第9回 芦屋 ~ 赤穂(4) 2011.5.13 ~ 21 ( 8泊9日)


5月17日(火)その2
 
いつだったか、旅雑誌で愛媛県愛南町の外泊石垣集落というのを紹介していた。そこに行ってみようと、船越半島を西へ進む。
 途中、金鶏草が土手一面に咲いている所があり、あまりの鮮やかさに車を降りて眺めていると、元気そうなお婆さんが通りかかった。きれいですね、と声をかけたが、だからなんだという顔で行ってしまった。

 気まずい思いで先へ進もうと思ったが、ちょうどそこがY字路になっており、左右どっちに行ったらいいのか判らない。折よく50代くらいの女性が通りかかったので、外泊に行くにはどっちの道を行けばいいでしょうか、と訊いた。
 不機嫌な顔で、「まっすぐ」と一言。まっすぐの道はなく、どちらも大きくカーブしている。「右ですか? 左ですか?」と重ねて尋ねると、「上」とこれまたぶっきら棒な返事。見れば右の道が上り坂になっている。
 そこで右の道を進んだのだが、どうも納得がいかない。道はちゃんとしており脇道にそれた感じはないのだが、なにかひとつしっくりしない。勘とでもいうのか、とうとう引き返し、さっきの分岐点まで戻る。
 旅に出てカーナビを使うのは気が進まないが、仕方なく入れてみると、ナビは左の道を示している。それならと左に進むと、すぐに外泊という案内標識が出てきた。
 お婆さんの不機嫌さといい、女性のぶっきら棒でわざとのように間違った答えは何だったのだろう。
 石垣集落は幕末のころ人口増加に対応するために村の次男、3男が斜面に造成した集落だそうで、縦横に石垣を築いて平地を確保している。車のない時代であるから、家と家、すなわち石垣と石垣の間は人が並んで通れぬほど狭く、その多くは階段になっている。
 考えてみれば、この急斜面ではリヤカーも使えぬであろうから、この幅でもいいのかも知れない。
 民宿が数軒あったが、それ以外には観光客向けの店などはなく、静かな生活が保たれているようだった。
 石垣を縫い、狭い道を行き当りばったりで歩いていると、さして広くもない墓地に出た。斜面にかろうじて作った平地のようで、そこに立つと遮るものもなく宇和海が望める。
 何かの養殖をしているらしく、筏や生簀がいくつも並んでいる。
 初めて来た場所だがどうも見覚えがあるようで、しばらくして思い当たった。テレビのサスペンスドラマかなにかで墓参のシーンに使われた場所に違いない。確かめようと思ったが、1時間ほどいた間中、とうとう人の姿を見かけることはなかった。

 半島を戻る途中、紫電改展示館に寄る。
 紫電改というのは日本海軍の戦闘機で、私も子供のころ模型を作ったりした。といっても、私はそれ以上のことを知らずに今日に至っている。
 館内には詳しい説明があり、否が応でも紫電改の何たるかが分る展示になっていたが、何よりその性能、活躍について実写で構成されたビデオが上映されており、胸を打つ。時間を忘れて2度見てしまったそのビデオによれば、紫電改は全長9メートル余、全幅12メートル。ゼロ戦に代わる新鋭機として開発され、時速600キロを出し、海軍の最も優れた戦闘機といわれたとのこと。
 昭和20年7月、土佐沖から広島方面に向かう米軍機を撃墜するため21機が発進し、宇和島上空で3倍の敵と交戦、16機を撃墜したものの、紫電改6機も帰還できず、海に沈んだ。
 昭和53年、そのうちの1機が久良湾の長崎鼻沖の海底で発見され、翌年引き揚げられた。永久保存を目的として馬背山頂に展示館が建設され、無料で公開されている。未帰還機6機の乗員の写真があったが、20歳から29歳という若さだ。どの顔も誠実そのもので、どんな展示よりも戦争の愚かさを訴えてくる。

 午後、宇和島の薬師谷渓谷へ。
 10台くらい停められる駐車場があり、木造の小屋が建っている。夏にはここでそうめん流しをするらしいが、今はオフらしく、戸や窓が板で塞がれている。
 遊歩道をたどってゆくと、ほどなく岩戸の滝。なるほど両岸からせり出した巨岩が岩戸のように行く手を遮っており、その向こうに滝が見える。そのしぶきがかすかにこちらまで届き、涼味は満点だ。
 さらに遊歩道を登って行くといくつかの滝があり、所々に小さな石仏が置かれている。
 そんな奥まった所で、若い男女に出遭った。こういうときは互いに迷惑な存在であることが分っていて、どうも気まずいものだが、仕方がないからコンニチワと挨拶した。山道では誰もがそうする。
 それなのに、そのカップルはブスッと押し黙ったまますれ違い、行ってしまった。

 金鶏草の咲くY字路で無言だったお婆さん、「上」と嘘の道を教えた女性。そしてここで出会った男女。どうも愛媛県人はよそ者に対して温かみがない。
 駐車場に戻り、さきほどの小屋の脇で湧水を2リットルのペットボトルに詰める。これでカップラーメンの水は確保できた。

 佐田岬は全長50キロほどの細長い半島で、途中にはとくに見たいものもない。行って帰るだけで3時間近くかかるだろう。それより半島の付け根を横断して先へ進めば、松山までは一直線だ。
 ただ、それだと「四国一周」という言葉がやや曇るような気がする。
 四国山脈は淡路島を経て本州につながり、佐田岬を経て九州につながる。その岬の先端まで行ってこそ、四国一周ということになるのではないか。
 とはいえ、ただそれだけのために、50キロをただ走り、50キロをただ戻るというのは、ためにする自己満足ということにもなろう。それに、佐田岬は以前車で行っている。一応足跡はつけてある。
 などと、迷いに迷っているうちに、岬への1本道、国道197号線を走っていた。それでもまだ途中で引き返そうかなどと思い切りの悪い自分に呆れながら、結局午後6時近く、岬の先端に着いた。
 海面を見下ろすと、海亀が2匹泳いでいる。写真に撮って、妻にメールで送った。すぐに返事がきて、写真が添付されていないと書かれている。 
 え?と思って発信記録を見ると、確かに「写真を送る」という文面は残っていたが、写真は添付していなかった。この旅で何度も味わった「老人性ナントカ」の悲哀である。
 戻り道、突然童謡が聞こえた。かなり怪しい音程ではあるが、「みかんの花咲く丘」であることは間違いなく、しかもワンコーラス分しっかりと続く。
 あとで調べてみると、道路に切れ込みが入っており、その上をタイヤでこすると音が出るらしい。時速50キロで走るとちゃんとした曲として聞こえるのだという。単調な1本道なのでスピードを出し過ぎる車が多いことから考え出された仕掛けらしい。
 速度抑制の効果がどれくらいあるかは分らないが、「スピード落とせ」などという無粋な看板を出しているよりはいいだろう。
 佐田岬は長い尾根が海面に顔を出してできているような半島だから海風が強いことは容易に想像できる。そしてその通り、あちこちに強風注意、突風注意と書かれている。それはいいが、何か所か「路肩崩壊の恐れあり」と書かれているのは、どう注意すればいいというのか。
 強風を利用してか、尾根には数多くの風車が並んでいる。よく見ると、その向きがバラバラだ。南東向きが多いが、北西向きもあり、それ以外もある。風を効率よく受けるため向きは自動制御されているらしいから、尾根の上は風向きが乱れているということなのだろう。
 羽根はゆっくり回っているように見えるが、羽根の先、つまり周速は新幹線並みの速さだそうだ。そういえば青森の下北半島で風車を至近距離から見たことがあるが、唸るように回るその速さに怖い思いをしたことを思い出す。
 
 やっと半島の付け根に戻り、国道378号線を北上。ところがこの道、片側1車線と狭い上に左は防潮壁になっているので、よけいに狭く感じられ、走り心地は良くない。既に暗くなっているのに街灯も殆どなく、トラックとすれ違うときなど緊張を強いられる。どこかに寝られる場所がないかと地図を見たいところだが、車を寄せる路肩もないので、ただただ走り続けるしかない。
 そんな道を1時間以上走ったところで「道の駅ふたみ」という標識が見えた。やれやれ助かった、そこで寝ようと入ってみると、そこはコンクリート護岸の上に作られた細長い施設で、午後10時には閉門するという。ご丁寧に鉄の扉までついていて、これではどうにもならない。
 松山を過ぎ、伊予北条駅近くに「公園」の文字が見えたので、そこで寝ようと探し回る。細い道を行ったり来たりしてやっと見つけた公園は駐車場のない小さな公園で、またしてもがっくり。
 走り出すとすぐに「健康ランド」という看板があった。健康ランドということは銭湯ではないか。Uターンして行ってみるとやはり銭湯で、もうこうなったら何時になってもいいからひとっ風呂浴びよう、そのままそこの駐車場で寝てもいい。そう思って入浴用具など用意していると、そこのおじさんらしい人が遠くから「風呂ですかー?」と訊いてくる。そうですと答えると、「10時までなんですよ」とのこと。あと十数分しかない。何から何までついていない。
 それでもようやく「道の駅・風早の郷、風和里」という所に着いた。レストランや売店は無論閉まっているが、どうせ利用するわけではないので、問題ない。
 ただ、バイクの若者集団がたむろしているのであまり有難くないが、見ればバイクをきちんと並べて停めてあるので、それなりに常識を備えた連中であろうと思うことにする。ところが別に暴走族風の2人がコンクリートの通路にべったりと胡坐をかいてタバコを吸っている。その他にも同じような2人組がいて、どれも駐車区画にバイクを停めず、通路のど真ん中に停めている。
 どうにも感じがよくないが、これからまた先へ進む気にはなれず、開き直ってここで寝ることにする。なにしろ今日は寝場所が見つからず、しかも駐停車すらままならない道を走り続けたので、400キロ近い走行距離になっている。これ以上無理をして事故を起こすより、暴走族に絡まれる方がマシだろう。万一絡まれたりした場合に備えて、手持ちの現金を半分ほど雑巾に包んでカップラーメンの下に隠す。
 見ると、神戸ナンバーの軽と高知ナンバーのワゴンが停まっている。どちらもこれから帰れる距離ではないから、ここに泊りたいのだろうが、いつまでも運転席に坐ったままでいる。やはり泊るかどうか迷っているのではないだろうか。
 私はもう疲れていて、なるようになれと思ってコンビニで買った握り飯を食べて寝てしまった。朝まで頻繁にバイクの出入りがあり、空吹かしなどするものだから、その都度目が覚めてしまう。国道196号に面していて、しかもカーブなので、通行車両の音もかなりうるさい。

5月18日(水)
 朝、高知ナンバーの車はまだ停まっていた。福山ナンバーのセダンもあり、中から巡礼姿の男性が出てきて体操をしている。ということは、車中泊で遍路をしているということなのだろう。
 トイレに行くと、その前に
三角コーンが置いてあり、それに「宿泊施設としての利用おことわり」と書かれた紙が貼ってある。昨日気がつかなくてよかった。
 それにしても県内の人間が道の駅に泊るということはないだろうから、おことわりの対象は県外者ということになる。やはり愛媛県人はよそ者に対して冷たいのだ。
 しかし世の中には剛の者がいるものだ。大宮ナンバーの軽ワゴンがあり、後部ハッチが開いている。見ると中には天井まで届く棚が作られており、炊事用具やら食料やらがびっしり並んでいる。そこに青いポリバケツを持った白髪の爺さんが帰ってきた。そして棚から鍋と米を取り出し、バケツの水で研ぎ始めた。そればかりではない。まな板を出して小松菜かほうれん草らしい物をきざみ、タッパから味噌を出して溶いている。
 あっぱれというほかはなく、私はしばらく見とれていたが、爺さんは私のことなどまったく眼中にないようで、じつに悠然と料理を続けていた。
 それにしても、軽ワゴンの中は棚だらけで、人が寝るスペースはまったくないように見えた。大宮ナンバーといえば埼玉県。かなりの日数をかけて旅をしていると思うが、いったいどうやって寝ているのだろうか。
 
 出発して間もなく、コンビニがあったので朝食を買いに入る。レジまで行って、小銭入れがないことに気がついた。車を降りるときに持って出たつもりだったが思い違いだったか。そう思って“おサイフケータイ”で用を済ませ、車に戻ると、ドアの前に小銭入れが落ちていた。朝っぱらから、今日も「老人性ナントカ」が始まった。

 船上継獅子で有名な九王龍神社を訪ねる。
 毎年5月の第3日曜日に行われるこの継獅子は3日違いで見ることができなかったが、人の肩の上に人が乗って行うこの獅子舞はテレビで見たことがある。船上では4段にもなるが、風波のためなかなか成功しないらしい。いかにも神事という感じで、素朴な中にも人々の熱気が感じられるいい行事だと思う。
 海沿いに建つ神社への道はしっかりとしたコンクリートだが、車幅ぎりぎりで、しかも曲がりくねっている。右は海だがガードレールはない。落ちたら大変なことになるので、左の塀や崖に車体をこすらんばかりに進むが、左カーブでは路面がまったく見えない。右カーブでは内輪差で後輪が路肩から落ちそうになる。
 運転席のドアを大きく開け、左手はハンドル、右手はドアにかけて身を車外にのり出し、前後のタイヤを見ながらノロノロと進む。こうと分っていればもっと手前で車を置いて歩けばよかったのだが、今さらどうしようもなく、いくらなんでも神社まで行けばUターンはできるだろうと、祈るような気持で、ときには運を天に任せる気分で勘だけを頼りに見えない道を進む。
 やっとのことで神社に着く。車はなんとか向きを変えられたが、境内といえるほどのスペースはない。それでも掃除の行き届いた社があり、社殿の直下は海になっている。その海が神秘的なほど透き通っており、沖縄の海と比べても遜色はない。
 あまりの美しさに見とれて、というより、今来た道をもう一度戻る気分になかなかなれず、かなり長い時間護岸に腰掛けて海を見ていた。

 今治市北端の大角鼻。○○鼻という地名は全国にあり、想像どおり海に突き出た地形につけられている。四国の形を描いてみろと言われると、殆どの人はほぼ四角い形の4隅にやや出っ張りをつける。屋島、室戸岬、足摺岬、そして大角鼻だ。丁寧な人はその四角形にネズミの尻尾をつける。佐田岬である。
 つまり、大角鼻はたいていの人が知っている四国の出っ張りだが、それでいてそこが大角鼻という地名だということはあまり知られていない。私も行くのは初めてで、「海沿いを走って日本一周」というこだわりさえなければわざわざ行くことはなかったと思う。
 しかし、わからぬもので、そこへ行ったおかげで玉生(たまう)八幡神社という立派な神社の存在を知った。県道166号線沿いの波方港を過ぎた所で右に大きな鳥居と鬱蒼たる森が見えたので、港に車を置いて行ってみる。広い境内は、これ以上はないというほど掃き清められていて、それだけでなにがなし聖域に入ってきたという気分になる。
 由緒書きによれば、舒明天皇が伊予国に下向されたとき、ここ波方の沖で光輝く3つの玉を見つけた。それを祀ったのが「玉生宮」であり、後年清和天皇が宇佐八幡大神を山城国に移す途中でこの地に碇泊されたときにこの玉生宮から異様な雲気が立ち上がったので、両者を併せて玉生八幡宮とした、という。
 源頼義を始め歴代伊予守ら武将の信仰が厚かったともあり、そういえば私自身、前九年の役で苦戦した源頼義が陸奥守を解任されて伊予守に任ぜられ、失意のうちに帰京したという話を日本史の授業でしていた。
 機械的に教科書の範囲内で教えていただけであり、頼義という人物についてとくに強いイメージを抱いていたわけでもない。しかし、今回ここに来て、頼義が75歳という老境で左遷され、その後も秘かに復権を期して10年以上も玉生八幡宮に詣でていた姿がありありと浮かんできた。同時に自分の授業が中身のない薄っぺらなものであったことを思い知り、恥入るばかりでもある。
 偶然知ったこの神社で、あれこれ思いを巡らせながら境内を歩いていると、実をびっしりつけた山桃の大木が何本も目についた。
 山桃。夢にまで出てくる。
 昨年、妻が近くの公園を友人と歩いているときに、山桃の実を採っている男性を見かけた。それなら自分たちも採ろうという話になったらしい。それはそれでいい。ところが妻たちはこともあろうに、私にその手伝いをしろという。手の届く高さになっている実はたかが知れており、その上についている実は脚立に登らなければ採れないというのが理由である。
 仕方なく私は脚立に登って枝を揺さぶった。バラバラと実が落ちて、地面に敷いたビニールはたちまち実で覆われた。ところが落ちる実は私の頭にも容赦なくぶつかるので、髪の毛はべたべたになる。着ているものは赤紫に染まってしまうし、脚立は洗わなければしまうこともできない。
 売りに出せるほど収穫し、これで私の仕事は終わったと思ったが、数日後、また行くという。前回まだ青かった実が熟してきたらしい。しかも今度は枝を揺するのはやめて一粒ずつ手で採れとのこと。どうやら前回は熟れ過ぎたものや虫の喰ったものが一緒に落ちて、選別するのが大変だったらしい。
 脚立に登ったまま実を採るとなれば、採った実を入れる籠か袋を首から下げておく必要がある。紐をつけた籠を作り、人の目を気にしながら作業を続けた。ところが山桃の実というのは落ちやすく、作業中にうっかり触れた実は腐っているものも虫の喰ったものも、ぼろぼろ落ちる。それが首から下げた籠にどんどん入る。
 そんなこんなで昨年は3度出動した。そんなに採ってどうするのかと思うが、どうも互いにジャムを作ったの焼酎漬けを作ったのと自慢し合って、別の友人に配っているらしい。
 そうして木を荒らし過ぎたのか、今年は実のつきが悪い。ついている実も小さい。しめしめ今年は作業がないと思っていたら、妻が、お父さんが旅行から帰ってきたころに大きくなるかも、などと言い出した。
 そんなわけで、私は昨今、山桃の木がやたらと目につくようになってしまったのだ。どの公園に何本あるとか、どこの街路樹に山桃が使われているとか、さらにどこの家の塀から山桃の枝が出ているとか、かなり詳しい。
 今回の旅でも、山桃が群生している山道があるというのでわざわざ横道にそれて8キロも走ったりしている。
 この玉生八幡神社の境内で山桃の木の前で思わず立ち止まってしまったというのも、そういう理由があってのことであるが、さて今年の山桃狩りはどうなったかというと・・・ああ、思い出すのも苦痛なのでこれ以上書くのはよそう。
 そのあと今治城見学。前回来たときには気づきもしなかったが、ここにも山桃がある。やはり私の目がそうなっているのだ。

 昼前、志島ケ原海岸の綱敷天満神社に着く。
 綱敷とは変わった名だが、菅原道真が大宰府に流される途中、海がにわかに荒れてやっと志島ケ浦に辿り着き、里人たちが船のとも綱を巻いて敷き物にして道真を坐らせたので「綱敷」、道真を祀ったので「天満神社」というのだそうだ。
 しかし以前神戸に行ったときにも確か綱敷天満宮というのがあったような気がする。よもやそこでも綱を巻いて敷き物にしたということはあるまいと思って、社務所にいた神官に訊いてみた。なんと神戸でも同じことがあったということで、そればかりか、菅原道真が大宰府に向かう旅の道筋には綱敷天満宮という神社がいくつもあるのだと教えてくれた。

 
なんだかちょっと興醒めであるが、それでも3万数千坪という境内を歩いていると、数千本の黒松によって周囲の雑音が遮られているせいか、そこが四国の瀬戸内海沿岸というような現実の土地ではなく、物語の中のような空想の世界にいるような気分にもなってくる。
 拝殿は総瓦葺きの入母屋造りで正面に千鳥破風が3層に重なり、一番下の破風はその下に唐破風がついているという、安土桃山の城もかくやという豪壮なものである。
 その社殿に向き合うように絵馬堂があり、その前に天満宮お約束の座牛が鎮座している。お約束であるから私もその頭部を撫でた。これで知恵がつく筈であるが、2つ覚える間に3つ忘れる昨今、効き目があるかどうかはなんとも言えない。

 海沿いの道が途切れてしまったので、国道196号線に出る。すぐに「湯ノ浦温泉・四季の湯」という看板が見え、反射的に左折した。一本道を進むとレストランと入浴施設が併設された建物が見つかり、なにはともあれ受付へ。450円を払って浴場に入ると、ござっぱりした銭湯風のつくりで、露天風呂もついている。
 湯のわきに大の字になって寝ている人がいて、本当に眠っているようだった。昼間の露天風呂というのは贅沢の極みで、私は雲など眺めながら1時間以上浸かっていたが、その私が出るまで、とうとうその人は起きなかった。

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