていく。
 私はビスケット3枚と、富山の夫婦からもらったココナッツサブレを食べて寝てしまったが、潮干狩りの車は深夜まで出入りをしていた。そんなに干潮が続くのだろうか。

5月19日(木)
 朝起きると、まん丸な月が出ている。トイレで洗顔したが、手洗いが1つしかなく、しかもそのシンクが極端に小さい。シンクの上に手をやると、それだけで前の壁に指先が当たってしまう。シンクの上で顔を洗おうとすれば頭が前の壁にぶつかってしまう。
 しかも浅くて、水を出すとまるで板の上に水をかけているように周りに飛び散り、ズボンはたちまちびしょ濡れになってしまった。
 どう見ても老人が小用の際にそそうをしたようにしか見えず、車に戻る途中で人に遭いはしないかと気が気ではなかった。
 琴弾公園といえば全国に知られた存在であろう。48ヘクタールという広大さにも拘わらず、手をかけてきれいに整えられている。それなのにトイレだけこのようにケチっている理由が判らない。そもそもこのシンクを製造している会社はどういう使用を想定して作ったのだろう。こんなものを買うところが他にあるとは思えない。売れたのは琴弾公園の1台だけで、会社はすぐ潰れたに違いない。
 手洗い場がそういう状態であるから中は推して知るべしで、用は足さずに出発した。
 
 まず目指したのは多度津町にある海岸寺。四国別格霊場第18番ということだが、私が興味をもったのはそういうことではなく、山門に立つのが仁王像ではなく大相撲の力士像だという点にある。
 山門は狭い県道21号線に接しており、駐車場も狭く、第一印象としては小さなお寺であった。
 なるほど門の左右、普通なら阿形吽形の仁王像が立っている場所に2体の大きな力士像がある。右が琴ケ浜、左が大豪。
 大豪は汗かきで愛嬌のある力士。若三杉と名乗った時期もあり、脇の甘さからバンザイ三杉と言われていた。簡単にもろ差しになられそのまま負けるが、勝負への執念があまりなかったらしく、いつも明るく人気があった。
 私もおぼろげながらその負けっぷりを見たような気がするが、確かではない。
 琴ケ浜は小さな体ながら内掛けの名手で、一瞬にして相手を倒す場面は私もよく覚えている。私たちの小学校時代、昼休みの遊びは相撲が多かったが、内田君という友人は自ら「琴ケ浜」と名乗り、確かに内掛けが上手かった。ちなみに私は「鶴ケ嶺」を名乗ってもろ差しを得意としていたが、もろ差しになってもすぐ負けるので、皆は私の本名である正夫(マサオ)をもじってマケオと呼んだりしていた。
 大豪、琴ケ浜ともに香川県の出身だそうで、郷土の英雄ではあろうが、それにしても寺院の守り神である仁王様を勝手に力士に代えていいものだろうか。そう思って、たまたま門の所にいた中年のお遍路さんに訊いてみると、納得のいく答えが返ってきた。
 本来、お釈迦様の遺骨を納めた仏舎利塔を守るために執金剛神という武装した神が祀られていたのだが、それが次第に塔だけでなく寺全体を守るために門に配置されるようになった。そうなると、必ずしも執金剛神でなくても力強く頼りになればいいと考えられ、寺によって様々な像が置かれるようになった。甲冑を着た神、武具を持った神もあれば、裸で杵を持ったもの、素手のものもある。

 それに仁王様と一くくりに呼んでいるものの中には金剛力士もあり、文字通り「力士」だ。琴ケ浜も大豪も力士でしょう? と、最後は煙に巻かれてしまったような説明であった。
 お寺も最近はあの手この手で檀家や参拝客を繋ぎ止めようとやっきになっているようだから、そのうち海岸寺にならって山門にプロレスラーの像など置くところが出てくるかも知れない。力道山なら私も参拝するが、時と所をわきまえず首から赤いマフラーを下げて、やたら人にビンタを張り、意味もなく「ダーッ」などと叫んでいるレスラーだったら、賽銭の代わりに錆びた釘でも入れてやる。
 小さなお寺と思ったのは間違いで、本堂から裏に回ると庫裡、宿坊、さらに売店まであり、境内もかなり広い。その境内を抜けて行くと屏風ケ浦に出る。屏風ケ浦といっても銚子のそれのように切り立った崖ではなく、海岸寺海水浴場というきれいな砂浜である。海岸から眺めると天霧山や弥谷山が屏風を立てたように見えるということで付けられた名前らしい。
 ちっともそうは見えなかったが、別に目くじらを立てることでもないので、もう一度海岸寺にお参りをして次に向かう。
 丸亀市土器町の三浦交差点で、信号が右矢印になり、当然対向車も停まった。そこで右折しかけたところ、停まっている対向車の後ろから信号を無視して突っ込んでくる中型トラックがあり、こちらが急停車すると、文句でもあるように私を睨みつけながら通り過ぎて行った。坊主頭のデブで、似合わない口髭など生やしている。
 思えば、香川に入ってから急に車の走行マナーが悪くなっている。
 スピードばかりでなく、追い越しも無茶。かなり無理なUターンもしばしば。その他、常識では予測できない曲り方をするので、何度も肝を冷やす。車間距離をとらないので、こちらは海水浴場などの看板を見つけてもブレーキが踏めない。
 愛媛と香川は陸続きだ。県境を越えたからといって急に気候風土が変わるわけでもあるまいに。香川県警が交通法規を教えていないとしか思えない。

 高松城は初めて。 
 讃岐の国主生駒親正が築いた城で、瀬戸内海の海水を引き込んだ堀は今も残っている。鯛などの海水魚が泳いでいるらしい。堀の縁に「鯛願成就」というのぼり旗が立っているのはご愛嬌と思えばいいが、そこに「願いが叶うエサやり体験」という立て札が出ているのはいただけない。50円の餌を売っているのはいいとして、「願いをこめてエサを投げれば大願成就」などと、なんの根拠もない御託が書かれているのはどうか。これを詐欺と言わずして何と言うか。
 生駒家は4代目のときにお家騒動が起きて出羽国に左遷され、高松城には水戸光圀の兄松平賴重が入城。以来11代栄えたとのこと。賴重が長男でありながら水戸徳川家を継げなかったのには何か訳があるのだろうが、兄を差し置いて藩主となった次男の光圀は終生兄に気兼ねし、賴重の子綱条(つなえだ)を自分の跡取りに迎えたというから、ご老公も風呂上がりの“かげろうお銀”に酌をされて悦に入っていたばかりではなさそうだ。
 お銀といえば、光圀のそばには風車の弥七という伊賀忍者もついており、陰に陽に光圀を助けていた。光圀が助さん格さんと越後屋の悪業について話し合っていると、突然風車が飛んできて畳に刺さる。それには手紙がついていて、「悪代官が越後屋の後ろ盾になっている」などと書かれている。閉め切った部屋に外から風車が飛んできたというのに障子が破れないのは不思議だ。光圀が「弥七か・・・」とつぶやくと、天井板が開き、弥七がにんまりと顔をのぞかせる。そんなに近くにいたのなら、わざわざ手紙を書いたりしていないで直接言えばいいのに、と思うが、それが忍者というものなのか。
 さて話がそれたが、高松城の建物は月見櫓、御手洗門などわずかしか残っていないものの、本丸、堀などの石垣はきれいに保存されている。それによって縄張りを十分に理解できるが、元の城域は今の8倍もあったというから、全体像を思い描くのは不可能に近い。
 それでも、域内に置かれた石碑によれば、与謝野晶子が海上から見ると竜宮城のようだと詠んだとあり、さぞや美しい城郭だったであろうと推測はできる。
 見学を終えて出口に向かう途中に「東門まであと123歩」という立て札が立っていた。試みに数えながら歩いて行くと、本当に123歩ぴったりで門に着いた。田宮次郎が歩いても123歩だろうか、と思ったが、そんなことを書いても今や田宮次郎を知っている人も少ないであろうから、何のことやら判らないかも知れない。

 高松平家物語歴史館。300体近い等身大蝋人形で平家物語の各場面を再現している。ここも初めて。
 入館料1200円は高くて思わず足が止まるが、いやしくも歴史の授業を仕事としてきた自分が1200円をケチって素通りしたのではずっと後悔することになろうと思って、泣く泣く5百円玉1枚と百円玉7枚を払う。
 萩にある吉田松陰歴史館、松島の伊達政宗歴史館、高知の龍馬歴史館など、等身大の人形によって歴史の場面を再現している施設は各地にあり、悔しいが私の授業などよりはるかに説得力がある。わけても私のお勧めは千葉県成田市の東勝寺境内にある宗吾御一代記館だ。何度行っても涙を隠すのに苦労する。
 であるから、ここ平家物語歴史館もおおいに期待した所で、そのとおり、出るときには1200円で入館をためらった自分を恥じる気分になったくらい充実していた。
 まず入るとお決まりの坂本龍馬など四国の偉人たちの人形があり、中浜万次郎、二宮忠八といった歴史の“脇役”ともいうべき人達に見とれてしまう。自民党の党内抗争で心身を酷使し現職のまま急死した大平正芳総理大臣の前では胸が詰まる。私の記憶の中では数少ない好きな政治家の一人だ。
 お目当ての平家物語は2階に展示されている。まず現れるのは「一の谷の合戦」だ。源義経率いる3千余騎が一の谷に築かれた平家の城砦を背後の崖から急襲する様がリアルに再現されている。私も一度その鵯越えの現場に行ったことがあり、その時はこんな急斜面を馬で降りたなんてことはあり得ない、これはフィクションだ、と思った。
 しかし今ここでその場面を立体的に見ると、馬の前脚、後ろ脚の踏ん張り具合、鞍上の人物の体重のかけ方などが極めて理にかなっており、なるほどこうして下りたのかと納得のいく思いであった。
 その他平家物語の主要な場面が次々と出てくるが、壇の浦の合戦で総崩れになった平家の武士たちが小舟の上で折り重なるように死んでいる様、平教経が敵兵2人を抱えたまま水に飛び込む姿など、娯楽目的のテーマパークなどとは一味も二味も違う展示が足を止める。
 とりわけ幼い安徳天皇入水に際して祖母にあたる二位の尼が「波の下にも都がございますよ」と慰める場面などでは、当事者能力がないまま権力抗争の中で翻弄される人の命を思って暗然たる気持に襲われ、しばらくは考え込んでしまう。
 説明のつかないどんよりした気分で歩いていると、琵琶法師の語りに庶民が聞き入る場面を若い男女が熱心に見ていた。まあ私には関係ないので気にも留めなかったが、私が次へ向かおうというときになってもその2人は見入っている。頭の隅で若いのに感心だなと思いながらその場を離れ、ハッと思って引き返した。なんと、その2人も蝋人形だった。

 さぬき市の国道11号線に面して「道の駅・津田の松原」というのがある。さして広くはないが車は停めやすいし、私にとっては洗顔できるトイレがあれば十分である。今朝の琴弾公園は小さいシンクに苦労して歯を磨けなかったので、もう昼過ぎであるが、ここで磨く。
 道の駅の奥は琴林公園、その先が津田の松原海水浴場と続く。
 松林の中に梅川という川があり、2本の橋がかかっている。朱の欄干に擬宝珠のついた橋は「願い橋叶え橋」という名で、もう1本の塗装されていない木橋は「見逢い橋出逢い橋」という名だそうだ。行くときは「願い橋を渡る」「見逢い橋を渡る」といい、帰るときは「叶え橋を渡る」「出逢い橋を渡る」というのだそうで、まあ、旅に出るといろんなことを知るものだ。
 琴林公園は松原を拭き抜ける風の音が琴の音のように聞こえるところからの命名というが、それなら日本全国に数多ある松原はみな琴の競演となろう。そういえば昨晩泊ったのは琴弾公園という名で、やはり松が多かった。しかし、鳴き砂で有名な島根の琴ケ浜を初め、石川県、神奈川県、高知県にある「琴ケ浜」ではとくに松原というほどの松もない。京都の琴引浜、神奈川の琴音磯などもそうだ。
 ということは、琴の音のように聞こえるのは松林の有無に関わりなく、海風のことなのではないか。しかし、香川の琴平、島根の琴引山など、内陸にも琴のつく地名はあり、必ずしも海風ということにはならない。どうも地名というのは一筋縄ではゆかぬ。
 まったくの余談だが、熊本県には阿(あ)という地名があるそうで、それを聞いただけで行ってみたくなる。

「海沿い」にこだわって県道183号線をたどり、鳴門北インターへ。これで四国一周を終え、淡路島へ。来たときとは逆の西海岸を通って島の北端「道の駅・あわじ」に着いたのが夕方6時。これで淡路島も一周したことになる。
 明石海峡を眺めながらカップラーメンで夕食。途中のスーパーでタコの刺身を買ってあったので、ビールが格別美味い。

5月20日(金)
 今日はあまり歩く予定がないので、早朝ウォーキングに出る。
 岩屋港の中に絵島という岩だけの小島がある。約2千万年前の砂岩層が露出した珍しいものだそうだが、見た目はどこにでもありそうな岩でしかない。
 平清盛が大輪田の泊を築造する際に人柱となった小姓の松王丸を祀った島で、平家物語にも出てくるそうだが、私はこれも覚えていない。
 島に渡る橋のたもとに説明板があり、この島は「おのころ島」だとある。おのころ島とはイザナギノミコトとイザナミノミコトが天浮橋の上に立って矛で海原をかき回し引き上げたとき、矛先からしたたり落ちたしずくが固まってできた島のことである。
 私の記憶ではそれは淡路島で、両神はその後このおのころ島で結婚して四国、隠岐、九州、壱岐、対馬、佐渡、本州という7つの島を産んだ。この合わせて8つの島こそ日本であり、ゆえに日本は最初「大八島」国と呼ばれていた。古事記の時代には北海道の存在が知られていなかったのでそういう話になったのであるが、古事記のこの記述についての記憶には自信がある。
 なぜならば高校時代に初めて古事記を読み、そのエロチックな内容に興奮して友達数人と先生の家まで押し掛けて講義をしてもらったからであり、その内容はこうであった。

  
おのころ島に降りたイザナギはイザナミに「あなたの体はどうなっているのか」と尋
 ねる。イザナミは「成長し切らず足りない所が一か所あります」と答える。するとイザ
 ナギが「私の体には成長し過ぎて余っている所が一か所ある。私の余っている所であな
 たの足りない所を差し塞ぎ、国を産もう」と提案する。
  そして2人は契り合い、次々と子を産み、それが8つの島になった。


 古事記は全文漢字であり、とても私たちの手に負えるものではなかったが、読み下しにしたテキストがあり、それには「わが身には成り成りて成り足らざる処一処あり」とか「成り成りて成り余れる処一処あり。かれこのわが身の成り余れる処を以て汝が身の成り足らざる処を差し塞ぎて云々」とか書かれていた。
 先生がそれをどう教えてくれたのかは忘れてしまったが、私たちは勝手に興奮して大騒ぎをしていた。
 だから、古事記の国産みの場面については記憶が鮮明で、おのころ島が淡路島であることは間違いない。第一、もし絵島がそれだったら、日本は大八島ではなく大九島と呼ばれていた筈である。
 もっとも、絵島は島とはいえ湾内にあるのだから、淡路島の一部とこじつければ、絶対に通らない話というわけでもないか。
 それにしても絵島はごつごつした岩だけの小島で、とても成り成りて成り余れる処を以て成り成りて成り足らざる処を刺し塞ぐようなことのできる場所ではない。

 帰りに犬を連れた女性を追い抜くと、「どこまで行くん?」と言われる。そこの道の駅までです、と答えると、女性は怪訝な顔をして「これに言うたんや」と犬を指す。
 道の駅に戻り、明石海峡大橋を吊るすケーブルの説明書きを読んでいると、突然背後から「オイ!」と大声がする。振り返ると地元の人らしいお爺さんが私を睨みつけている。周りを見回しても誰もいないので、やはり私を怒っているのだろう。
「私?」と訊いても返事をしない。もう一度「私?」と訊きながら近づいていくと、何も言わずに右手の平を下にして左右に振っている。そのジェスチャーの意味が判らないので、「何?」と訊いたが、やはり返事をせず、ただ私を睨み続けている。
 それじゃあ話にならんと思って背を向けると、「どっから?」と、いかにも尋問でもするように訊いてくる。こちらも少々ムッとして「千葉っ」と答えるが、それに対しては何も言わない。
 また背を向けると、「つれ」と言う。始めは「釣り」と言われたのかと思って「釣りじゃないよ」と答えたが、重ねて「つれ」と言われ、「連れ? 連れはいない」と答える。
 相変わらず私を睨むばかりなので、もう面倒になり、無視して車に戻る。旅に出ると“へんなおじさん”に出遭うことはよくあるが、それにしても変な
おじさんだ。

 明石海峡大橋で本州に渡り、西へ。加古川市野口町の国道250線には楠と山桃がほぼ交互に植えられた並木があり、実がいっぱいついている。ということは、帰ると木更津の公園でも熟れた実が私を待っているのではないだろうか。
 そろそろ今回の日本一周コースを終えて帰ろうかと思ったのだが、加古川というのは忘れもしない、大学4年のときに広島東京徒歩旅行で挫折した場所である。今回もここでやめるとなれば加古川という地名はあまりにも悲しいものになってしまうような気がして、もうちょっとだけ先に進むことにする。
 加古川右岸河口に高砂海浜公園という所がある。
 きれいに松が植えられた人口海浜で、50代後半と思われる母親らしい人と、20代後半らしい娘とが坐って話をしている。連れてきたらしい犬が鳩を追いかけると、娘の方が「エルモ! エルモ! 早よ来っ! 少し賢こならんと」と叫んだ。
 エルモ? あの馬鹿犬がエルモ?
 それで思い出した。いつだったかコンビニで薄汚いガキが走り回っていた。何かにぶつかって商品が落ちた。そのときレジで支払いをしていた茶髪の母親が叫んだ。
「こらっ! やめろマイケル!」
 私は持っていたアンパンを落としそうになった。あの鼻たれ小僧のどこがマイケルなんだ?

 相生町の海沿いにオレンジ色の瓦も鮮やかな中国風の建物が見えた。「道の駅・あいおい白龍城」である。白龍はペーロンと読むらしい。
 ペーロンといえば長崎で、その勇壮な競漕ぶりはよくテレビで放映される。その長崎出身の造船所従業員がここ相生でふるさとを偲んで始めたのが相生ペーロンだそうで、駅にはペーロン船「天龍」が展示してある。全長12メートル、幅1.58メートルの和船で艇長、舵取り、太鼓手、ドラ手各1名、漕ぎ手28名が乗り組み、艇長の采配のもと、中国流の太鼓とドラに合わせて力漕するとのこと。
 塩味ようかんを買って出発。間もなく高取峠という所を通る。道路わきに人形のようなものが見えたのでUターン。たぶん強化プラスチックでできた大きな岩があり、その上に4人の人夫が粗末な駕籠を担いで疾走している人形がある。これもプラスチックと思われるが、等身大であり、筋肉や顔の表情もリアルである。
 岩には説明板がはめ込まれているが、読むまでもない。浅野内匠頭の切腹を国元に知らせるべく江戸を出た早水藤左衛門、萱野三平が赤穂城を目指してここ高取峠を越えて行く様子を再現したものである。江戸から赤穂まで約600キロを4日半で、つまり1日150キロ近くを走ったということは講談などでお馴染みの話だが、駕籠かき人形の苦痛にゆがんだ表情はその難行をよく物語っている。
 峠を下ったところに流れるのが千種川。その左岸河口にあるのが赤穂海浜公園。ここで今回の日本一周を終わりにして、トリップメーターをゼロに戻す。
 芦屋から1709キロ。一周コースとしての走行距離は通算で3971キロ。日本一周が1万3千キロとすると3分の1弱というところか。15年前に木更津から始めたこの旅、9回目にしてまだこの距離ということは、このペースでは死ぬまでに回り切れないということを意味する。

 この日は赤穂インターチェンジから山陽道に乗り、伊勢湾岸道路の刈谷ハイウエイオアシスまで走ってそこで寝る。前回も寝た場所で、勝手は分っているし、なにより「天然温泉かきつばた」というのがある。
 20回入ると1回タダになるというポイントカードを貰ったが、さすがにこれは使い切れない。
 露天風呂で仰向けになり、目をつぶった。
 旅に出て仕事の電話がかかってこないということがどんなに幸せなことか。明日はどんなにゆっくり走っても昼過ぎには家に着く。明日の明日は休みだ。明日の明日の明日も休みだ。
 こんなにも解放された時間を人生の最後にもてた自分の幸せは、どんなに感謝してもし切れるものではない。心身をすり減らして働きに働き、定年になったらすることもなくたちまち廃人のようになってしまう人が多いというし、私の身近にもそういう人はいる。
 かねがね自分は恵まれた方だと思ってはいたが、今改めて考えてみると、恵まれた「方」どころか、これ以上はないほど恵まれていることが分る。
 どうして俺ばかりがこんな目に遭わなければならないのか、どうして次から次へと損な役割ばかり俺にくるのか、と神を恨んだこともあったが、よくよく考えてみれば、誰しもそれなりの苦しみを持っているし、私なら潰されてしまうほどの重荷を背負っている人もいる。
 そもそも嫌なことがあるから嬉しいこともあるのだ。冬の寒さがない常夏の国には春の歓びがない。私の苦労なんて、無上の幸せをより濃くするためのスパイスみたいなものに過ぎない。
 そんなことを考えながら、いつまでもいつまでも、仰向けになっていた。

  第9回 芦屋~赤穂(4) 第10回 赤穂~門司(1) 
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