第5回 沼津 ~ 新居町 (2) 1999.04.04 ~ 05 (1泊2日)


1999年4月5日(月)
 早朝、公園のトイレで用便、洗顔を済ませ、カップラーメンとコーヒーで朝食。 正面に富士山が見える。
 三保の松原は素通り。言わずと知れた羽衣伝説の舞台である。なんでも羽衣伝説というものは日本中にあるらしく、いくつかは私も聞いたことがある。中には妙に艶っぽいものもあったりして、なかなか面白い。
 ここ三保の松原と滋賀県の余呉湖、京都府の峰山町のそれは日本三大羽衣伝説とか言われて有名であるが、やはり羽衣といえば三保の松原、三保の松原といえば羽衣で、ここを見ずして羽衣伝説は語れない。
 それに三保といえば、小学校以来、「砂嘴」という地形を勉強するときには必ず出てくる地名であり、「白砂青松」という言葉も「三保の松原」という言葉とセットで記憶している人が殆どであろう。
 かく考えれば、素通りする場所ではない。
 しかし実は、ここには何回か来ている。 前回は家族で来た。
 その時、子供たちは砂浜を駆け回っていたが、私は羽衣の松を見上げていた。 樹齢 650 年という巨松は石囲いが巡らされ、辺りを睥睨している。 立派過ぎ、枝も太過ぎて、天女が羽衣を掛けたくなるような風情はない。
 まあ、昔はそこそこの大きさだったのであろうから、それはいいが、白砂青松というのはとんでもない偽りで、砂は粗めで、何より真っ黒である。 別に黒いから悪いということではない。黒い砂には黒い砂の美しさがある。 なぜ白砂と偽るのか。
 前に、木曽川は木曽川自体で素晴しく、なにも日本ラインなどと外国の川の名前で呼ぶことはない、ということを書いた(cf. 第4回、河津~沼津)。ここでも折角の黒砂を白砂と偽る卑屈さに「静岡県よ、しっかりしろ」と言いたくなる。
 そのときも、そんなことを思いながら車に戻ったが、車内がやけに臭い。 子供たちも 「臭い、臭い」 と大騒ぎをしている。 よもやと疑いながら靴の底を見ると、そこには犬の糞らしきものがべったりと付いていた。
 どうも天下の名勝三保の松原には良い印象がない。 素通りしたのは、そんな訳である。

 南安倍川橋を渡り、安倍川右岸河川敷に降りる。
 橋の下にダンボールとビニールシートでいくつか囲いが作られ、ホームレスと思しき人の姿が見える。
 ホームレス。 昔はルンペンと言った。 それがドイツ語であることなど知る由もなく、ごく自然にルンペンと呼んでいた。おそらく当のルンペンたちも、それがドイツ語であるとは露知らぬまま、「ルンペンは3日やったらやめられない」などと嘯いていたものと思う。
 どういういきさつだったかは覚えていないが、私は学生時代にそのルンペンたちと親しくなり、駅の地下通路で一緒に生活を始めたことがある。
 無論、いざとなれば帰る家もあり、とりあえずの食事をする現金も持っている。 ルンペン道にもとる、ただの遊びである。
 で、これがやってみると、どうしてなかなか楽しいもので、確かに3日やったらやめられない。 始めのうちこそ蔑視のシャワーに苛まれる気分であったが、日経ずして、蔑視どころか実は誰も私なんぞ見ていないということに気づき、それからというものは、なんとも自由な、屈託ない毎日を楽しみ、気がついてみれば1か月以上も家に帰らなかった。
 ルンペンは、社会の最下層にいると言ってよく、誰にも相手にされない。ゆえに、誰も相手にする必要がない。どんな格好をしていようが、どこに寝ようが、誰も気にかけないから、自分も気にする必要がない。
 それでいながら、どういうわけか、日に数百円の収入がある。 ルンペンは、同じルンペンでもそれぞれにテリトリーらしきものを持っており、どこの地下道のどの辺かという居場所がある。 そこに皿を置いておくと、いつの間にか、誰かが小銭を入れてくれるのである。
 番をしている訳ではないので、ほかのルンペンに盗まれたりしそうなものだが、私の記憶の範囲では、そういうトラブルは聞いたことがない。
 1日数百円あれば、一応飢え死にしない程度のものは食べた上で、酒も飲める。
 当時は酒家ならぬ酒屋の店頭で、酒を量り売りしていた。 仲間で金を出し合ってスルメなど買って行き、日本酒か焼酎を1合ほどコップに入れてもらって立ち飲みするのであるが、これがすこぶる良い。
 道端で立ったまま安酒を飲んでいる訳であるから、体裁が良くないことは確かだが、誰もそんなことは気にしない。談論風発とめどもなく、ときにはもう1合を買い足したりして、いつまでも、いつまでも、飲んでいた。
 その後私は職につき、家庭も持ち、小さな家も建て、相応の税金も払い、不相応の借金もしている。 つまり、守るべきものがうんざりするほどあり、放棄できない責任に縛られている。 もはやそれらをすべて投げ出してルンペンになることはできない。
 できないが、もし死んで生まれ変わるということがあるものなら、せめて来世の来世ぐらいには、もう一度ルンペンになってみたいと思っている。
 さて、この安倍川河川敷のルンペン、今風に言えばホームレスはどうであろうか。 私のようなお気楽なルンペンごっことは違って、深刻な事情を抱えているであろうし、夏は蚊に刺され、冬は寒さに凍えてもいるであろう。
 それでも、世間の多くの人がつまらぬ地位や見てくれのために振り回され、争い、やり場のないストレスに苛まれているのに比べればずっとマシな部分もあるのだから、どうか得難い自由を大切にしていってほしいものだと思う。

 御前崎を過ぎると、浜岡原子力発電所。 その先に「ねむの木子ども美術館」がある。 女優の宮城まり子さんが設立した肢体不自由児のための療護施設「ねむの木学園」の子供たちが描いた絵や木工品などが陳列されている。
 7年ぶりの再訪。 展示されている作品からは障害という概念は伝わってこない。純粋な子供の感性が館内いっぱいに漂っており、「障害者の絵」などという先入観は鑑賞の邪魔になる。
 
 美術館を出て海に向かって歩いて行くと、浜岡砂丘に出る。その先に、南遠大砂丘が続く。
 これら遠州灘に面して広がる長大な砂丘は、地元住民が人智をもって自然と共存する壮大な物語の舞台である。
 この一帯には、天竜川から流出する大量の土砂が沿岸潮流に乗って広がり、次に強い西風によって内陸に運ばれることで、高さ15~20メートルもの砂丘が形成されていった。この砂丘は軟弱で、強風のたびにさらに内陸側に運ばれる。
 そのため風下の集落や畑地が埋没する被害が続いていたのだが、大正末期からこの砂丘の移動を食い止めようという途方もない企てが続けられ、現在に至っている。
 それは、海岸線に対して45度の角度で堆砂用の竹垣を何列も並べ立てるというものである。 すると、上空の風はそのまま内陸に進むが、地表の風は垣に当たって斜めに海に向かって進み、そこに新たな砂丘を作る。その上に竹垣を補充することによって効果を増大させ、斜め砂丘をさらに巨大化、強化してゆく。この新たな砂丘には無数の竹垣が埋設されていることもあって、以前のような移動性がなくなり、人々は砂による被害から解放されたというのである。
 私はこの竹垣をそっと押してみた。 無論びくともしない。次に、この竹を砂に打ち込んだ人の作業を真似て、石で竹の頭を叩いた。 1ミリたりとも沈まなかったが、人々の労作に対する敬意はさらに深まった。

 天竜川を渡り、海辺の防風林に沿って西進すると、中田島砂丘に出る。 日本三大砂丘の一つに数えられているということだが、そう自称している砂丘は全国に5,6か所あり、あまりアテにはならない。
 ハマエンドウの蔓が一面に絡み合い、マスクメロンの網目のようになっている。まだ花は咲いていない。 所々に弘法麦が出ているが、これはあまり見栄えのするものではない。
 この中田島砂丘には、ほろ苦い思い出がある。
 1970 年に大阪千里丘陵で大阪万博が開かれた。アジアで初めての万国博覧会、史上最多の入場者、等々形容詞にことかかない大規模なもので、大変な盛況であった。 そのため各パビリオンに入るには、「人類の進歩と調和」というテーマが「人類の辛抱と長蛇」と揶揄されるほどの行列に並び、何時間も待たねばならなかった。
 それを聞いて私は、浅野君、鶴岡君という2人の生徒と車で大阪に向かい、会場近くの空地に野宿しながら9日間通いつめ、すべてのパビリオンを見て回った。
 その行き帰り、この中田島砂丘にテントを張って寝た。 帰りのキャンプのとき、夕食後に月明かりの中で泳いだ。 波が高く、何度も流されたが、それがまた面白く、大騒ぎしながら泳ぎ続けた。
 ふと気がつくと、鶴岡君の姿が見えない。
「浅野! 鶴岡は?」
「えっ?」
 全身凍りつくような思いに襲われ、
「鶴岡ー! つるおかー!」と声を限りに呼び続けた。 浅野君も懐中電灯をかざして鶴岡君の姿を探しながら懸命に友の名を呼んだ。 呼び声が波音にかき消され、絶望感が募る。
 見える筈もないのに、水に潜ってもみた。
「つるおかー!」
 そのとき、後方の松林の中から、ハーイという、間延びした声が聞こえた。 鶴岡君だった。
「どこ行ってたんだっ!」 と怒鳴る私。
「クソしてました」という返事に座り込む浅野君。
 
1970年、夏 
 中田島砂丘でのキャンプ

 以来、中田島砂丘という言葉に接する度に、あのときの全身を襲った絶望感が蘇る。
 その後何度も行き、次男も今回が2度目であったが、いつしか家族も私がそこに何度も行くことに気づいたようで、「お父さんは中田島砂丘で何があったんだろうね」 と言い合っているらしい。

 浜名湖畔の新居町駅で、国道1号線と 301号線が分かれている。1号線を行けば、その先42号線に分かれて渥美半島南岸を進むことになる。 301 号線なら浜名湖畔を辿って東名高速に出る。
 もう休みがないので、今回はここで日本一周ルートを終え、東名高速で帰ることにする。 今回の一周ルートは 258キロ、通算で 879キロになった。
 それでもまだ、全体の15分の1くらいか。


第5回 沼津 ~ 新居町(1) 第6回 新居町 ~ 名古屋(1)
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