第5回 沼津 ~ 新居町 (1) 1999.04.04 ~ 05 (1泊2日)
湘南は路側帯や空き地がなく、車が停めにくい。 つい通り過ぎて砂を採りそこねている砂浜なども多いので、今回は、そんな所をもう一度チェックしようと、敢えて何度も通っている湘南海岸経由で西へ行くことにする。
次男と一緒だ。
1999年4月4日(日)
金谷からフェリーで久里浜に渡り、三浦半島の中央部を通って衣笠へ。
この衣笠には、吉海という友人が住んでいる。吉海とはまた珍しい名前だと思うであろうが、これは実名ではない。本当は吉川というのだが、こういう所に実名を出すと、あとでなにかのはずみでこの文が本人の目に触れたときに面倒なので、適当に書いておく。
その吉海、私の高校時代に衣笠から木更津に転校してきた。
都会から来たんだという鼻持ちならぬ態度で、言葉使いなども、私たちが 「あんでオメエはぐずぐずしてんだよ。早よやれさ。やれんだっぺ 」と言うところを、「どうして君はそう時間がかかるのかね。早くやり給え。やれるんでしょう」という具合で、どうにも親しめない。
頭も切れて、当時生徒会役員であった私の活動を、非効率であると全校集会で舌鋒鋭く糾弾した。勝ち負けを言うならば、私の負けであった。私の友人たちは議論の本質よりも、勝ち誇ったような吉海の態度に反感をもって、私を慰めてくれた。
ところが田舎の女学生たちは、東京湾の向こうからやってきた都会のプレイボーイに手もなく弄ばれたらしい。田舎の女学生の前に現れた都会の秀才とくれば、もう勝負はあったも同然で、男に免疫のない女たちは、手もなくものにされたということであった。
話によれば、誘うのはいつも夜。その頃はまだ木更津も空気が澄んでおり、満天に星が輝いていた。吉川、いや吉海はその星々の名を女の子に教えるのが常であったらしい。女たちはうっとりとして、
「吉海さんって、何でも知ってるのねぇ」
と言って、身悶えたという。
後日私は、その真偽を確かめるべく、星夜の校庭で彼をテストしてみた。なるべく目立たない、小さな星ばかりを指してその名を尋ねたのだが、一つとして彼が答えられないものはなかった。
そのときになって私は、彼の答が合っているのかでたらめなのか、全然判らない自分に気づき、忸怩たる思いに苛まれたが、あとの祭りである。
その後、田舎の男たちの間で「吉海は何でも知っているのではない。星のことしか知らないんだ」という話が広がりはしたが、それはどうも負け犬の遠吠えのようで、悔しいが吉海が博識であったことは認めざるを得ない。
ただ、おのれの博識ぶりをひけらかす悪癖はいささか感じが悪く、評判も悪かった。それがその後直ったという話も聞かないから、世の中、何が災いするか判らぬものである。
そうは言っても、この男はやっぱり勉強ができた。加えて世俗的な雑学にも長けており、ロケットの作り方などといったことを講じては男たちを煙に巻き、星座の名前などを並べ立てては女たちをその気にさせた。
何から何まで気に入らないヤツであるが、あるときその吉海が私に忠告したことがある。
「君は人と喧嘩をするときに、完膚無きまでに相手を叩きのめしてしまう。論争においてもグーの音も出ないほど相手をやり込めてしまう。それじゃあダメだ。喧嘩にせよ、論争にせよ、相手の逃げ道を用意してから始めるものだ」
なにを。私には到底承服できない話である。相手が立ち直れないところまでやっつけてこその勝者ではないか。
しかし、その忠告は正しかった。その後、私も少しずつは成長し、成長するにつれてその忠告の正しさを理解していった。
勝者と敗者ができた場合、敗者にも一部正当性があったと認めることで、敗者は反省もし、やり直す気力を持つこともできる。勝者への恨みも抑えられる。それが 100対0の結果で終った場合は、敗者には勝者への恨み以外なにも残らず、勝者は後々までも敵として記憶に残る。それはしばしば勝者を苦しめ、ときには実際に勝者に災いをもたらすことにもなる。
悔しいが、吉海の言うとおりであった。もっと悔しかったのは、それが孫子の兵法からの受け売りだということを知ったときであるが、そのときにはもう、吉海とは滅多に会うこともない別の道を歩いていた。
葉山を抜けて逗子海岸へ。
海岸の砂を採るため、国道 134号線沿いの駐車場に入る。ここは売店利用の場合40分間無料となっていた筈だが、入ってみると、なんと売店は改修工事のため休み。入口のおばさんに訊くと、自動販売機で飲み物1本でも買えばタダで、買わなければ駐車料金を 300円貰うとのこと。これで買わない馬鹿がいるものだろうか。
小田原から箱根新道を通り、三島、沼津と進む。先日テレビのドラマで、俳優の榎木孝明さんが写生をしているシーンがあり、それが沼津の牛臥海岸ということだったので、沼津御用邸記念公園に車を停めて、行ってみる。
旅の途中で、映画やテレビで見た場所に立ち寄るのは楽しいもので、自分がちょっと価値ある場所に立っているような気分になれる。画面の続きの景色が見られて、なんだか得をしたような気分にもなる。
沼津市役所前。前回ここで日本一周コースを終えたので、今回はここをスタート地点にしてトリップメーターをゼロに戻す。
県道 380号線を通って田子の浦へ。
私は万葉集の歌など殆ど知らないが、それでも山辺赤人の、
田子の浦にうち出てみれば白妙の ふじのたかねに雪はふりつつ
という歌は、百人一首に出てくるので、覚えている。その歌に詠まれた情景を巡って先生に喰い下がった覚えもある。
富士の高嶺に雪は降りつつ、というが、田子の浦に浮かんだ舟から富士山に雪が降る様子が見える筈がない、これは「降りつつ」ではなくて「積もれり」とすべきではないか、というのが私の主張であり、万葉の歌人を向こうに回して大それたことであったと思うが、そういう身の程を知らぬところが若さの滑稽さであろう。
私は次男に、ここが歌人の詠んだ場所であると教え、詠われた情景についてウンチクを傾けた。であるから、後年、赤人が詠んだ田子の浦はここではなく、もっと西の蒲原町あたりであると知ったときには、心底うろたえた。
今さらあれは間違いだったと言うのは、いかにも格好悪い。さりとて息子に間違った知識を与えたとなれば、父親として面目ない。どうせ覚えてはいないだろうなどと迷っているうちに言いそびれてしまい、今に至っている。
間違ったときは、時を移さず訂正しないと、いつまでもそれが後ろめたさとして残ってしまう。
その田子の浦に沿って西へ。 国道1号線を走り、清水市内に入った所で、「三保・日本平左折」という案内標識を見つける。
三保への三叉路は何度も通っている。三保へ行くにはその三叉路を左、日本平へ行くには直進の筈である。えっ、なに? と思っているうちに直進してしまった。
ところが、これが大間違いで、道はどんどん内陸部に入ってしまう。標識は「ここを左折するとやがて三保・日本平の分岐点に出る」という意味だったようだ。間違いに気づき、左折々々で国道 150号線に戻り、なんとか見覚えのある三保への三叉路に出たものの、結局30キロ以上も遠回りをしてしまう。
辺りも暗くなってきたので、この夜は三保半島の突端で寝ることにし、まずコンビニでビール、お茶、氷とハミガキを買う。
真崎海水浴場前の駐車場のような所に着く。車が何台か停まっていて、釣り人の姿が見える。
既に辺りは真っ暗で、海を隔てた前方には清水港の明かりが輝いている。神戸港、長崎港と並んで日本三大美港の一つに数えられているということだが、今はただ白い明かりの束しか見えない。
それはまあいいが、どうもこの日本三大ナントカというのは多過ぎないか。そもそも何を基準に3つを選ぶのか。旅をしているとやたら三大ナントカにぶつかるが、どうもご当地基準が前に出過ぎており、あまり信用はできない。
レトルトカレー、レトルトご飯、カップラーメン、缶詰、ソーセージと豪華な夕食。次男が作るからできるのであって、一人旅のときにはとてもこうはいかない。
夜中に小用に出ると、車は殆どいなくなっていたが、すぐ近くに停まっていた乗用車の中に人がおり、こちらの気配に驚いた様子。こちらも驚く。
子供の頃、毎朝新聞配達をしていたが、ある神社の脇を通るときはいつも真っ暗であった。ある朝、私は闇に紛れて針金で賽銭を盗み、それを仲間うちで自慢した。無論、金額は知れたもので、飴玉1個も買えはしない。仲間の反応も冷淡といってよかった。
かくなる上は賽銭箱の中身をごっそり盗んで男を上げよう。そう思った私はある朝、真っ暗な中を賽銭箱の後ろにしゃがみ込んで鍵を開けようと試みた。
鍵穴に釘を突っ込んで悪戦苦闘することしばし。物音を立てぬようにコソコソやっているものだから、いつかな開きそうにない。とうとう諦めてひょいと立ち上がった。
すると賽銭箱の向こう側、暗闇の中に人が立っていた。早朝の参拝であったと思うが、その人から見れば賽銭箱の中から人が飛び出したようにも見えたであろう。ヒャーッとかキャーッとか、名状し難い悲鳴を上げた。
それ以上に驚いたのは私の方である。声も出ず、足も動かず、心臓だけはドーンと1回、大槌を振るわれたように鳴り響いた。いや音が出た訳ではなかろうから、鳴り響いたというのは正確ではない。音速を突破したときに受ける衝撃波・・・いやそれも体験したことがないからどんなものか分らぬ。
とにかく絶体絶命の恐怖心というのは、ああいうものであろう。
それに比べて、今回はただ小用のために外に出ただけであり、別段やましいことをしていた訳でもないから、驚きはしたものの、あのときのような恐怖心に襲われることはなかった。 けだし、悪事は自らを追い詰めるものである。
次男と一緒だ。
1999年4月4日(日)
金谷からフェリーで久里浜に渡り、三浦半島の中央部を通って衣笠へ。
この衣笠には、吉海という友人が住んでいる。吉海とはまた珍しい名前だと思うであろうが、これは実名ではない。本当は吉川というのだが、こういう所に実名を出すと、あとでなにかのはずみでこの文が本人の目に触れたときに面倒なので、適当に書いておく。
その吉海、私の高校時代に衣笠から木更津に転校してきた。
都会から来たんだという鼻持ちならぬ態度で、言葉使いなども、私たちが 「あんでオメエはぐずぐずしてんだよ。早よやれさ。やれんだっぺ 」と言うところを、「どうして君はそう時間がかかるのかね。早くやり給え。やれるんでしょう」という具合で、どうにも親しめない。
頭も切れて、当時生徒会役員であった私の活動を、非効率であると全校集会で舌鋒鋭く糾弾した。勝ち負けを言うならば、私の負けであった。私の友人たちは議論の本質よりも、勝ち誇ったような吉海の態度に反感をもって、私を慰めてくれた。
ところが田舎の女学生たちは、東京湾の向こうからやってきた都会のプレイボーイに手もなく弄ばれたらしい。田舎の女学生の前に現れた都会の秀才とくれば、もう勝負はあったも同然で、男に免疫のない女たちは、手もなくものにされたということであった。
話によれば、誘うのはいつも夜。その頃はまだ木更津も空気が澄んでおり、満天に星が輝いていた。吉川、いや吉海はその星々の名を女の子に教えるのが常であったらしい。女たちはうっとりとして、
「吉海さんって、何でも知ってるのねぇ」
と言って、身悶えたという。
後日私は、その真偽を確かめるべく、星夜の校庭で彼をテストしてみた。なるべく目立たない、小さな星ばかりを指してその名を尋ねたのだが、一つとして彼が答えられないものはなかった。
そのときになって私は、彼の答が合っているのかでたらめなのか、全然判らない自分に気づき、忸怩たる思いに苛まれたが、あとの祭りである。
その後、田舎の男たちの間で「吉海は何でも知っているのではない。星のことしか知らないんだ」という話が広がりはしたが、それはどうも負け犬の遠吠えのようで、悔しいが吉海が博識であったことは認めざるを得ない。
ただ、おのれの博識ぶりをひけらかす悪癖はいささか感じが悪く、評判も悪かった。それがその後直ったという話も聞かないから、世の中、何が災いするか判らぬものである。
そうは言っても、この男はやっぱり勉強ができた。加えて世俗的な雑学にも長けており、ロケットの作り方などといったことを講じては男たちを煙に巻き、星座の名前などを並べ立てては女たちをその気にさせた。
何から何まで気に入らないヤツであるが、あるときその吉海が私に忠告したことがある。
「君は人と喧嘩をするときに、完膚無きまでに相手を叩きのめしてしまう。論争においてもグーの音も出ないほど相手をやり込めてしまう。それじゃあダメだ。喧嘩にせよ、論争にせよ、相手の逃げ道を用意してから始めるものだ」
なにを。私には到底承服できない話である。相手が立ち直れないところまでやっつけてこその勝者ではないか。
しかし、その忠告は正しかった。その後、私も少しずつは成長し、成長するにつれてその忠告の正しさを理解していった。
勝者と敗者ができた場合、敗者にも一部正当性があったと認めることで、敗者は反省もし、やり直す気力を持つこともできる。勝者への恨みも抑えられる。それが 100対0の結果で終った場合は、敗者には勝者への恨み以外なにも残らず、勝者は後々までも敵として記憶に残る。それはしばしば勝者を苦しめ、ときには実際に勝者に災いをもたらすことにもなる。
悔しいが、吉海の言うとおりであった。もっと悔しかったのは、それが孫子の兵法からの受け売りだということを知ったときであるが、そのときにはもう、吉海とは滅多に会うこともない別の道を歩いていた。
葉山を抜けて逗子海岸へ。
海岸の砂を採るため、国道 134号線沿いの駐車場に入る。ここは売店利用の場合40分間無料となっていた筈だが、入ってみると、なんと売店は改修工事のため休み。入口のおばさんに訊くと、自動販売機で飲み物1本でも買えばタダで、買わなければ駐車料金を 300円貰うとのこと。これで買わない馬鹿がいるものだろうか。
小田原から箱根新道を通り、三島、沼津と進む。先日テレビのドラマで、俳優の榎木孝明さんが写生をしているシーンがあり、それが沼津の牛臥海岸ということだったので、沼津御用邸記念公園に車を停めて、行ってみる。
旅の途中で、映画やテレビで見た場所に立ち寄るのは楽しいもので、自分がちょっと価値ある場所に立っているような気分になれる。画面の続きの景色が見られて、なんだか得をしたような気分にもなる。
沼津市役所前。前回ここで日本一周コースを終えたので、今回はここをスタート地点にしてトリップメーターをゼロに戻す。
県道 380号線を通って田子の浦へ。
私は万葉集の歌など殆ど知らないが、それでも山辺赤人の、
田子の浦にうち出てみれば白妙の ふじのたかねに雪はふりつつ
という歌は、百人一首に出てくるので、覚えている。その歌に詠まれた情景を巡って先生に喰い下がった覚えもある。
富士の高嶺に雪は降りつつ、というが、田子の浦に浮かんだ舟から富士山に雪が降る様子が見える筈がない、これは「降りつつ」ではなくて「積もれり」とすべきではないか、というのが私の主張であり、万葉の歌人を向こうに回して大それたことであったと思うが、そういう身の程を知らぬところが若さの滑稽さであろう。
私は次男に、ここが歌人の詠んだ場所であると教え、詠われた情景についてウンチクを傾けた。であるから、後年、赤人が詠んだ田子の浦はここではなく、もっと西の蒲原町あたりであると知ったときには、心底うろたえた。
今さらあれは間違いだったと言うのは、いかにも格好悪い。さりとて息子に間違った知識を与えたとなれば、父親として面目ない。どうせ覚えてはいないだろうなどと迷っているうちに言いそびれてしまい、今に至っている。
間違ったときは、時を移さず訂正しないと、いつまでもそれが後ろめたさとして残ってしまう。
その田子の浦に沿って西へ。 国道1号線を走り、清水市内に入った所で、「三保・日本平左折」という案内標識を見つける。
三保への三叉路は何度も通っている。三保へ行くにはその三叉路を左、日本平へ行くには直進の筈である。えっ、なに? と思っているうちに直進してしまった。
ところが、これが大間違いで、道はどんどん内陸部に入ってしまう。標識は「ここを左折するとやがて三保・日本平の分岐点に出る」という意味だったようだ。間違いに気づき、左折々々で国道 150号線に戻り、なんとか見覚えのある三保への三叉路に出たものの、結局30キロ以上も遠回りをしてしまう。
辺りも暗くなってきたので、この夜は三保半島の突端で寝ることにし、まずコンビニでビール、お茶、氷とハミガキを買う。
真崎海水浴場前の駐車場のような所に着く。車が何台か停まっていて、釣り人の姿が見える。
既に辺りは真っ暗で、海を隔てた前方には清水港の明かりが輝いている。神戸港、長崎港と並んで日本三大美港の一つに数えられているということだが、今はただ白い明かりの束しか見えない。
それはまあいいが、どうもこの日本三大ナントカというのは多過ぎないか。そもそも何を基準に3つを選ぶのか。旅をしているとやたら三大ナントカにぶつかるが、どうもご当地基準が前に出過ぎており、あまり信用はできない。
レトルトカレー、レトルトご飯、カップラーメン、缶詰、ソーセージと豪華な夕食。次男が作るからできるのであって、一人旅のときにはとてもこうはいかない。
夜中に小用に出ると、車は殆どいなくなっていたが、すぐ近くに停まっていた乗用車の中に人がおり、こちらの気配に驚いた様子。こちらも驚く。
子供の頃、毎朝新聞配達をしていたが、ある神社の脇を通るときはいつも真っ暗であった。ある朝、私は闇に紛れて針金で賽銭を盗み、それを仲間うちで自慢した。無論、金額は知れたもので、飴玉1個も買えはしない。仲間の反応も冷淡といってよかった。
かくなる上は賽銭箱の中身をごっそり盗んで男を上げよう。そう思った私はある朝、真っ暗な中を賽銭箱の後ろにしゃがみ込んで鍵を開けようと試みた。
鍵穴に釘を突っ込んで悪戦苦闘することしばし。物音を立てぬようにコソコソやっているものだから、いつかな開きそうにない。とうとう諦めてひょいと立ち上がった。
すると賽銭箱の向こう側、暗闇の中に人が立っていた。早朝の参拝であったと思うが、その人から見れば賽銭箱の中から人が飛び出したようにも見えたであろう。ヒャーッとかキャーッとか、名状し難い悲鳴を上げた。
それ以上に驚いたのは私の方である。声も出ず、足も動かず、心臓だけはドーンと1回、大槌を振るわれたように鳴り響いた。いや音が出た訳ではなかろうから、鳴り響いたというのは正確ではない。音速を突破したときに受ける衝撃波・・・いやそれも体験したことがないからどんなものか分らぬ。
とにかく絶体絶命の恐怖心というのは、ああいうものであろう。
それに比べて、今回はただ小用のために外に出ただけであり、別段やましいことをしていた訳でもないから、驚きはしたものの、あのときのような恐怖心に襲われることはなかった。 けだし、悪事は自らを追い詰めるものである。
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