第8回 尾鷲 ~ 芦屋 (1)  2009.11.28 ~ 12.05 (7泊8日)


  訳あって、この旅行は中断したままだった。
  ようやく再開できることになったが、日本人の平均寿命を考えると、今のペースでは日本の海岸線を
3分の1ほど回ったところで、私は死んでしまう。


2009年11月28日(土)
 今日は走行予定が短いので、出発前にローソンで氷とビールを買い、10時過ぎに家を出る。東京湾横断道経由で東名横浜町田インターへ。
 鮎沢PAは車も少なく、周辺の紅葉がきれいなので、のんびり休憩。
 鮎沢手作りカレーというのを食べる。安くて美味い。結構なことだが、“手作り”というのはどういう意味だろう。機械作りのカレーというのがあるのだろうか。
 これに限らず、よく“手作り”ということを売り物にしている看板があるが、手作りということがなにか優れた意味を持つのだろうか。
 園芸で使うオーナメントなどは手作りの方が1個1個味が違って面白かったりするが、食品の手作りにそれほどの価値があるとは思えない。
 それどころか、「手作りお握り」などと表示して売っているものを見ると、コンビニの握り飯のように全行程が工場で作られる物の方が清潔ではないかと思ってしまう。
 蕎麦などはさらに“手作り”であることが強調され「手打ち」と書かねば格が落ちるように思われているが、機械で作る方が材料の配合や生地の練り具合が一定で、出来不出来がないのにと思う。

 まあ、どうでもいいことで、豊田ジャンクションから伊勢湾岸道路に乗り移り、午後4時半、刈谷ハイウエイオアシスに着く。
 高速道路からも一般道からも入れるようになっている大きなPAで、観覧車やメリーゴーランドまであり、近くの人々が子供連れで遊びに来ている様子。

 和洋中、いろんなレストランがあってどこも美味そうだが、値段を考え、セルフサービスの和食を食べる。ご飯、味噌汁、いかの天婦羅、鯵のフライ、子持ちガレイの煮つけ、まぐろの刺身。これで1.290円だ。
 車に戻ってビールを飲む。これだけは省略できない。


29日(日)
 夜中に騒がしいので車の窓からそっと外を覗うと、1960年代のアメリカ映画に出てくるような馬鹿でかいアメ車がうじゃうじゃと集まっており、私の車は完全に包囲されているようだった。
 それぞれの車に数人ずつ乗ってきたらしく、車の周りや自動販売機の周りに大勢の若者が立っている。ただ楽しげに話をしているだけで、別段何をするわけでもない。時々1台、2台と出て行くが、そこにはまた別のアメ車が次々と入ってくる。
 あまり愉快な雰囲気ではないが、どうなるものでもないし、まあトイレにでも行くか、と思って車から出た。
 車の中から見たより遥かに多い外車、それも幅広、低車高のこれこそがアメ車だというような車が駐車場を埋めており、私の車ともう1台の日本車は、さながら戦車に囲まれた人力車のように頼りなく見えた。
 いったい日本のどこに、あれほどの外車が隠してあったのだろうと思う。
 
 朝になり、その刈谷をあとにして高速道路を走り、紀勢自動車道の大宮大台インターで国道42号線に降りる。
 すぐに道の駅「奥伊勢木つつ木館」。ここには別段用事もないのだが、車だけ置かせてもらい、1キロ弱を歩いて瀧原宮を訪ねる。
 
 
 瀧原宮
44ヘクタールという広大な宮域を、杉の巨木に守られた参道が貫いている。ずいぶんと歩いた所に清冽な川があり、御手洗場ができている。信仰のない私ではあるが、ここはやはり敬神の礼として手を洗い、社殿へ。
 白と黒の砂利がきっちりと色別に配された先に4棟の社殿があり、それぞれ瀧原宮、瀧原竝宮、若宮神社、長由介神社と書かれた木札が立っている。
 瀧原宮、瀧原竝宮はともに伊勢神宮内宮の別宮だそうで、御祭神はいずれも天照坐皇大御神御魂(あまてらしますすめおおみかみのみたま)だとか。
 両宮とも構造は伊勢内宮に準じ、神明造、樫木は6本、千木は内削ぎになっている。
 とまあ、分かったようなことを書いたが、そういうことはすべて社殿前の由緒板に書かれている。

 国道42号線を南下して昼過ぎ、尾鷲駅に着いた。前回の終点である。
 42号線はここからしばらく海岸線を離れてしまう。こちらは海岸線に沿って走りたいので、国道 311号線を楯ケ崎へ向かう。
 崖上を走る国道のわきに車2台分ぐらいの空き地があり、すぐそばに「楯ケ崎まで1.9km」という小さな道標が立っている。往復でも3.8km、まあ行ってみるか、という気持で細い道を辿り始めた。
 いきなり急勾配の下り坂で、石段になっている。1段あたりの高さがかなりあり、膝にこたえる。しかも1段の奥ゆきが中途半端で、右足で降りると左足は同じ段になり、また右足で降りることになる。つまり、片足ばかりが膝にくるわけで、逆にもう一方の足は常に体重を支えなければならない。それが延々と続き、この階段をまた登ってくるのかと思うと心配になる。
 引き返そうかという誘惑と戦いながら下って行くと、ようやく海面の高さになり、阿古師神社という殺風景な神社がある。ただの無人小屋のようだが、それでも熊野市指定文化財だそうで、11月には熊野水軍や捕鯨の勢子船の早漕ぎを彷彿とさせる競漕が行われるとか。
 そこからまた延々と急な登りが続き、ようやく展望台と千畳敷の道標を見つける。
 展望台の方に行ってみるが、とくに台というものはなく、尾根から遥か下に海面を望むだけで、それも立ち木に遮られて“展望”は良くない。そこから下って千畳敷に出る。
 ここはなかなかの景観で、平たい岩の広がる空間をさらに先まで行くと、有名な楯ケ崎の柱状節理が眼前に聳えている。
 
 楯ケ崎の柱状節理

 ここまで来る道で人には遭っていない。今まさにこの景色は俺一人のものだ、と思うとまんざらでもなく、岩上で立ち小便をしながら、退職した幸せを噛みしめた。
 帰りはさらに難儀であった。アップダウンを繰り返すのは来たときと同じだが、最終的には崖上の国道と海面との高低差を逆に辿るわけだから、仕方がない。
 車に戻ったときは全身汗まみれで、とてもそのまま運転はできないから、道路わきで素っ裸になって、シャツからパンツから全部取り換えた。車が2,3台通ったが、気にしている余裕はなかった。1.9kmという表示を甘く見た結果だが、以前何かの本で読んだ、
  
   行きが三里で帰りが三里、
     合わせて六里はちょっと六里(無理)

という狂歌が思い出される。
 道々砂浜を見つけては砂を採り、地図にある海水浴場を探して漁村の路地に迷い込んだりしながら七里御浜まで来た。既に真っ暗で、寝場所を探して道の駅に行ってみたりしたが、従業員が閉店の準備をしていたりして、どうにも居心地が悪く、ここはという場所が見つからない。
 やっとのことで、海岸防風林の脇、というより国道42号線の路肩に車1台がやっとの空き地を見つけ、そこで寝ることにした。悪条件は承知だが、42号線は狭い上に交通量が多く、おちおち寝場所を探している余裕がない。
 暗くて定かではないが、長男が小学校に上がる前の春休みに来た辺りだと思う。
 あのとき長男は、浜辺で小石を拾っては海に向かって投げていた。小柄なお婆さんが大層な剣幕で長男を叱りつけ、私に向かって、
「波はおとろしいでぇ。波はおとろしいでぇ」
と2回繰り返した。あれから30年近くが経っているが、私は折にふれ、感謝の念をもってそのことを思い出す。
 長い夜になった。なにしろ42号線は紀伊半島の幹線道路であるから車の往来が激しい。その路肩に寝ているわけだから、ひっきりなしに通る車のライトとエンジン音は、容赦なく車内に入ってくる。トラックが通れば、私の体は車ごと揺れる。
 腹が膨れれば眠れるかと思い、夜中に缶詰を開けて食べたりしたが、結局眠ったような眠らなかったような、なんとも疲れる夜であった。


30日(月)
 ようやく朝になった。といっても辺りの暗さは深夜と同じだが、それ以上寝ていられないので、のろのろと起き出し、昨夜行った道の駅に移動した。

 幸いトイレに明かりがついている。用を足していると、突然洗浄水が流れた。まだ途中であり、今流れられても困る。暫くするとまたザーッと。
 何気なく横を見ると、そこに洗浄用のボタンがあり、「手をかざして下さい。水が流れます」と書いてある。それが体の横にあるものだから、身動きしただけで流れてしまうのだと判明。試しに体を動かしてみると、その度に流れる。早朝で人がいなかったから良かったものの、昼間だったら、中で何をしているのかと怪しまれたことだろう。

 洗顔を済ませ、浜に出ると、ようやく辺りがぼんやりと明るくなってきた。その薄明かりの中に、横向きに倒れた大きな船が見えた。
 
 
 横倒しになった「ありあけ」
つい先日、東京から鹿児島の志布志港に向かっていた8千トンのフェリー「ありあけ」が熊野市沖で突然傾き、そのまま漂流したという事故があった。
 乗客7人と乗員21名は海上保安本部のヘリコプターや巡視船で全員が救助されたものの、船はさらに岸に向かって流され、沖合い 200メートルでついに座礁、横転したと新聞やテレビで報道された。
 だから、今回の旅行中にひょっとしたら見られるかも知れないと思っていた。その船に違いない。
 野次馬根性を出して、そばまで行ってみることにする。車でほんの数分だ。砂浜に出てみると、すぐそばに巨船が横たわっている。 200メートルの距離があるとはとても思えない。ほんの50メートルくらいの近さに見える。
 船体には、はっきりと「ありあけ」の文字が。船の周りは海水がやや黒ずんで見え、オイルフェンスが張り巡らされている。小さな作業船が海面に向かって放水のようなことをしている。中和剤でも撒いているのかも知れない。
 横たわった巨体を見ていて、私はこんな船に乗客が7人しか乗っていなかったということに改めて驚いた。乗員21人というのだから、採算が合わないことは論を待たない。以前宮城県の金崋山に渡る 450人乗りの汽船に乗客は私と妻、娘の3人だけだったという経験があるが、船というのは斜陽なのだろうか。
 それにしても、こうして横たわっている船を腹の方から見ると、その形は鯖か鰤に酷似している。船というものが、何百年とかけて改良されてきた結果、ずっと昔から自然界に適応してきた魚の形に行きついたということなのだろうか。
 
 9時過ぎ、新宮市内にある徐福公園に着く。ここは初めてで、以前から是非行ってみたいと思っていた。
 秦の始皇帝について、私の浅い知識を長々と書き連ねることは慎むべきと思うが、私が徐福について抱いているイメージは、始皇帝の孤独と不幸に大きく関わっている。
 古今東西、政権が交代すると、新政権はしばしば前政権の建造物をヒステリックなまでに破壊するのが常であった。
特に始皇帝のように力で他を制圧してきた場合、死後にどのような扱いを受けるかは、目に見えている。
 人心の離反や反乱の兆しに焦った始皇帝は、焚書坑儒のような悪あがきを続けたが、それも自分の命あってのこと。死ねば、その瞬間に数々の建造物はもとより、秦の国家そのものが、跡かたもなく打ち壊されるに違いない。
 それを思い、これを思い、気の休まることのなかった始皇帝は、最後に、無敵を誇った自らの近衛軍団をそっくりそのまま等身大の焼き物に変えて地下に埋め、以て陵墓を守らせるという、壮大にして荒唐無稽な企てを実行に移した。世に言う兵馬俑坑である。
 そしてもう一つ、これこそが徐福に関わることであるが、始皇帝は自分が死なないための策を真面目に講じ続けた。自らは霊山に登って天に不老長寿を願い、一方で各地の学者たちに不老不死の薬を探させた。
 無論そのような薬があるわけはない。学者たちは始皇帝の怒りに身を任せる以外に術はなく、戦々恐々としていた。
 徐福もまたその一人で、一度は仙薬購入の旅に出たものの果たせず、怒り狂う始皇帝の前で苦し紛れに言い訳をした。
「鯨に阻まれて辿りつけませんでした。しかし東海の大神は良家の童男童女と様々な分野の技術者を献上すれば仙薬を取らせると言っています。必要な人材と費用をお預け頂ければ再度出向き、必ずや不老不死の薬を手に入れてまいります」
 始皇帝はその言にたぶらかされ、巨費と若い男女3千人を徐福に預け、旅立たせた。徐福は東の海上に浮かぶ蓬莱の国に渡り、
そのまま二度と帰ることがなかった。
 この蓬莱の国が日本であり、上陸し、住みついたのが和歌山県新宮市だというのである。
 3千人というのはいかにも眉唾であるし、他に1千人という史料もあるから、一応少ない数字で千人としてみよう。当時の船は絵を見てもせいぜい30人ぐらいしか乗れない。千人ならざっと3、40隻が必要で、その建造費だけでも気が遠くなる。加えて、それぞれの船には操船の乗組員、船大工、料理人、医者、雑用係などが必要で、さらに何日かかるか判らないが、その間の食糧、水、衣類などを考えると、途方もない費用がかかる。
 費用対効果ということを考えれば、無駄遣いもここに極まれりというところだが、人心掌握ままならず、権力だけが拠り所の支配者というものには、往々にしてその辺の判断がつかないことがある。これはなにも古代の専制君主に限ったことではなく、今日のワンマン経営者などによく見られる傾向でもある。
 さて徐福は、辿り着いた新宮で天台烏薬という妙薬を知ったというが、それにも拘わらず始皇帝にそれを届けることをせず、新宮に住み着いてしまった。土地の人々の温かさに、この地こそ桃源郷と思い心変わりがしてしまったとも言われているが、私は秘かにそうではないと思っている。
 徐福は初回の不首尾への言い訳の時点で、既に二度とこの専横な君主のもとには帰らぬ腹積りだったのではないか。
 あり得ない不老不死の薬を持ち帰れる筈はなく、始皇帝が二度の不首尾を許す筈もない。そのときこそ我が身の終わりと思えば、権力を振り回して臣民を追い詰める愚帝にこれ以上仕えるより、言葉も通じぬ異郷での苦労の方がまだマシというものではないか。
 だとすれば、3千人も、それも若い男女を連れて出たという訳も合点がいく。古来海外移民たちがそれぞれの地で「チャイナタウン」とか「リトル東京」などと呼ばれる一角を作って同郷人のコミュニティとしてきた歴史に通じるやり方である。
 私は、徐福と、それに従って家族と別れ様子も分からぬ異国への旅に出た無名の人々を題材に短い文を書いたこともある。それだけにこの徐福公園は、今回の旅で絶対に外せない見学地の一つであった。
 
 徐福公園
 遠くから一目でそれと判る中国風の楼門に心が躍る。すぐに中に入るのは勿体ないので、しばらく楼門を眺め、おもむろに園内に入る。
 小さいが、よく手入れの届いた気持の良い公園で、徐福の墓を中心に、不老の池、徐福像、顕彰碑、由緒板などが配されている。徐福の墓は天台烏薬の木に囲まれ、そこだけが和風の雰囲気になっている。
 その墓の前で地元の商店主といった風情の男性が一人、腰を90度に折って 何度も礼拝をしている。一心不乱で、折りしも入ってきた中国人団体の傍若無人な騒ぎにも全く動ずることなく祈り続けている。
 邪魔をしてはいけないと思い、先にほかを見て回りながら様子を窺ったが、礼拝はいつかな終る様子がない。
 そんな男性のひたむきさには頓着なく、中国人たちが我がもの顔で大声を上げながら、徐福の墓に寄りかかって写真を撮ったりしている。中国人というのは、どこに行っても自分たちのことしか考えない。エチケットもマナーも関係ない。嫌な民族だ。
 かなりの時間が過ぎ、最後にやはり私としても徐福の墓には詣でておきたいと思って近づいてみると、その人はしっかりした声で般若心経を唱えていた。
 さては仏教徒かと思っていると、続いて今度は神教の祝詞らしいものを唱え始めた。何だかゴチャゴチャ言ったあと、「かしこみかしこみまおーす(申す)」と言う。確かに地鎮祭や結婚式などで聞く神主さんの口上だ。なんだかよく判らぬが、真面目で律義な市井の人を見たようで、こちらも気持が良い。
 この人、結局私が公園を出るまでそうして一心に祈っていた。
 去り際に、園内を掃除していた中年の男性に声をかけた。入園のとき、「よくお出でくださいました」と言ってくれた人である。
「ありがとうございました。徐福への思いが増しました」
と言うと、
「そうですか。是非またお出で下さい。お気をつけて」
と笑顔で言われた。久しぶりに清々しい気分になった。
 


第7回 名古屋~尾鷲(2) 第8回 尾鷲~芦屋(2)
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