第1回  木更津 ~ 久里浜     1995.12.23 (日帰り)


 51歳のときに焦る気持で始めた日本一周だが、思えば、退職前の、時間に追われる旅は慌ただしく、フラストレーションを溜め込むための旅のようであった。

1995年12月23日(土)
吾妻神社

 暗いうちに家を出た。   
 自宅から海岸に出る途中に吾妻神社がある。
 日本武尊が東征のみぎり海難に遭い、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神の怒りを鎮めんとて荒れ狂う波に身を投じた。上総の海岸に漂着した尊が媛を偲んだ場所は今、「恋の森」という地名で呼ばれている。
 尊がいつまでも立ち去らずにいたという意味の「君不去(きみさらず)」が「木更津」の古名であり、木更津市民歌には「照りそう浦は君不去」と詠われている。
 その弟橘媛の櫛だか袖だかが流れ着いた所に建てられたのがこの神社であり、「吾が妻」が社名の由来である。境内の祠には媛の木像が祀られている。
 と知ったようなことを書いたが、なんのことはない、ここは私たちの子供の頃の遊び場で、棒の先に鳥もちをつけて賽銭箱に突っ込み、小銭を盗んだ場所である。
 今回は罪滅ぼしと旅の安全祈願とで10円玉を1個、賽銭箱に投げ入れた。そのあと、さすがに気が引けて1円玉を1個追加したが、あまりご加護は期待しない方がいいかも知れない。
 
 数キロ進むと潮干狩り場がある。有料である。
 貝を掘るのにお金を払うというのは信じられない。
 私たちの子供の頃は家の手伝いの一つに夕飯のおかず採りというのがあった。蓮田に行くと、お百姓さんが、折れたり小さかったりして売り物にならない蓮をいくらでもくれた。海辺の海苔干し場に行けば網についた海苔がもらえたし、海に入ればアサリや蛤が採り放題であった。
 もっとも、アサリも蛤も採るとその場で打ち欠いて、塩水で洗って食べてしまう。食べたり泳いだりしているのでなかなかたまらないが、それでも帰るときにはバケツがいっぱいになり、それが夕飯のおかずになった。
 だから潮干狩りが有料になったことにはどうしても馴染めず、その後は一度も貝を掘っていない。1回の料金はたかが知れているのだが、気持の上で抵抗があって足が向かないのである。
 
 その先に、名にしおう小櫃川河口干潟がある。東京湾に残る唯一の干潟とかで、環境保護団体は言うに及ばず、労働組合までがその保全を叫び続けている有名な場所であるが、私はこれまで来たことがない。
 干潟の手前がコンクリート護岸になっており、その下はさながらごみ捨て場。洗剤の容器からテレビ、冷蔵庫、布団まで、どうやって持ってきたのかと思うくらい捨ててある。
 改めて思い返してみると、日本でごみのない海岸を歩いた記憶というのはないような気がする。
 昔、波打ち際にはなぜか浣腸の容器がやたら落ちていたし、最近でも砂浜に続く松林にはエロ本やシンナー遊びのビニール袋が散乱している。一度、ニュージーランドから来た高校生を海に連れて行ったときに、海岸になぜゴミが落ちているのかと真顔で尋ねられたことがあった。確かにニュージーランドの砂浜でごみを見たことはない。
 日本人の民度はまだまだだと思う。
 そんな場所ではあるが、ごみの先はコンクリートで固められていない自然の干潟で、一面に葦が茂り、砂地には蟹の盛り上げた小山が累々と続いている。近づくと、蟹が一斉に穴に逃げ込み、わずかに残った水の中ではハゼの仲間が足の間をすり抜けてゆく。
 
 東京湾沿いに走って、船橋海浜公園に出る。
 海辺に向かって歩いて行くと、砂浜がゆらゆら動いて見える。怪訝に思いながら近づいてゆくと、パラパラ、パラパラという感じで海鳥が舞い上がった。ついで、砂浜全体がふわっと浮くように無数の海鳥が飛び立った。よく見ると、キアシシギの群らしい。
 いつだったか、オーストラリアのロッキンガム沖合にある無人島で、夥しい数のセグロアジサシに囲まれたことがある。ギャーギャーとけたたましい鳴き声をあげながら私の周りを飛び交い、1羽が頭にぶつかった。 野生の鳥が人間を避けられないことはあるまいから、あれは私をテリトリーへの侵入者と見て攻撃したのだと思う。足元にも群れ、うっかり歩くと踏み潰してしまいそうだ。
 同じボートで島に渡った人が数人いた筈なのだが、どこにも姿が見えない。ヒッチコックの『 鳥 』を思い出し、ここで鳥に襲われても誰も気付いてくれないと思うと、本当に怖かった。
 それに比べると、ここの群はのどかで、優雅である。1羽々々は点のようで、全体が一枚のカーテンか空飛ぶ絨毯のようにも見え、右に左にそよいでいる。見たことはないが、オーロラもこのように見えるのかも知れぬなどと思う。
 
 東蒲田のコンビニでアンパンと缶コーヒーを買う。日本中どこに行ってもコンビニがあり、便利であるが、私はこのコンビニでの客と店員との間にある寒々とした空気があまり好きではない。
 店員は必要以上に元気に「いらっしゃいませこんにちは!」と言う。「いらっしゃいませ」と「こんにちは」の間には間(ま)というものが全くない。本来2語のところを1語の如く続けて発音する。どこの店に行っても同じである。客が年寄りだろうが中学生だろうが、口調を変えるということはない。つまり、個々の客に言っているのではなく、業務マニュアルに従って“お勤め”として発音しているだけなのだ。
 一方、客の方は無言である。「こんにちは」なんて言う客はまずいない。欲しい物を黙ってレジカウンターに載せる。店員がバーコードリーダーで品物をなぞり、金額を告げる。客は無言で金を出し、品物を受け取って店を出る。この間、客は一言も発せずに買い物ができる。
 個人差もあろうが、人はだいたい小学校に入る前ぐらいから一人で“お買い物”ができるようになる。5,6歳ごろからコンビニで買い物をしている日本の子供は、無言で用を足す習慣をしっかりと身につけてしまう。
 それで高校生ぐらいになると、この習慣を学校にまで持ち込む。「お早うございます」「さようなら」「ありがとうございます」といった挨拶が今の若者から聞かれなくなってきたのは、その辺りにも原因がありそうだ。
 私は教員として生徒に挨拶の大切さを教えていたことでもあり、コンビニでも努めて店員と言葉を交わすようにしていた。今でも店員がこんにちはと言えば、勿論、こんにちはと応える。品物をカウンターに置くときは、お願いしますと言う。ときには「暑いですね」などと言うこともある。
 それに対して、殆どの店員、とくに若い店員は無言であったり、明らかに戸惑ったりしている。つまり、そういうやりとりはマニュアルになく、従ってどう言い返したらいいか、分らないのである。
 私とて、店員をいじめるのが目的ではないから、それが却って店員の負担になりそうなときは控える。そうしているうちにだんだん挨拶をしなくなり、今では、「お願いします」だけしか言わないことの方が多い。
 私自身がだんだん人間としての感覚を失ってきているようだ。

 午後2時、観音崎に着く。
 緑の中に遊歩道があり、椿の花が咲いている。坂を登ると八角形の観音崎灯台がある。幕末に外国船の航行を助けるために作られたとかで、日本で初めて点灯された洋式灯台だそうだ。
 ここからは眼下に浦賀水道が望める。対岸の富津岬までは6、7キロだそうで、見るからに狭い。そこを大型船が何隻も通っており、素人目にも危険が感じられる。
 あとで知ったのだが、観音崎は円谷英二監督の特撮映画「ゴジラ」で、海底に眠っていた太古の怪獣ゴジラが水爆実験によって目を覚まし日本に上陸する、その上陸地点だということ。当時小学生だった私はその映画を夢中で観たものだが、上陸地点の地名などは全く記憶にない。
 それにしても、特撮映画といえば日本、特撮といえば円谷英二と絶賛された時代があったことには、誇らしい気持とせつない気持が相半ばする。今はなんでもCGで、それも特撮を遥かに超えたリアルな映像が作れるから、逆に普通の映像を見ても、これはCGだろうと思ってしまう。圧倒的なスペクタクルが狭い部屋でコンピューターの操作で作られていると思うと、なんとなく興が醒めるような気分にもなる。
 CGがなかった時代、映画の特撮斑は総力を挙げて感動的な映像を作り上げた。あの熱気がいまや古臭いもの、幼稚なものとして忘れ去られようとしている。せつない気分を禁じえない所以である。

 東京湾をぐるっと回り終え、三浦半島の先端、久里浜に出た。ペリー提督上陸記念碑の前でパンを齧りながら考えた。この先へ進めばどこかで泊まるか、夜中に走って帰らねばならぬ。明日の勤務を考えるとどちらもできない。ここからならフェリーがある。
 家に帰ることにした。ここまでで201キロ。全行程の100分の1強を走って、早くも帰宅である。宮仕えの身の悲しさが身に沁みる。この調子でちまちまやっていて、日本一周など達成できるのだろうか。
 房総半島の金谷までフェリー。そこからは約1時間で自宅だ。

前書き・旅に出たい 第2回 久里浜 ~ 平塚
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