前書き・旅に出たい


前 書 き

 古今東西、などと大仰なことを言わなくても、身近に、充実した人生を送っている人が沢山いる。
「 匠 」と呼ばれるような職人を見ていると、自分ももう一度生まれ変わってこられるものなら、あんな風になってみたいと思う。「 ○○一筋何十年 」というような人を見ると、目標を持った人のかっこ良さに、妬ましいほどの羨望を覚える。
 それにひきかえ我が身を顧みると、何一つ、人並み以上のものがない。鏡に映る白髪頭を見ると、俺はこの歳まで何をやってきたのだろう、と忸怩たる思いに苛まれる。
 学校の教員としての仕事は、常に待ったなしの連続。日々目の前の問題処理に追われ、ライフワークとしての積み上げをしている暇がない。
 子供3人の養育は、躾や教育という以前にそのためのカネを得ることが大変で、いまだに教育ローンの後遺症に苦しんでいる有様である。

 何につけても劣等感ばかりが強かった子供時代を含め、もう60年もの間、何一つ人に誇れるものの無いまま、あれに追われ、これに追われて日々を過ごしてきた。
 ひとつのことに没頭するとか、集中するとかいうことがなく、いつもいつも、これでいいのかという漠然としたもの足りなさの中で今日に至っている。
 そして気がついたらもう、父の没年齢を遙かに越えてしまった。人生もそろそろ終わりに近づいているということであろう。
 今さら何か一つ仕上げることなど、できよう筈もない。だから死んだら、私のことなどたちまち世間から忘れ去られ、私の名前は人の口にものぼらなくなるであろう。
 それはまあそれでいいとして、せめて雑魚は雑魚なりにあくせくと日を送り、愚痴ったり、たまには笑ったりしていることを知ってもらいたいと思い、これまで翻弄されてきた雑念、怨念、羞恥の念に、折々の雑感を交えて書いてみることにした。
 一応、旅の記録に沿って書いてゆこうとは思うが、旅行記ではない。これまで思ったり言ったりしてきたことを書いてもおくが、エッセイでもない。
 ただの、猥雑な、備忘録である。


旅に出たい

 もう十分働いた。十二分に嫌な思いもした。死ぬ前に少々いい思いをしたからとて、ご先祖様に叱られることもあるまい。
 そう思って、定年後の職探しはしないことにした。それが定年まであと4年余りを残した 60歳の秋のことである。
 以前は、定年になったら生活できない、再就職はできるだろうか、と心配していた。それが、変わった。
 収入がなくなったら、使わなければいい。
 さいわい私は、物心ついたときからずっと、貧乏神と一緒に暮らしてきた。耐乏生活には慣れている。
 だったら、毎日職場で悪意の輩に足を引っ張られながら、不愉快な思いをして少しばかりのカネを得るより、ツクシやノビルで食い繋ぎながらでも、自由に生きた方がいいのではないか。
 役目とはいえ、人を追い詰めたり、本意にもとる芝居をしたりして、飯も喉を通らぬ思いをずっとしてきた。 本当は無位無官で自分に正直に生きたいと思っていた。 子供がいる間はそんな呑気なことは言っていられないが、ようやく子供たちも自分で生活できるようになった。
 もう、いいだろう。
 という訳で、働くのをやめた。 65歳である。
 時間はたっぷりある。それまでは仕事に追われ、自分の時間は細切れにしか取れなかったから、どんなに面白い本でも一気に読み終えることができなかった。 旅先で興味が広がって、もう少しここにいたいと思っても、もう少し先まで行きたくなっても、仕事のために帰らなければならなかった。
 これからは、徹夜で本を読んでも、翌日は一日中寝ていられる。無計画な旅にも出られる。そう思うと、やっと本当の自分に戻れるという喜びで、木々の色まで違って見えた。
 思えば、学生時代はずいぶんと無計画、無鉄砲な旅をした。それが仕事に就いてからは、どこに行くにも必ず帰宅日を決めた上で出かけるのが当たり前になってしまった。
 泊まりたい所で泊まる。帰りたくなった日に帰る。 そんな旅を、もう40年以上もしていない。
 まず、旅に出よう。
 それが、退職を間近にして膨らんだ第一の夢である。
 旅と言ったって、たいしたものではない。この歳で、日本列島徒歩縦断とかいって何か月も家に帰らないような旅はとうてい無理。
 実は私は学生時代、そのたぐいの旅に何度も挑戦した。徒歩で、自転車で、バイクで、鈍行列車で、壮大な計画を立てては家をあとにした。

 

 そのくせ、当初の計画を達成したことは、一度もない。
 いつも途中で挫折して、すごすごと家に帰った。挫折の理由はどれも、取るに足らぬ、些細なことである。
 あるときは野宿しながら270キロ歩いたところで、とある小学校の校庭にテントを張らせてもらおうとして、断られた。その足で最寄りの駅に行き、東京行きの夜行列車に乗ってしまった。兵庫県の加古川。計画の3分の1である。 
 またあるときは、2,300 キロのヒッチハイクを企てた。4日目の夕方、福島県の郡山駅に隣接する運送会社のデポで、北行きのトラックに乗せてもらいたいと頼んだ。明朝仙台までのトラックがあるから来るようにと言われたが、私はそのまま駅に行き、青森行きの夜汽車に乗ってしまった。
 八戸の牧場で数日間やっかいになり、気を取り直してヒッチハイクを続けたが、角館でまた汽車に乗り、新潟経由で帰ってきてしまった。
 無銭旅行をしていれば、断られるのはしょっちゅうで、だめで元々、断られたら別の場所や手段を探せばいいだけのことである。 実際、駅のベンチで寝ようとして追い出され、駅舎横の便所で寝たことだってある。
 それなのにどうして、校庭を貸してくれなかったぐらいで挫折したのか。どうして乗せてやると言われたのに乗らなかったのか。郡山では仙台行きの運転手さんが、現れる筈の私を待っていただろうに。
 思い当たる理由はある。加古川では学校の管理責任ということについて説明された。郡山では、生活を懸けて働いている運転手にとって、遊びで便乗するヒッチハイカーは迷惑な存在であると諭された。
 訳も言わずに怒鳴られたりするのは慣れっこで、そんなことは屁とも思わないのだが、理由を言われると、それが尤もなだけに返す言葉もなく、落ち込んでしまう。 張り詰めた気分がふっと断ち切られてしまう。
 そうなるともう、どう自分を立て直そうとしても心が奮い立たない。いや、自分を鼓舞しようという気持さえ湧いてこない。
 旅に限らず、そんな挫折は無数にしてきた。思えばもう仕事をしないと決めたのも、仕事に対する張りがスッと途切れてしまったことと無縁ではない。

 車で日本一周をしたい。千葉県木更津市の自宅から海岸線に沿って時計回りに走って元に戻る。およそ 13,000 キロになるらしい。
 そう思ったのは10数年前であるが、無論できる訳はない。定年前は時間がないし、定年後は体力がないだろう。唯一の方法は、何回にも分けて、何年もかけて尺取り虫のように繋いでいくことだ。
 それなら1年でも早く始めなければ、死ぬまでに回り切れない。そう思って早速出かけたのが51歳のときであるが、案の定、時間がなく、ちょっと走っては中断し、忘れた頃にまたちょっと走るという按配であった。
 だから仕事をやめたあと、まずやりたかったのは、この日本一周の続きであった。 
 私の考えた旅は実に安直なものである。一応おおまかなコースは考える。車に寝袋とコッヘル、ガスコンロを積んで出かけ、のんびりと寄り道をしながら行ける所まで行く。陽が落ちたら車を停め、カップラーメンと缶ビールで夕食をとり、寝袋にくるまる。 安い宿があれば泊まるのもいいが、急な一人客は歓迎されないから、車中泊の方が気が楽ではある。
 嫌なことがあって落ち込んだら、さっさと帰る。嫌なことはなくても、なんとなく気が乗らない日というのもある。そんなときはためらわずに帰る。 1日で帰ってもいい。3日で帰ってもいい。順調なら1週間でも2週間でもいい。残ったコースは後日、中断地点まで行って続ければいい。
 キーワードは「自由気儘」である。


  第1回 木更津 ~ 久里浜
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