第8回 尾鷲~芦屋(3) 2009.11.28 ~ 12.05 (7泊8日)


2009年12月1日(火)その2
 紀伊大島には、トルコ記念館以外にも見るべきものが多い。それらを堪能してから潮岬を回って串本市街に寄る。この日は串本ロイヤルホテルに部屋を取ってあった。
 ロイヤルホテルは大和リゾートの経営する全国チェーンだが、安心感と快適性が私の性に合い、旅先にこのホテルがあれば迷わず予約を入れる。あるときなどは6泊7日の旅行で6か所のロイヤルホテルに泊ったこともある。
 狭い車の中で3泊したあとだけに期待は高まるが、折角のホテルでゆったりと湯に浸かったあとにまた汗臭い肌着を身につけることには抵抗があった。一応3日ごとに着替えるつもりで肌着を用意はしてきたのだが、予想外の汗をかいて、早くも最後の1枚を着ていたのだ。
 いつものことだが旅の前には妻が、着替えは十分持ったか、下着は毎日取り替えなきゃだめだ、とうるさく言う。私は「持った、持った」「分かってる、分ってる」と答えているが、そんなに持って出たことはない。面倒だし、荷物になるし、着替えなどしなくたって死にはしない。
 それで実際にはいつも後悔することになるのだが、今回もまた同じことになった。
 そこで、ホテルに着く前にスーパーに寄って肌着を買うことにした。レジに並びながら、私は小さな感慨に耽っていた。
 高校時代、私は訳あって一人暮らしをしていたが、その頃は着替えなど殆どしなかった。なにしろ選択をしようにも、洗い方が分からない。思いあぐねて鍋に下着類を入れ、湯が沸騰したのを見計らって洗剤を投入したところ、猛烈に吹きこぼれて、床一面を泡だらけにしてしまった。以来、洗濯は諦め、パンツなどは2週間穿いて裏返し、そのまま、また2週間穿き続けた。さすがにそれだけ穿くと気持が悪くなり、捨てる。
 駅へ向かう4キロほどの道は、田舎のこととて田んぼや林の間を通るばかりで、家などない。途中に小さな沼があり、亀など棲んでいる。

 朝、自転車で駅に向かう途中、走りながらその沼にパンツを投げた。ところがこれが沈まず、帰りに通るとまだ水面に浮いていて、鴨がつついたりしている。ときには葦の茎に引っ掛かっていることもあった。
 そこで一計を案じ、拳ほどの石をパンツで包み、ボール状にして投げた。あろうことか、空中で石がすっぽ抜け、パンツはひらひらと舞い落ちて、またぞろ水に浮かんだ。
 やむなく今度は林の中の無人の神社の縁の下に投げ込んだ。思いのほか近くに落ちてしまったので、棒で奥に押し込むというようなこともした。
 かくしてパンツはだんだん減っていった。新しい物を買わなければならない。しかし、パンツを買うというのは、年頃の高校生にとっては簡単なことではなかった。
 私は洋品屋の前を何度も行ったり来たりして、若い女性店員ではなく、すべてに興味を失ったようなお婆さん店員に狙いを定めた。そして勇を鼓して、ことさら明るい声で「こんにちは!」と店に入った。
 お婆さんは確かに奥にいたが、横からとびきり若い女性店員が現れ、いらっしゃいませ、何を差し上げますか、と訊いてきた。
 思わぬ展開にうろたえた私は、パンツと言えなくて、
「・・・下着を・・・」
と言った。女性店員はさらに明るく、
「長袖ですか? 半袖ですか?」
と訊いてきた。私は、
「・・・半袖です・・・」と言って、結局半袖シャツを買って店を出た。

 今だったら、そんな苦労はしなくてもパンツぐらい簡単に買える。
 世の中、大抵のことは無言で用が足りるのだ。
 電車の切符は券売機で買う。ジュースは自販機で買う。言葉はいらない。銀行での出し入れはATMで済む。コンビニでもスーパーでも、客は商品を自分で選び、カウンターに置くだけでよい。
 私はなるべく「これを下さい」とか「これ、お願いします」とか言うように心がけているが、多くの店員はマニュアル通りの挨拶を無表情で繰り返すだけで、客が余計なことを言うと嫌がる風である。私のような客は迷惑であるかも知れない。
 かくして若い人達はどんどん口をきかなくなり、路上でティッシュペーパーを貰っても、イベントで無料のカレーを食べても、礼を言わない。
 挨拶もしなくなり、全国の多くの高校で、朝、校門に教員が立ち、登校してくる生徒達に「おはよう。お早う。オハヨウ」と声をかけ、挨拶指導をしている。その間を無言で通り抜ける生徒達には、教員達がデパートの入口で客を迎えている店員と同じように見えているのだろう。
 いや、そのデパートの店員達に対しても、挨拶を返すのが当り前なのだが、見ていると、そんな客はまずいない。銀行の入口でも警備員風の服装をした男性が来る客一人ひとりに挨拶をしていることがあるが、これも見ていると、返事をする客は皆無と言っていい。
 今日本では、パンツを買うのに、「・・・半袖を・・・」などと口ごもる苦労はしない。その他の品と一緒にカウンターに置くだけで、店員と目を合せることもなく買えてしまう。
 さらに通信販売を利用すれば、恥ずかしくて店頭では買えないような品物でも、誰とも顔を合わせずに買えるし、インターネットを介すれば、金を借りることだって顔を知られずにできてしまう。
 そうして口をきかなくても用が足りる社会になって、日本人はどんどんコミュニケーション能力を低下させ、結果的に羞恥心まで失ってきた。
 いったい日本はどうなってしまうのだろう。外国が何でも優れているとは思わないが、コミュニケーション能力に限っていえば、日本は最も低いレベルにあると思う。
 私は長年生徒を連れて外国に行っており、その都度、口を酸っぱくして挨拶と返事を指導してきたが、それにも拘わらず、いつも現地で歯ぎしりするのが、生徒の挨拶と返事のダメなことだった。仕事がら、多くの国の高校生と接してきたが、日本人より挨拶や返事をしないのは、私の知る限り、中国人だけである。
 私はこの日、スーパーのレジで並びながら、昔のように「パンツを下さい」と言わなければパンツが買えない社会こそ、まともな社会なのだ、と思っていた。
 
 そして同時に、妹のことを思い出していた。
 私がひと月も同じパンツを穿いていたあの頃のある日、妹と何かの用事で会うことがあり、そのとき妹がパンツを何枚か持ってきてくれた。私が頼んだわけではない。私が洗濯などできないことを知っていて、買ってきてくれたのだろう。年頃の娘が男物のパンツを買うのは、私が男物を買うよりずっと恥ずかしかっただろうに。
 その妹は若くして死んでしまったが、このときのことを思い出すと、私は今でもぼろぼろと涙が出る。
 妹は、その後一緒に住むようになってからも、威張ってばかりいた私に対して何の文句も言わなかった。電車賃もないのにハイキングの約束をしてきた私に、電車賃と弁当代をくれたこともある。小銭ばかりだったところを見ると、自分の持っていたお金をはたいてくれたのだと思う。
 自身は耳の大手術を受けたり、その他なにかと苦労の絶えない人生であったのに、私に恨みごとを言うこともなかった。
 私はいつもあれがしたいこれがしたいと背伸びをし、あれが欲しいこれが欲しいと高望みをして、みんなに助けられながら望みを叶えてきた。妹はそんな私を責めるでもなく、自らは無欲でつましく生きていた。
 神様はどうして私のようないい思いばかりしている者を長生きさせ、妹のように苦労している善人を早く死なせてしまうのだろう。
 今もこうして書きながら、妹に申し訳ないという気持で、涙が止まらない。
 


12月2日(水)
 ロイヤルホテルでの夜は快適そのもので、風呂あがりに新しい肌着を着て、ジョッキで飲む冷えたビールは、車の中で飲む生ぬるい缶ビールとは全く別種の飲み物であった。
 ぐっすり寝た。朝風呂に入り、9時近くなってホテルを出た。真っ暗な中でトイレを探して走り出した昨日とは大違いである。
 この日はまず白浜に向かったのだが、途中、「恋人岬」という看板があった。道路わきにドライブインがあるだけの、何の変哲もない場所だが、沖合いの小島との間に左右から波が寄せてぶつかる、それが恋人を連想させるという、かなり無理な連想からの命名らしい。
 最近、あちこちに恋人岬というポイントができてきた。40年近く前にグアム島で恋人岬という所に行ったが、断崖絶壁と、それにまつわる言い伝えとが神秘的で、なるほどと思った。それが広く知られたのであれば尚更のこと、二番煎じ、三番煎じの客寄せ命名はやめてもらいたいものだ。
 紀伊半島は、私の住む房総半島と気候条件が良く似ており、同じ地名がいくつもある。中でも白浜、勝浦は半島上の位置まで同じで興味深い。
 残念ながら白浜は多くの観光地が行き着く「俗化」の見本のような所で、私はあまり好きではない。
 例えばその白浜には、「白良浜」という有名な海水浴場がある。一面まばゆいばかりの白砂が広がり、設備も良い。ナントカ百選にも選ばれている。
 ところがこれはインチキで、その砂は毎年オーストラリアから大量に運び込まれ、敷き詰められているものだという。それにしても白い。オーストラリアの海岸は押し並べてきれいで、いたる所に鳴き砂がある。しかし砂の色はかすかに赤味を帯びており、純白ではない。実は白良浜に運ばれる砂はオーストラリアの海岸のものではなく、大陸内部の砂漠地帯のものなのだそうだ。
 してみると白良浜の砂は、外国の、それも海とは関係のない砂漠の砂である訳で、これでは二重に客を欺いていることになる。インチキ百選に入れるのが妥当ではないのか。
 それを知って以来、私はいつもこの浜を素通りしている。今回
も横目で見ることすらせず通り過ぎようとしたところ、ちょうど浜の前で道路工事をしており、交互通行になっていた。
 たまたま私のところで工事用の信号が赤になり、私はほとんど無意識に停車し、ぼんやりと信号が青になるのを待っていた。
 すると突然運転席の窓すれすれに黒い車が現れ、私の車の前に進んで停まった。どうやら私と信号の間に空間があるのを見て、後方から割り込んできたらしい。車1台分ぐらい遅れて困る旅ではないからどうでもいいが、停まっている間中、運転手である男と助手席の女がじゃれ合っている。ということは、男がわずかな隙間に割り込むテクニックを女に見せたのかも知れない。そう思うと、少し腹も立つ。
 見るともなしにナンバーを見ると、18・78であった。イ・ヤ・ナ・ヤツとも読め、車ごと海にでも落ちるよう願わずにはいられなかった。
 有名な円月島の前は、白浜きっての名所にしては土産物屋もなく、駐車場も無料である。駐車場といっても空き地をコンクリートで固めただけのもので、以前ドライブインか何かがあった跡地ではないかと思われる空き地であるが、車を停めるだけであるからそれで十分で、私も迷うことなく車を停めた。
 広い駐車場には、私の他にもう1台が停まっているだけであったが、その車が黒で、ナンバーは18・78であった。
 さては海に落ちなかったのかと、残念ではあったが、まあ仕方がない。
 磯に降りると、老人が一人、置き竿で釣りをしている。平坦な磯で水は澄んでいる。日差しも柔らかく、波も穏やか。つまり、魚が釣れない条件が全部揃っているわけで、それかあらぬか、私が見ていた小一時間の間には1匹も釣れなかった。老人は泰然自若としており、私も飽きはしなかった。
 田辺市に入り、闘鶏神社に行く。
 瀬戸内海に於ける源平合戦の折り、海戦を得意とする平氏に対して山育ちの源氏は初手から不利であった。そこで義経に仕える武蔵坊弁慶は、父熊野湛増に加勢を頼み込む。湛増は名にしおう熊野水軍を率いる別当職にあり、味方にできれば海上での優位は確たるものとなる。
 しかし湛増は平氏からも助勢を求められていた。そこで湛増は神意を確認すべく神社本殿前にて源平に見立てた2羽の鶏を戦わせ、源氏の鶏が勝ったことを以て神は源氏につけりと部下を鼓舞した。かくして勇猛な熊野水軍を味方につけた源氏は劇的な勝利を収めた。その神社がこの闘鶏神社である。
 高校時代にこの話を知った私は、すぐさま校内で発行されていたガリ版刷りの新聞にこれを発表した。かなりの想像を加え、次のような内容だったと思う。
 湛増は源平両陣営から誘いを受けたが、時代の趨勢からして源氏につくことはリスクが大きい。部下たちも平氏につくべしとかまびすしい。しかし、源氏への加勢を頼んできた我が子弁慶を追い返すことは忍びない。
 
 湛増・弁慶の像

 そこで湛増は神意を問うと称して、源氏を表す白のリボンをつけた鶏と平氏を表す赤のリボンをつけた鶏とを戦わせた。結果は湛増の密かな願いどおり白が勝ったが、部下たちは俄かには神意を信じようとしない。
 無理もない。現代と違ってミサイルのボタンを押して戦うのではない。刀で直接切り合い、勝っても負けても血しぶきと阿鼻叫喚の渦の中に身を晒す当時の戦さであれば、劣勢が予想される源氏に与することは、血まみれになって死んでゆく自分を予感させる一大事である。
 そこで湛増はもう1組の鶏を戦わせた。さらに1組、そしてさらに1組。ついに7組すべて白が勝つに及んでようやく部下たちも神の加護ありと納得した。
 湛増はもとより部下たちの心の揺れは見抜いていた。密かに赤リボンの鶏すべてを弱らせておいたことは言うまでもない。
 私がこの神社を初めて実際に訪れたのは、そのような想像をしてから30年以上経ってからのことであったが、それから何度か参拝し、そして今日また同じ境内に佇んでいる。勝手に膨らませた想像を、湛増は怒っているのか、笑っているのか。
  
 この日は美浜町の煙樹海岸で寝ようと決めていた。初めての場所であるが、「煙樹」という言葉の響きに何となく惹かれてのことである。
 深い松林を抜けると広大な砂利浜に出る。波打ち際まではかなりの距離があり、これなら深夜に波の音で眠れないということもなさそうだ。
 真っ赤な夕日を堪能したあと、カップラーメンとビールで夕食をとり、早々と寝袋に潜り込んで、あっという間に眠ってしまった。明かりもなく、車の音も人の話し声もなく、これだけ快適な寝場所はそうざらにはない。行き当りばったりの車中泊であれば、寝場所の当たり外れは運次第だが、ここ煙樹海岸は大当たり。同好の士に自信をもってお勧めしたい。

12月3日(木)
 一晩中、夢を見ていたような気がする。
 私は夢を沢山見るタチらしい。それも怖い夢や苦しい夢、後味の悪い夢が殆どで、なかんずく何かから逃げる夢が多い。足が前に進まず、たちまち敵に追いつかれ、首を絞められたり刀で切られたりする。最近では夢の中でそれが夢であることが分かっており、大声を出せば女房が起こしてくれる筈だと、懸命に喉を絞るが声が出ず、もがいた挙句にハッと目が覚めると、隣で女房が気持良さげに寝ていて、コンチクショーと思うこともある。
 それがこの晩は違った。楽しい、嬉しい夢ばかりで、惜しいところで目が覚めるのだが、余韻に浸っているうちにまた眠りに入り、また良い夢を見る。こんな良い夢はしっかりと覚えておこうと思うが、目が覚めるとその内容は雲散霧消して、どんな夢だったか思い出せない。夢を見たことは確かで、それも楽しい夢だったとは思うのだが、内容は曖昧模糊として見えてこない。それでも気分は上々で、辺りがすっかり明るくなっても、うつらうつらと惰眠をむさぼっていた。
 それにしても、悪い夢はいつでもかなり詳しく覚えているのに、良い夢はいつも目覚めとともにその内容を忘れてしまうというのはなぜだろう。
 まあ世の中、いやなことは山ほどあるが、いいことは滅多にない。夢もまた同じか。

 一日中、降ったり止んだりの天気。今回の旅行で初めて傘も使った。
 
 日高郡由良町の白崎海岸

 日高郡由良町では真っ白な石灰岩の岩場が累々と続く奇観に時の経つのを忘れたが、烈風が吹きすさび、雨と波しぶきで足元がかなり滑った。
 人の姿が全くないのをいいことに、ほぼ四つん這いになって岩を伝い歩いた。その顔の前で船虫がこともなげに濡れた岩を歩いていて、なんとも腹立たしい。
 人を小馬鹿にしやがって。俺だって、そんなにたくさん足があれば滑らないのだ。
      
 
 またこの日は、何度も和歌山県人の運転マナーの悪さに腹を立てた日でもあった。
 和歌山は過去に何度も走っているが、いつも必ずヒヤッとしたり、腹を立てたりしている。
 細い道をビュンビュン飛ばすのは当り前。原付バイクが道の真ん中をテレテレ走っていて抜くに抜けないというのも当り前。ときには左前を走っていた原付が突然何の合図もなく目の前を横切って右側の家に入ったりして、私は自分の急ブレーキで前のめりになったまま、しばらく呼吸を整えなければならなかったりもした。
 また、海岸線に沿って走るという方針から、しばしば狭い路地に入り込むことになるのだが、そんなとき、前から来る車はまず道を譲らない。まあ、私が譲ればいいことであるが、こちらが譲るためには相当な距離をバックしなければならず、相手が譲る気なら数メートル下がればいいというようなケースでも、和歌山県人は絶対に譲らない。
 この日は三叉路で3台が鉢合わせとなり、互いに顔を見合う状態になった。
 そのうちの1台は軽自動車で左に少し余裕があり、ほんの50センチも左に寄ってくれればあとの2台が交互に抜けられるという状況であったから、私はそのように手真似をした。なのに、その車の主は目をそらしたまま、全く反応しなかった。
 とうとうもう1台のセダンの男が車から降りて行き、軽の主に何か言い始めた。主は窓も開けず、外の男と目を合わせぬようにまっすぐ前を見たまま動かない。
 私も車を降り、軽の前に立った。軽が動ける幅を手で示して、「ちょっと寄って下さいよ」と声をかけた。聞こえない筈はないのに、主は恬として動こうとしない。
 ここに至って私も堪忍袋の緒が切れ、「寄れ!」と怒鳴った。それでも動かない相手に業を煮やし、ドアに手を掛けたが鍵が掛っていて開かない。フロントガラスをドンドンと叩き、「開けろ!」と怒鳴る。もう1人が軽を横から押し始めた。動きはしないが、車体が揺れた。
 ここでようやく軽の主はギヤを入れ、車は左に寄った。セダンがその脇をすり抜け、私はセダンのいた所に車を入れ、軽は無言で私の来た道に進み、問題が解決した。
 こんなことは千葉県なら一瞬のアイコンタクトでスムーズに運んでいるところだ。
 収まらぬ憤懣と、我ながら大人げなく怒鳴ったりしたことへの慙愧とで鬱々としながら走っていると、加太の淡島神社に出た。
 7年ほど前、3組の姉夫婦と私達夫婦、合わせて8人でここに来たことがある。所狭しと並べられた雛人形に息を呑んだものだが、そのとき一緒だった一番若い義兄はその7カ月後に他界した。
 歯の浮くような社交辞令を並べたりする調子の良さは持ち合わせていなかったが、誠実で、心根の優しい人であった。姉には私を含めて兄弟姉妹が多く、何かと問題もあったのだが、一度たりとも面倒な顔を見せたことはなく、当り前のように付き合ってくれた。
 和歌山への旅行のときも、自分ではこれが最後と思っていたであろうし、私たちもそう思っていた。それでも「次回はどこに行きましょうか」などという私のへたな芝居に怒るわけでもなく、へへへ、と笑っていた。
 私は、久しぶりに訪れた社殿が、あたかも義兄を祀った神域であるかのような思いに捉われ、いつになく、深く頭を下げた。
 
 あれこれ思うことの多い一日であり、大阪府に入って市街地走行になったせいもあり、一気に兵庫県に抜けてしまった。
 これで紀伊半島を一周したわけで、この先は淡路島を経て四国に渡ることになるが、そうそう妻に留守を預けて自分ばかりが良い思いをしているわけにもゆかぬ。
 六甲アイランドに近い深江浜を今回の最終地点と決め、埠頭に車を停める。尾鷲から639キロ。前回までの一周コース1623キロと合わせ2262キロにはなったが、どうやら死ぬまでに日本一周はできないように思えてもきた。
 
 SAから見た冨士と月

 そのあと高速に乗り、名神高速の大津サービスエリアで1泊。翌日家まで走ることもできたのだが、もう1泊すれば土曜日で高速料金が安くなるので、東名の冨士サービスエリアでさらに1泊する。
 最後に足柄サービスエリア内で朝湯に浸かって疲れをとったが、このとき浴場に足を踏み入れてギョッとした。
 誰もいない浴場内で、湯舟にうつ伏せの男が1人浮いていたのである。勿論全裸で、入浴中に何かの発作でも起こして倒れたような光景であり、私は心底うろたえ、湯舟に向かって突進した。
 と、その男がやおら立ち上がり、一物を晒したまま両手を挙げて大欠伸をした。
 世の中には、腹の立つことが多いものだ。

第8回 尾鷲~芦屋(2) 第9回 芦屋~赤穂(1)
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