第3回  平塚 ~ 河津             1997.10.11 ~ 12 (1泊2日)


 久々に土・日曜日と続いて休みが取れたので、前回の続きを走りに出る。 今回は高校2年の次男を同行させる。

1997年10月11日(土)
 早朝5時に家を出て、金谷からフェリーで久里浜へ。そこから前回の終点湘南大橋に向かう。
 荒崎海岸の手前に駐車場がある。駐車場と言ったってただの草地で、1,000 円と書かれた板が倒れている。人もいないので、ままよと車を停めて海岸に出る。
 採砂のついでに立ち小便をして車に戻ると、空地の入り口でおばさんがパイプ椅子に腰かけている。空き地側に背中を向けているところを見ると、入ってくる車を止めて料金を取るのであろう。
 おばさんが振り向かないことを祈りながらそっと近づき、一気に走り抜ける。畑でも資材置き場でもない、ただの草地に2、3分車を停めて砂を採っただけである。カネなど払ってなるものか。

 湘南大橋。前回はここで終っているので、トリップメーターをゼロに戻して今回の始点とする。
 小田原の早川口で、国道 134号線に出るため左折したところ大渋滞で、早川駅前までの1キロで42分かかる。歩けば10分の距離だ。
 真鶴駅前を左折して、源頼朝ゆかりの岩海岸に下りる。
 治承4年、平家打倒を期して旗挙げした頼朝が石橋山の合戦で大庭景親に敗れて、海路安房に逃げる。今の鋸南町竜島に着いた際、舟から飛び降りた頼朝はサザエを踏みつけてしまった。
 その痛さに思わずサザエに向かって、貝の分際でそのような角を持っているとは不届きである、となじったそうで、以後、その地方で採れるサザエには角がなくなったという。
 そんな馬鹿な、と思っていたが、あるときその地方の海産物土産店に入ったところ、本当に角がないので仰天した。尤も、これは私が無知だっただけであり、角のないサザエなど、どこにでもある。
 それはともかく、この地にしばらく逗留した頼朝は、陸路房総半島を北上して鎌倉に入ることになるが、出立にあたって、その家の主に言った。
「 此の度はたいそう世話になった。今はこのように身をやつしているが、やがて平家を倒して源氏の世を興した暁には、望み通りの礼を取らせる所存じゃ。なんなりと言うてみい 」
 主はたいそう喜び、それでは安房一国と姓を賜りたい、と答えた。また法外なねだり事をしたものである。
 ところが頼朝は、これを「粟一石」と聞き違えた。粟といえば江戸時代の水飲み百姓が食したと聞くが、今では十姉妹の餌ぐらいにしかならない雑穀である。
「 そうか 」
 なんと欲のないことよ、と思いつつ、頼朝が笑って答えると、今度は主が聞き違えた。 「 左右加(そうか)」の姓を賜ったと勘違いし、以後、左右加を名乗ったという。
 以前、その鋸南町に住む左右加さんという女性が私の勤務先に就職してきた。鋸南町には左右加姓は何軒あるかと訊くと、1軒だけだと言う。それでは、あなたはもしや頼朝を助けた人の子孫ではないかと訊くと、そうです、とのこと。
 へぇー、と思った私は、この故事にことのほか興味を持ち、詳しく調べてみた。そして、頼朝が海路敗走する際、乗船した場所が真鶴半島の付け根の岩海岸だったことを知った。 
 だから岩海岸は、今回の行程で必ず寄ろうと楽しみにしていた場所である。
 ところが、いざその海岸に着いてみると、なんの変哲もない入り江で、数家族がバーベキューをしている。『 頼朝旗挙げ祭り 』と書かれた幟が立ち並んでいる以外には、とくに名所というような雰囲気もない。

 
 三ツ石海岸
 半島先端の真鶴岬へ。
石段をかなり下りて、3つの岩が海面に顔を出している三ツ石海岸に着く。ひと抱えほどの石がごろごろ転がっており、その間にわずかな砂がある。
 岬という言葉は、それだけでなにがなし旅情を誘う響きがあり、実際、岬を訪ねてがっかりするということは、まずない。とりわけ冬の岬には、えも言われぬ風情がある。
 といって、夏の岬が悪いということもない。
 いつか妻と訪ねた函館の恵山岬は、咲き残った浜茄子の花を尻目に、咲き終わった花が実をつけていた。私の年代の男は、例外なく若い頃に石川啄木に酔ったものであり、私も

  潮かおる 北の浜辺の 砂山の
    かのハマナスや 今年も咲けるや

という啄木の歌を思い出したが、それを口ずさむのはいかにもキザなので、やめておいた。 それでも、津軽海峡を背に群生するネジバナを見たときには感極まり、妻に聞こえぬように 

  みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに
    乱れそめにし われならなくに

という古歌を口にした。ネジバナの別名「もじずり」に因んでのことであるが、実は歌にある 「もぢずり」 は染物の名であり、ネジバナとは何の関係もない。
 分かってはいても、ネジバナというとその歌を思い出してしまうのは、「ウスバカゲロウ」というトンボの名を見るたびに「 薄馬鹿下郎 」と思ってしまうのと同じかも知れない。正しい名が「 薄羽陽炎 」であることは、言うまでもない。
 
 国道 135号線を南下しているうちに、すっかり暗くなってしまった。有名な伊東のホテル、サンハトヤの向い側、国道と伊豆急行の線路の間に小さな空き地があったので、そこを今夜の寝場所と決める。
 コールマンのバーナーでお湯を沸かし、カップラーメン、レトルトご飯、レトルトカレーで夕食をとる。無論、コンビニで買ったビールがメインである。
 枕を忘れてきたために首が痛いのと、あまりの寒さとで何度も目が覚める。そんな中、蚊が入ってきて更に眠りを妨げる。この時期、この寒さで蚊に襲われるとは、腹立たしいやら、恐れ入るやら。

10月12日(日)
 朝、寒さで目が覚めるとまだ4時。そのまま眠れず、5時過ぎにサンハトヤでトイレを済ませ、出発。
 城ケ崎海岸に着くと、黄色い蛍光色のジャンパーを着た年配の男性が近づいてきた。てっきり駐車料金を取りにきたのかと思ったら、吊り橋への行き方を教えにきてくれたのだった。どうやらボランティアらしい。駐車場はタダ。どこへ行っても駐車に金がかかるので、こういう所があると感激してしまう。
 以前来たときには橋の上が大混雑でスリルも何もなかったが、今日は時期のせいか時間のせいか、殆ど人がいない。よくサスペンスドラマなどで殺人事件の現場としてロケに使われる所なので、存分にその雰囲気を味わう。

 9時半過ぎ、河津浜のT字路に着く。
 ここを右折すると前に家族で泊まった大滝温泉を経由して中伊豆に向かうことになる。大滝温泉を覚えているか、と次男に声をかけると、けしからぬことに親不孝息子はぐっすり眠り込んでいて、起きる気配など、さらにない。
 明日の仕事を考え、今回はここで引き返すことにする。151キロ。前2回との通算で 447キロ。全体の30分の1くらいか。
 来た道を引き返すと、伊東市に入った辺りから、午前10時というのに上り車線の渋滞が始まる。都内や埼玉県のナンバーをつけた車が多いところを見ると、土曜に泊まって、日曜日はひたすら帰るという家族連れなどであろう。
 渋滞に嫌気が差し、気分転換に大室山に登る。リフトわきの斜面は一面のススキに覆われ、モノトーンの美しさを醸し出している。リフトが上昇するにつれ、伊豆シャボテン公園、その向こうに一碧湖などが見えてくる。
 頂上に着き、火口を一周する。景色はさらにすばらしく、海上には大島、利島、式根島が見える。
 後年、その次男が東京で一人暮らしをしているとき、今度は妻と娘を連れて大室山に登った。同じ火口の縁を歩きながら次男に電話をし、お前と歩いたその場所に今また立っているぞと告げた。
 次男は明らかに迷惑そうな声で、「それで?」と訊いた。横で娘が「そんなことで電話してるの?」と素っ頓狂な声をあげた。
 どいつもこいつも、火口に落ちて死んでしまえばいい。

第2回 久里浜 ~ 平塚 第4回 河津 ~ 沼津
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