第8回 尾鷲~芦屋(2) 2009.11.28 ~ 12.05(7泊8日)


2009年11月30日(月)その2
 新宮市内に浮島の森というのがある。旅行前に知ったものの格別の興味は湧かず、まあ時間があったら寄ってみるか、というくらいに思っていた。
 それが、徐福公園で感じの良い挨拶をくれたあの男性が是非行ってみてくださいと言うので、助言に従うことにした。
 立派な駐車場があり、100円払って島に渡る。と言っても小川に渡された板を渡るような按配で、あとはずっと木道伝いに歩くことになる。
 縄文時代の末期にできた沼沢で、枯死した植物が絡み合い、長い年月を経て泥炭となっている。それが水より比重が軽いので、浮いているのだとか。
 東西約96メートル、南北約55メートルのこの島は、浮島であるがゆえに今でも水面の昇降によって上下したり、横に動いたりしているそうで、国の天然記念物にも指定されているという。
 しかし歩いている感じでは、ただ手入れの届かない茂みというだけで、水に浮いているという実感はまるでない。客は私1人であった。
 昔、この付近に「おいの」という美しい娘がいて、ある日、父に連れられてこの島に薪を採りに渡った。昼になり、親子が弁当を食べようとしたときに、箸を忘れてきたことに気づき、娘が木の枝を採りに茂みに入っていった。待てども待てども娘が帰ってこないので父が探しに行ったところ、娘はまさに大蛇に呑まれて底なしの穴に引き込まれようとしていた。父は必死で助けようとしたが及ばず、娘はとうとう引きずり込まれてしまったという。
 この話をもとに、上田秋声が『雨月物語』を著し、のちに谷崎潤一郎が戯曲化したのだと説明書きがある。私は『雨月物語』を読んだことがなかったので、この話がどう書かれているのかと思って旅行後に図書館に行ってみた。難しくて何を書いてあるのか判らなかったし、浮島の話がどこに出てくるのかと探したが、それも判らなかった。
 次に書店に行って、かな混じりの訳書を読んでみたが、なにやら魑魅魍魎の跋扈する奇々怪々な物語であることは判ったものの、やはり浮島の話は見つからない。とうとう現代語訳を探して読んでみた。話はよく判ったが、結局浮島の言い伝えと思われる部分を探し出すことはできなかった。
 思うに、秋声は浮島の話をヒントに、想像を膨らませて新しい物語を造り出したものなのだろう。

 それにしても、悲しい話に出てくる娘はどうして皆美人なのだろうか。


 砂を採ろうと、王子ケ浜に行く。広大な砂浜で、見ているだけで気力が漲るようだが、それよりも驚いたことに、大きな鳶が地上に群れている。大きな、と書いたが、鳶として特に大きいのかどうかは判らない。前にも書いたが、鳶というのはふだん飛んでいる姿しか見ないので、こうして間近に見ると大きく感じるのかも知れない。
 民家の方から流れてくる真水を飲んでいるらしく、数えてみると20羽あまりもいる。高い空を飛んでいる姿と違って、珍しいし、迫力がある。 そっと近づくと、うるさいなという感じで数メートルだけ飛び退る。また寄ると、その分だけ飛び退る。それを繰り返していると、とうとう向こうが嫌になったらしく、一斉に飛び去ってしまった。
 私自身も自分のしていることにあまり感心できない気分になり、先へ進む。熊野三山の一つ、熊野那智大社が次のお目当てだ。

 那智大社には何度も来ているのだが、熊野三山といえば熊野詣でとか熊野古道とかいう言葉の響きもあり、近くを通るときには素通りできない。実はこの朝も熊野速玉大社にお参りして、賽銭を奮発してきたところであり、那智大社へもごく自然にハンドルを切った。
 熊野曼荼羅の郷河川公園の駐車場に車を停め、スニーカーに履き替えて歩き始める。
 樹齢800年、幹回り8メートルという夫婦杉が門柱のように聳え、そこから熊野古道の大門坂が始まる。杉木立に守られ苔むした石段を登るとすぐに多富気王子跡。その先、石畳をゆっくり登る。
 バスや車で登ることもでき、つづら折りになったその車道がほぼ直線の古道と接する箇所が一つだけある。観光タクシーなどは、大門坂の登り口で客を降ろし、先回りしてそこで客を待ち、あとは那智大社まで載せて行くらしい。
 そういう客らしい50代くらいの男数人が、「同じだ。どこまで行っても同じだ」などと、いかにもつまらないということを言い合いながらタクシーに乗り込むのが見える。まだ200メートルほどしか歩いていないというのに。まあ、求めるものが違うのだろう。
 坂は、けっこうしんどい。過去に歩いたときにはきついという印象はなかったが、今回はゆっくり登っているにも拘わらず、吐く息が荒い。年をとるというのはこういうことかと思い、情けない。
 ようやく大門坂を登り切ると、熊野交通の那智山観光センター駐車場に出る。参道に出るにはセンター内を通らなければならないようにできており、そこはお約束のように土産物屋になっている。
 店員がめざとく私を見つけると、「お疲れ様でした。名物の那智黒です」と言って飴をくれる。
 まあ、土産物屋の常套手段であり、店が混雑していればそのまま失敬するのだが、あいにく店内に客は私1人であり、どちらからお出でになりましたか、などと話し込まれては、逃げるわけにもゆかず、300円の袋を1つ買うはめになった。
 そこからがまた階段だ。途中で茶店に入り、那智の滝を遠望しながら、うどんと心太(ところてん)を食べる。どちらも500円であったが、このところてんはすこぶる美味い。それを言うと、
「テングサを使っていますから」
という返事が返ってきた。
 ところてんはテングサで作るもの。当り前ではないか。そう言うと、スーパーで売っているところてんはテングサを使っていないんですよ、と言われた。本当だろうか。
 那智大社に着き、写真を撮っていると、
「学校の先生ですか」
と声を掛けられた。50代くらいの男性で、地元の人らしかった。
 8か月前に退職しましたなどと言うのも面倒なので、そうです、と答えたが、どうして私を教員だと思ったのだろう。私は修学旅行の引率で来たこともあるが、それはもう30年も前のこと。顔を覚えている人がいる筈もない。
 それに今回はTシャツにジーパン。おまけにズックの頭陀袋を下げた汗まみれの老人を見て教員かと思ったその理由が判らない。それ以上の質問もされず、話をすることもなく、私としてもそうですと答える以外に話題もない。
 どうも旅に出ると、ときどき不思議な人に出会う。
 今回初めて気がついたが、境内に八咫烏(やたがらす)の像がある。神武天皇が東征の途中、敵の攻撃に難儀しているとこのカラスが現れ、天皇軍を熊野から大和へ導いたという話で、先年熊野本宮大社に詣でたときにも、鳥居の横にこのカラスを描いた大きな幟旗が立っていた。
 「咫」とは、親指と中指を広げた長さだそうで、約18センチとすると、八咫では144センチになり、とてつもなく大きなカラスということになる。カナダで地元民に神様扱いされているという大きなカラスを見たが、カラスというのはどこでも独特のイメージで見られているようだ。
 境内には、これも初めて気がついたが、「那智の樟」というのがあり、天然記念物になっている。樹齢800年、樹高27メートル、幹回り8.5メートル、枝張り南北25メートルと説明板にある。平重盛の手植えとあるが、真偽のほどは判らない。
 古木ゆえ、幹の下の方に空洞があり、胎内詣でとかいって中に入れる。入るには300円を払わねばならない。どうして300円なのか。ただ木の下に潜るだけで金を取るとは、神様もせこいものだ。
 それでも私は賽銭に大金を投じた。
 全国の名だたる神社仏閣はお参りするのに拝観料と称するカネを要求することが普通で、その上駐車料金まで取る所が多い。車を置けるから参拝するという人も多い筈で、そういう客を集めるために駐車場を設け、そこでカネを取って、拝観でまたカネを取るという、山賊もかくやというあこぎなやり方は神仏の名に恥じるものではないか。
 だから私はうんざりし、賽銭などまず入れないし、入れても1円玉、気張っても10円がいいところだ。
 その点、熊野三山では今回行かなかった熊野本宮を含め、拝観料も駐車料金も取らない。だから私はこれまでも、平均的な駐車料金と拝観料を合わせた額よりも多めの賽銭を入れることにしていた。
 那智大社に隣接して那智山青岸渡寺がある。国の重要文化財であり、西国33カ所観音巡りの第1番札所でもある。鎌倉時代に花山法皇が近畿各地の33に及ぶ観音様を巡拝された、その第1番であったことに由来するということだ。
 入母屋造り、こけら葺きの大屋根は堂々としており、太い柱と相まって見る者はおのずから居ずまいを正さずにいられない。
 一切色づけのない建物は、隣の那智大社が目の覚めるような朱塗りであるのと好対照をなしている。そもそも神社とお寺が隣り合っていることが不思議だが、古来異文化に寛容で神仏習合の概念を生み出した日本人らしいおおらかさと思えば味わいもひときわ深い。
 いったん車道に出て少し下ると、飛瀧(ひろう)神社の鳥居に出る。そこからまた石段を降りると那智の滝。落差133メートル、幅13メートル、滝壺の深さ10メートル。日本3名瀑の一つに数えられている。滝そのものが飛瀧神社のご神体であり、本殿、拝殿はなく、直接滝を拝むことになる。
 しばし滝を仰ぎ見たあと、土産物屋を覗いて歩く。昔、修学旅行の引率で来たころは、いかがわしい大人のオモチャが沢山並んでいた。女生徒と一緒のときなど、互いに気づかぬふりをするのに苦労したものだ。それが最近は殆どなくなり、今回は一つも見なかった。
 まあ、聖地熊野としては良いことであろう。
 鳥居の前に「お滝前バス停」があり、そこから勝浦駅方面行きのバスに乗る。2つ目のバス停が「大門坂」。ここで降り、熊野曼荼羅の郷河川公園まで歩く。
 車に乗ってすぐ、那智かまぼこセンターというドライブインがあり、「天然温泉蓬莱の湯」という、うっとりするような看板が出ていたので寄ることにした。一階が土産物屋、二階が入浴施設になっていて、420円で入れる。中規模旅館の大浴場といった感じで、殺風景ながら十分な広さがあり、ちゃんと露天風呂もついている。
 客は私1人。2日間風呂に入っておらず、昨日、今日と汗まみれになった体を露天風呂に浸けていると、ありがたさに身も溶けるようで、わけもなくアーとかウーとか声を出していた。願わくば浴場の壁に蓬莱山か何かのペンキ絵が欲しいところだが、そこまで贅沢は言うまい。

 いくつかの海水浴場に行ってみたが、車を水平に停めるスペースがない。とうとう真っ暗になってしまい、昨日と同じく寝場所を見つけにくくなってしまった。やむなく国道42号線沿いの駐車帯に寝ることにする。道路わきではあるが、車が数台停められるだけのスペースがあり、なにより車道との間に6、7メートルの距離がある。昨夜より数段マシだろう。
 カップラーメンを煮て、さばの缶詰を開け、ビールを飲む。
 計算外だったのは、道路に沿って紀勢本線が走っていたことで、列車の往来が深夜まで続き、そのたびに目が覚める。また駐車帯が道路のカーブする所にあるので、ブレーキ音、加速音がひときわうるさい。いったい世間の人間はどういうサイクルで生活しているのだろうと思うくらい、夜中でも車の絶えることがない。
 うとうとしては目を覚まし、寝返りを打ちながら外の様子を覗うと、その都度違う車が停まっている。エンジンがかかっていたり、車内灯がついていたりする。30分、1時間と停車してはまた出て行く。仮眠でもしているのだろうか。朝まで断続的に車の出入りがあり、ほとんど寝た気がしない。

12月1日(火)
 5時前にトイレに行きたくなったが、またしても後ろに車があり、運転席で人が動いている。これでは立ち小便をするわけにもゆかず、暫く待ったが出て行く様子がない。
 仕方がないのでトイレのある場所まで移動しようと走り出す。街灯というものが殆どなくて真っ暗だし、道も不案内なのでゆっくり走りたいのだが、あとからあとから他車がビュンビュン飛ばして後ろに迫ってくるので、こちらもついついスピードを上げてしまう。
 どうにも危険なので国道をそれ、田原海水浴場に出る。ここは海霧で名高い荒船海岸で、立派な駐車場がある。「国民宿舎あらふね」の前で、そこの駐車場も兼ねているのかも知れない。静かだし、ここで寝ればよかった。自販機でコーヒーを買い、体を温める。
 6時。ようやく空が白み始め、無数の鳥がシルエットになって乱れ飛んでいる。公衆便所があったので、洗顔、髭剃りを済ませる。6時半にはすっかり明るくなったが、見ると群になって飛んでいたのはすべてカラスだった。
 古座大橋の手前を右折。42号線を外れて、国道371号線を内陸に入り、古座川に沿って走る。川に白鷺が沢山いる。途中から県道38号、さらに43号線に折れ、「滝の拝」を目指す。
 1時間ほどで滝の拝に着く。古座川の支流、小川(こがわ)にある落差8メートルの渓流瀑で、岩床に無数の甌穴が穿たれている。
 昔、滝の拝太郎という侍がいて、人々の目を楽しませようと、滝の周辺の岩床に毎日刀で穴を掘っていた。あと一つで千個目の穴になるというときに刀を滝壷に落としてしまった。太郎は刀を拾いに滝壺に潜ったが、上がってこない。家人や近所の人々が滝の主に食われたのだろうと諦めて初七日の法事をしているところに太郎がひょっこり帰ってきた。
 滝壷の底に宮殿があり、そこに住む滝の主の姫が大勢の侍女と共に太郎を歓待してくれたという。
 太郎は夢中になって遊んでいたが、ふと家のことが気になり、落とした刀と丸い大きな石を土産にもらい、地上に帰ったそうな。
 それ以来、それまで滝壷で雷のようにゴロゴロと鳴っていた音が止んだという。どうやらその丸石が滝壺で転がって音を立てていたらしい。渓流の横に小さな祠があり、その中にその石が置かれているというので覗いてみたが、暗くて見えなかった。
 岩床を歩いていると、水溜りに山椒魚が1匹、泳いでいた。蛙も1匹。おそらく増水したときにでも入り込んでそのまま取り残されたのであろう。私は苦労してそれを捕まえ、流れに放してやった。山椒魚を助けたお礼とかいって姫か侍女が迎えに来るかも知れぬと暫く待ったが、とうとう現れなかった。恩知らずな姫だ。
 鹿の糞と思われるものがあちこちに落ちている。辺りは深い山であるから、鹿が出没しても不思議はない。またここは鮎が沢山とれるらしいが、透明な水をいくら見つめても、魚の気配はまるで感じられない。

 国道371号線に戻り、さらに内陸へ進むと古座川の一枚岩に出る。
 高さ100メートル、幅500メートルという巨大な岩が川に沿って聳える、なかなかの景観である。
 昔、太地に岩が大好物という魔物がいた。その魔物は岩の多い古座川流域に目をつけ、下流から次々に岩を食い荒らしていった。
 魔物が一枚岩まで辿り着き、それに喰らいついたとき、犬がこれを見つけ、猛然と襲いかかった。犬が嫌いだった魔物は一目散に逃げ去ったという。このときの魔物の歯型が一枚岩の中央に今も残っており、魔物の悔し涙が一枚岩を流れ落ち、「陰陽の滝」と呼ばれる滝になったと伝えられる。
 川を隔てた所に新しいトイレがあった。2年前に来たときにはなかったものだ。ともあれ入ってみるとこれがウォッシュレットだったので、私は小躍りして大きい用を足した。
 隣接する小さなレストランでコーヒーとトーストの朝食をとりながら巨岩を眺める。2年前にも同じ席でコーヒーを飲んだ。
 2年なんてあっという間だ。俺が死ぬ日もあっという間に来るんだろう。あたふた、あたふたと生きてきたが、何も残さずに死んでしまうんだ。
 そんなことを考えながら、いつまでも岩を眺めていた。

 国道42号線に戻り、橋杭岩へ。
 海岸から沖に向かって大小40の岩が850メートルに渡って並んでいる。その様が橋の杭のように見えることからそう呼ばれているとのことで、ご多分に漏れずここでも弘法大師の伝説が残っている。
 昔、弘法大師が天の邪鬼と串本から沖の島まで一晩で橋を掛けることができるかという賭けをした。大師がほとんど作り終えたところで、このままでは賭けに負けると思った天の邪鬼が鶏の鳴き声を真似て朝がきたように偽った。だまされた大師は橋を作るのを諦めて立ち去り、杭だけが残ったというのである。
 まあ、楽しい話だが、私には橋の杭というより、ステゴザウルスの背びれにように見える。
 干潮時に来たのは初めてで、むき出しになった泥炭層を歩き回り、大きな岩によじ登った。遠くで観光客が私の方を指さして何か言っているようだったので、通報でもされるのではないかと思い、そそくさと降りる。
 ところで弘法大師だが、あまねく衆生に手を差し伸べて慈悲の限りを尽くした稀代の高僧
であることは、いまさら言うまでもない。それなのに、天の邪鬼の子どもじみた策にまんまと騙されたという間の抜けた話が残っているのは、“お大師様”への親しみからきているこ
となのだろうか。
 四国霊場八十八か所巡拝で結願の寺とされている香川県の大窪寺には弘法大師が掘りかけ
た未完の磨崖仏というのが残っているらしい。(私は境内を探し回ったが、掲げられた案内
板にも載っておらず、ちょうどお参りをしていた地元の方に訊いても分からなかった)
 かつてここを結願寺にしたいと思った大師が、一夜のうちに本尊を刻もうと岩に向かった
が、もう少しで完成というときになって、天の邪鬼が鶏の鳴き声を真似て朝を告げたために
自分の力不足を恥じて諦めたというのだ。
 弘法大師空海ともあろう偉人が、天の邪鬼ごときの同じ手に二度までも騙されるとは・・
庶民の味方空海なればこそのご愛嬌なのだろうか。

 さてそのあとは、ループ状になった串本大橋を渡り、紀伊大島へ。ここは明治23年にト
ルコ海軍のエルトゥ-ルル号が遭難した場所である。
 エルトゥールル号は、トルコ皇帝の親書とトルコ最高勲章を明治天皇に届けるために約1年をかけて来航。任務を果たした後、帰路ここ大島の樫野崎沖で台風に遭い、座礁した。
 船は真っ二つに折れ、乗組員は悉く海に投げ出された。
 知らせを受けた樫野の住民は総出で救助にあたり、衣類はもとより、僅かな備蓄食料、非常用の鶏まで惜しまず供出して生存者の介抱に努めた。その結果69名が生還したものの、艦長はじめ580数名は帰らぬ人となった。その後の島民の懸命の捜索により219名の遺体は収容され、ねんごろに埋葬されたが、360余名は今も海底に眠っている。
 私はこの事件を知ったとき、その痛ましさに胸を塞がれる思いがした。そしていつかその現場を訪ねて花の1輪なりと手向けたいと思っていた。
 何年か前、念願叶ってこの地を訪ねたとき、近くで花を買って行こうと思ったのに国道42号線沿いには花を売っている店など1軒もなく、どうしたものかと思っているうちに島に着いてしまった。
 やむなく手ぶらで島の東端まで行くと、そこ樫野崎には、この事件を風化させぬためにトルコ政府が建てたトルコ記念館が建っていた。小さな、外観も立派とはいえぬ建物であるが、中には事件の経緯を詳細に記述したパネルと共に、乗組員の写真、海中から回収した遺品などが展示されており、どれもが120年も前の事件であることを感じさせぬ迫力で胸に迫ってくる。
 屋上に出ると、眼下に青海原が広がっており、ごく近く、大声で呼べば聞こえそうな場所に、いくつかの岩礁が波に洗われていた。
 もしやと思って案内板を見ると、それらの岩が克明に描かれており、エルトゥールル号が座礁したその岩が、矢印で示されていた。指呼の間にその実物が見える。
 あの岩か。すぐそばじゃあないか。ひと泳ぎで次の岩に移れるし、またひと泳ぎで次の岩。数個の岩を伝っただけで岸に着ける。こんなに近くに岸を見ながら死んでいった乗組員たちの無念はいかばかりで
あったろう。
 私は胸が詰まり、いつまでも海を見ていた。もはや花を手向けるというような次元の思いはまったく起こらず、ただただ、海を見ていた。
 あれから私はまたそこに行き、今回またそこへ行った。同じ場所に立ち、同じ海を見おろし、同じ思いに浸っている。私ももう年だし、この先もう一度来ることはおそらくあるまい。そう思うと立ち去り難い気分であり、同時に客死した乗組員たちの、せめて魂だけでも故国に帰り着いていてくれればと願わずにはいられなかった。
 最近私は、「トルコ軍艦エルトゥールル号遭難事件に思う」という文を書いたが、乗組員たちの鎮魂には何の役にも立たぬ駄文で、恥ずかしいよりも申し訳ないという気持の方が強い。

 

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