キウイ・イングリッシュ

  

自国語に誇り、ニュージーランダー


     勤務先の高校で、海外交流の一環としてホームステイ・プログラムを実施していた。
     私は担当者として生徒を連れてニュージーランドやオーストラリアに行っていたが、現地
    での仕事には当然のことながら英語を使うことになる。
     昼間は受け入れ校で生徒の監督をしたり、校外学習の引率をしたりするほか、向こうの教
    員との打ち合わせやら毎日の職員会議に出たりもする。
     夜は受け入れ家庭を訪ねて、問題の有無を確認したり、各家庭で行われるホームパーティ
    に出たりということをほぼ毎日続けることになる。教員宅に招かれ、夕食をご馳走になった
    りするのも仕事のうちだ。

     そんな毎日で、生徒から「私のホストファミリーが先生の英語はすばらしいと言ってます
    よ」ということを何度か言われた。 生徒が私のことを社会科の教員だと言うと、「えっ?
    英語の先生じゃないのか」とも言われるらしい。
     私の英語がまるでなってないことは、誰よりも私がよく知っており、本音を言うならば、
    夕食に招待などされるよりも、ホテルの部屋で英語を喋らずに過ごさせてもらう方がどれほ
    ど有難いか知れない。
     では、なぜそんな私の英語を褒めるのか? 西洋人特有の社交辞令だと思っていた。 し
    かし何年か通ううちに、あながちお世辞ばかりでもないということに気がつく。
     一番の理由は、私の英語がたどたどしい中学英語だからだ。
     たとえば発音。 「水」というとき、私の発音は「ウォーター」というようになる。 ア
    メリカ人の発音を聞いていると、水は「ワーラー」というように聞こえる。かのジョン万次
    郎が作った辞書に、水のことがワラと書かれていたのは有名な話だ。
     同じく「市・街」はシリィと聞こえる。 「合衆国」はユナイレッステイツだ。 つまり、
    tの音が限りなくrに近い。
     しかし、そういう発音はなかなか難しく、ついついtの音をタチツテトのように発音して
    しまうのが私の英語だ。

     だんだん分かってきたことだが、ニュージーランドやオーストラリアではアメリカ式の発
    音は嫌われる。 無教養なならず者が使う英語だというのだ。
     また文法についても、私は中学英語であるから、間違いだらけとはいえ、一応文法に沿っ
    てセンテンスを作っていく。 一方アメリカ人は、いいのかい?と言いたくなるほど文法を
    無視して喋ることが多い。 Long time no see. とか No like. とか平気で言うし、 Got it.
    などと主語を省いた言い方もごく普通に使われている。
     これがニュージーランドやオーストラリアでは下品とされているらしい。 実は両国でも
    近年は若者を中心にアメリカ英語が蔓延しているらしいのだが、それがまた年配者の癇に障
    るらしく、多くのホストファミリーで、子供、つまりホストステューデントが親に注意され
    たりしている。
     そういう環境では、私のように学校で習った英語をやっとこさっとこ使っている人間は「
    練度は低くても正統派の英語を話す教養人」として歓迎されるらしいのだ。

     まことに面映ゆいというより、身の置き所のない話なのだが、これはオセアニア両国の人
    たちが由緒ある英語、すなわちイギリス語を正しく継承している自分たちの英語を、米語に
    勝るものと思っている証左でもある。
     イギリスで食い詰めたり、イギリスから追わたりしてアメリカ大陸に移住し、銃の力で領
    土を広げていった無法者たちが、ガムを噛みながら崩していった英語を蔑む気風が、両国に
    残っているということでもある。
     実はそういう彼らの多くも、元をただせばイギリスで罪を犯してオーストラリア大陸に強
    制移住させられた囚人の末裔だったりするのだが、その辺のことは棚に上げて、現在もなお
    イギリス連邦の一員であることに誇りを持っているというのだから、まあ、あまりグローバ
    ル・スタンダードとは言えない価値観ではある。

     それに、由緒ある英語というが、ニュージーランド人やオーストラリア人が喋る英語は、
    イギリス人の英語とは発音がかなり異なる。 顕著な例が、エイをアイと言っているように
    聞こえることだ。
     有名な話で、He goes to hospital today. (彼は今日、病院に行きます)をオーストラリ
    ア人が言うと、He goes to hospital to die. (彼は病院に、死にに行きます)と聞こえる、
    というのがある。
     でき過ぎた話なので作り話であろうが、私がオーストラリア人にその話をしたところ、オ
    ーストラリア人自身が笑いながら「そうそう」と肯定したことがある。

     さて 1995年のこと。 この年のホームステイはニュージーランド北島のオタキ・カレッジ
    という高校で行われた。
     平日は先述のとおり昼も夜も結構忙しいが、土・日は学校がないので引率教員はすること
    がない。生徒が病気になったり何か問題があれば携帯電話に連絡がくるので、ホテルで待機
    している必要もない。
     そこで、200kmほど離れたパティアまでドライブしてみようかという気になり、大雑
    把な地図を頭に、北へ向かった。右も左も牧場ばかりで、自分が今どこを走っているかを判
    断する手がかりは殆どない。
     たまたま見かけた農作業中の人に道を尋ねた。 私も多少ニュージーランド英語に慣れて
    きていたから、「マインロードをまっすぐ」というのが main road のことだというのは分か
    った。
     しばらく行って現在地の地名を訊いたところ、「ヒマタンギ」と教えられた。 メモをす
    るために、どう綴るのかを訊いた。
    「アイチ・・・」
    アイチはエイチのことだろうと見当をつけ、手帳にHと書いた。
    「アイ」。 これはI。
    「エム」。 これはM。
    「アイ」。 またIと書く。
    「違う。アイだ」
    「・・・?」
    「アイ for Apple 」
    「ああ、Aね」。 Apple のAをアイと発音するのだと合点してAと書く。
    「ティー」。 これは問題ない。
    「アイ」。 Iと書く。
    「アイ for Apple 」
    「ああ、またAか」
    N、Gは良し。
    最後に「アイ」と言われ、そらきたとばかりにAと書く。
    「No, アイ for Indian 」
     そうやってようやく分かった地名はヒマタンギ Himatangiであった。
     AとI。 どちらも「アイ」」というから分からないのだ。
     この話を夜のホームパーティですると、皆笑っているが、AのアイとIのアイは発音が違
    い、聞き間違えることはないという。
     それでも for Apple とか for Indian とかいう言い方があるくらいだから、両者は相当似
    ているのだろうと食い下がると、まあね、という感じで頷きはするが、「日本人だから仕方
    がないか」というくらいの肯定で、腹の中ではどうしてこの違いが分からないのだろうと思
    っているようであった。
     take をタイク、make をマイク、steak をスタイク・・・だんだん慣れてはきたが、今後
    の連絡について打ち合わせているときに「イーマイルは使えるか」と訊かれたのには面食ら
    った。 E-mail のことである。

     かくイギリス語とは違う英語を喋る両国の人たちではあるが、それではニュージーランド
    人とオーストラリア人の英語は同じかというと、これが違うらしい。
     いくら説明されてもその違いが私には分からないのだが、ニュージーランド人はオースト
    ラリア人の英語を低く見ているし、オーストラリアにはニュージーランド人の英語を馬鹿に
    した話がいくつもある。
     聞けば、ニュージーランド人とオーストラリア人は互いに嫌い合っているということで、
    両国の気質、文化はことごとく違っているとのこと。唯一両国人に共通しているのは、互い
    に相手を嫌っているということだけだというジョークもある。
     私がニュージーランド人に「日本人の中にはニュージーランドをオーストラリアの一部だ
    と思っている人がいますよ」と言ったとき、その人が本気で怒ったのが忘れられない。

     まあ、ニュージーランド人にしてもオーストラリア人にしても、自国の言葉が最も優れて
    いると言い張る様子はいささか大人げないという気もしないでもないが、それでも日本人の
    ように誇りのない人種に比べれば、はるかに立派だと私は思う。
     日本人はなんでも外国語で言えば恰好良いと思っており、商業施設から鉄道、組合、遊園
    地等々、なんでもカタカナで名前がついている。ジェーアールなどと言われると、反吐が出
    るほどいやになる。
     さらに腹立たしいのは「巨人対阪神」というようなときに「巨人バーサス阪神」などとい
    うあれだ。「夢と希望」を「夢アンド希望」と言ったりする。バーサスの発音がVではなく
    Bになっているのも情けないが、「対」「と」で十分に通じるところをわざわざカタカナ語
    にする根性がもっと情けない。

     私は車の名前や商業施設の名前、アパートの名前などをことごとくカタカナにしている風
    潮にうんざいしているのだが、ニュージーランド人たちの、自国語に対する誇り、ひいては
    自国の文化に対する誇りを、日本人も少しは見習ってもらいたいものだと思っている。 

お羊様にうんざり、げんなり ああ言えばこう言うオッチャンたち
     
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