第4回  河津 ~ 沼津             1998.01.05 ~ 06 (1泊2日)


 暮れに次男と第4回の旅に出ようと思い、2人分の食糧を買い込んだが、直前になって次男が腸炎を起こしたため、中止。
 開けて正月に、娘の友達が泊まりに来るということになり、布団が足りないので、私と次男は追い出されることになった。そこへ長男が京都の下宿から帰ってくるというので、3人で出かけることにする。


1998年1月5日(月)
 今回は伊豆半島南端が起点となるので、三浦半島経由ではなく、先月開通した東京湾横断道を通って行くことにする。
 この横断道、10年の歳月と1兆 4,000 億円をかけてようやく開通した海底トンネルである。通行料は片道 4,000円。日本一高い有料道路という。それもどうかと思うが、それよりもその道に「アクアライン」などという名前がつけられているのが、どうも気に入らない。
 海の底を通っているところからアクアと洒落てみたつもりであろうが、いったい「 ライン 」という言葉に道路という意味があるものだろうか。
 日本には、○○ラインという道路がいやになるほどあるが、どうやらラインという言葉が初めに使われたのは「 日本ライン 」あたりらしい。言うまでもなく、道路の名前ではなく、木曽川のことである。木曽川の美しさをドイツのライン川になぞらえてのことであろう。
 しかし、木曽川はそれ自体で実に美しく、これぞ木曽川と言われるべき価値がある。なにもライン川の名前など借りる必要はない。第一、木曽川とライン川では川相がまるで違う。ライン川はゆったりと流れる幅広の川で、水もあまりきれいとは言えず、木曽川の清冽な流れとは似ても似つかない。それでも川沿いに古城や瀟洒な町が散在して、世界中から観光客を集めている魅力的な川ではある。ゆえにドイツ人はその川に愛着も誇りも持っているようで、間違っても「 ドイツ木曽川 」などとは呼ばない。
 なぜ日本人は、自国の宝とでも言うべき貴重な川を堂々と「 木曽川 」と呼ばずに、他国の川の名前などで呼びたがるのだろう。
 日本アルプスなどという言い方もまったく同じで、飛騨山脈、木曽山脈、明石山脈というれっきとした名前がありながら、明治時代に来日したイギリス人がアルプスのようだと言ったものだから、日本人は大喜びで「 日本アルプス 」などというちぐはぐな呼び方をするようになった。
 チベットとネパールの間に聳える山をイギリス人エベレストの名で呼んだことに対し、チベット人は「 冗談じゃない。あの山はチョモランマだ 」と主張し、ネパール人は「 サガルマータだ 」と主張した。
 その自分たちの山に対する誇り高い姿勢に共感した世界の人々が今、エベレストという言い方をしなくなったのは当然で、「 ライン 」だの「 アルプス 」だのと言って喜んでいる日本人の卑屈さとは大違いである。
 尤も、日本においてこういうやり方が実際的な効果を生んでいることも事実で、日本人の多くは、欧米の事物にわけもなく劣等感を抱いているから、欧米の権威を借りた表現にはテもなく参ってしまう。
 かくして「 日本ライン 」はたちまち定着し、木曽川下りならぬライン下りという舟まで出ている。
 その二番煎じというか、今度はビーナスラインだのスカイラインだのという道路が出現した。この場合は川の名前である Rhein を Line と間違えてのことだろうが、これまた噴飯もので、Line には道路という意味はないし、スカイラインという言葉から、高所の道路を思い浮かべる欧米人はいない。なぜなら、Skyline という英語がちゃんとあり、しかもその意味はまったく違うからである。
 であるから、私はアクアラインなどという国籍不明意味不明の言葉を使う気にはとうていなれず、今でも構想段階で使われていた「 東京湾横断道 」という言葉を使っている。使う度に相手が奇妙な顔をして、アクアラインのことですか、などと訊いたりするのが、やや面倒ではあるが。
 しかし、そういう私のこだわりは別として、この道はさすがに便利で、あっという間に川崎に着き、初詣の車で渋滞していたにも拘らず、午後6時には前回の終点、河津浜に着いてしまった。
 ここでトリップメーターをゼロに戻し、日本一周の続きにはいる。

 すぐに白浜中央海水浴場。閉鎖中の海の家があったので、その陰に車を停め、今夜の宿とする。
 シャツやパンツに使い捨てのカイロを貼って寝たが、それでも寒くて何度か目が覚めた。
 小用に出ると、星が出ている。 残念ながら、星空というほどではない。
 私がこれまでに見た星空で、最も感動的だったのは青森県の谷地頭で、草地で寝袋から顔だけ出して見上げた夜空は、人口のプラネタリウムもかくやという満天の星であった。空全体が白っぽく見えるほどの星で、距離感が掴めず、手を伸ばせば届くのではないかと半ば本気で思ったほどであった。
 二番目は西オーストラリアのセルバンテス郊外で砂丘にあぐらをかいて缶ビールを飲みながら見上げた空。一人旅の感傷も手伝ったとは思うが、次々と線を引く流れ星に、柄にもなく人恋しい気分を味わったりもした。
 三番目は中学時代に校庭で見た木更津の星々。三番目というのはちょっと怪しく、実際には「 星降る如く 」と形容されるような夜空をあちこちで見ているし、私の行っていない星空の名所は数知れないから、そのうちベストテンにも入らなくなるだろう。
 ただ、私は中学時代、科学部というインチキクラブに入っており、毎晩のように校庭で望遠鏡を覗き、土星の輪を写真に撮ったりしていた。天の川の形をどれだけ正確に図にできるか、仲間と競ったりもした。その木更津の空は今、北斗七星とオリオン座ぐらいしか見えない汚れたものになっている。
 それゆえ、グランドキャニオンで息子たちに天の川を見せたとき、それまで実物を見たことのなかった木更津育ちの息子たちは、どうしてもそれが星の集まりだとは理解できないらしく、やれ煙だとかやれ雲だとか言い張って、最後まで私の言うことを信じようとしなかった。
 彼らが七夕の物語を聞いても、殆どイメージが湧かないのではないか。

1月6日(火)
 爪木崎を回って、石廊崎へ。
 駐車場は 500円で、その手前に土産物屋の無料駐車場がある。勿論何か買わなければならないが、どうせ 500円払うなら、その分で何か買った方がトクだと思い、車をつける。途端に店のオバサンが飛び出してきて、買い物をすればタダだと念を押す。分かってるよ、と言いたいところだが、息子たちの手前、グッとこらえる。
 石廊崎まではかなり長い上り坂になっている。岩場に出ると、そこに石室神社があり、その先が伊豆半島最南端の崖だ。まっすぐ立っていられないほどの強風だが、柱状節理の岩から成る磯に白いさらしが広がって、すばらしい景観を楽しめる。

 波勝崎の野猿公園は強風のため、ゲートが閉ざされており、餌場まではマイクロバスで行くことになる。面白みはないが、仕方がない。
 バスは餌場前の売店入口にピタリとつけ、バスを降りると否応なしに売店に入ってしまう按配になっている。殆どの客は寒いので、そのまま売店の中から猿を見ているが、それでは動物園と同じことなので、強引に外に出る。
 ところが猿も、こんな日は餌をくれる客が売店から出てこないことを知っていて、売店の鉄格子に掴まったり、その前で餌を奪い合ったりしていて、広場の方には全然出てこない。
 次のバスが着き、客が降り始めた。旅4
 と、「うわーっ」とも「ヒャーッ」ともつかない悲鳴が起こり、趣味の悪い派手なコートを着たオバサンが、猿に眼鏡を取られたと騒ぎ出した。
 私たちの乗ったバスでも、降りるときが一番狙われ易いから、眼鏡は手に持って降りるようにと注意があった。大方、お喋りに夢中で聞いていなかったのであろう。
 それなのに、自分の不注意を棚に上げて、係員に詰め寄り、早く取り返してちょうだいと、金切り声を上げている。
 前に来たときは風もなく、猿も広場に出ていたが、私の目の前で妙齢の婦人がハンドバッグを奪われた。驚きと恐怖で声も出せずに立ち尽くしている婦人に代わって、誰あろう、この私が果敢に猿を追いかけて急斜面を駆け登り、ついにハンドバッグを取り返した。我ながら、騎士道にかなった崇高な行為であった。
 今回、私がそのオバサンのために一歩たりとも動かなかったのは言うまでもない。無論、係員も動こうとしない。

 昼過ぎ、松崎町の長八美術館に着く。
 ここ松崎町で生まれた江戸時代の左官入江長八が確立した漆喰鏝絵。その作品が所狭しと展示されたこの美術館は、私が西伊豆に来るたびに立ち寄るお気に入りの場所で、今回も家を出る前から息子たちに熱く語っておいた、旅のハイライトである。
 なのに、息子たちはそれぞれの作品の前で時間をかけている私を尻目に、一通りざっと見ただけで、外で私を待っていた。こういうのを罰当たりと言わなくて何と言うか。
 3時過ぎ、沼津市役所前で今回の日本一周コースを終わりにする。 河津浜から 174キロ。 初回からの通算で 521キロ。全行程の20分の1というところであろうか。

第3回 平塚 ~ 河津 第5回 沼津 ~ 新居町(1)
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